北条義時の姉・北条政子 - 刀剣ワールド
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「北条政子」(ほうじょうまさこ)は、鎌倉幕府を開幕した「源頼朝」(みなもとのよりとも)の妻です。父は鎌倉幕府の初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)、弟は2代執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)で、彼らと共に北条氏による実質的な鎌倉幕府支配の基盤を築きました。夫・源頼朝を亡くし、その息子らが若くして鎌倉幕府の将軍職に就くと後見役を務めて政務を代行し、「尼将軍」と呼ばれるほど影響力を持ったのです。伊豆の小領主の娘に生まれた北条政子が、源頼朝と出会ったことで将軍の妻になり、やがて亡き夫に代わって政治の実権を握るまでになった生涯をたどっていきましょう。
北条政子とは
北条時政の長女に生まれ、源頼朝と出会う
「北条政子」(ほうじょうまさこ)の父「北条時政」(ほうじょうときまさ)は、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の地方豪族でしたが、出自は詳しく分かっていません。その謎の多い前半生、1157年(保元2年)に、長女の北条政子は生まれています。
このように、特に目立つ存在ではなかった北条時政に、1160年(平治2年/永暦元年)、転機が訪れました。「平清盛」(たいらのきよもり)と政権を争って蜂起した「源義朝」(みなもとのよしとも)が敗走の末殺害され、その嫡子で14歳だった「源頼朝」は伊豆に流刑となります。
このとき伊豆の豪族で23歳だった北条時政が、源頼朝の監視役に任命されたのです。これは北条政子にとっても、その後の運命を方向付ける出来事になります。
大恋愛を貫き、源頼朝と結婚
源頼朝は流罪の身とはいえ、都育ちで名門武家の跡取りとして武芸と教養を身に付け、当時を伝える物語や公家の日記に「容貌優美」と書かれた若者でした。
そんな源頼朝と北条政子はいつしか恋仲になり、ふたりの関係は北条政子の父・北条時政の知るところとなりますが、当初北条時政は、この交際に大反対します。
なぜなら北条氏は平氏が祖先と称する一族で、その娘が、平氏の政敵である源氏の嫡男、しかも流刑者の源頼朝と結ばれるのを許すわけにはいかなかったのです。しかし、北条政子の決意は固く、とうとう北条時政は、源頼朝と北条政子の結婚を許しました。
鎌倉時代に成立した軍記物語には、北条政子が源頼朝に惚れぬき、父にそむいても結婚を強く望んだことを伝える逸話がいくつか書かれています。
そのひとつは「曽我物語」(そがものがたり)で、北条政子の妹が「日月をつかむ夢を見た」と話すと、北条政子は「それは不吉な夢だから、私に売りなさい」と勧め、妹に着物を与えて夢を買い取ったというもの。実は北条政子は、これが縁起の良い夢だと知っており、妹の幸運を横取りして源頼朝と結婚したという話です。
また「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、父・北条時政が北条政子を平家一門の男に嫁がせようとしたものの、北条政子は婚家を逃げ出して源頼朝のもとへ走り、駆け落ちしてしまったと伝えています。
これらの話は創作と考えられていますが、北条政子が野心家で情熱的な、意志の強い女性だったことがうかがえる伝承です。
夫・源頼朝が源平合戦に勝利し、鎌倉幕府を開幕
息子・源頼家を幽閉、死に追いやる
しかし、源頼朝は1199年(建久10年/正治元年)に急死し、鎌倉幕府2代将軍には18歳の源頼家が就任しました。
この若い将軍を補佐するために、13人の有力御家人による「13人の合議制」が発足します。
この13人には、北条政子の父・北条時政、弟・北条義時も名を連ね、北条氏は将軍・源頼家の外戚として、幕府内での存在感を増すはずでした。
ところが源頼家は、乳母や側室の出身家である比企氏の「比企能員」(ひきよしかず)を信頼して取り立てます。比企氏の台頭を警戒した北条政子と北条時政は、1203年(建仁3年)に源頼家が重病に倒れると、比企氏に謀反の動きありとして比企一族を滅ぼしました。
さらに北条政子は、病から回復した息子・源頼家を「修善寺」(しゅぜんじ:静岡県伊豆市)に幽閉し、源頼家の弟・源実朝を3代将軍に擁立。
その後、将軍職を追われた源頼家は、北条氏が送り込んだ刺客に殺害されたのです。
父・北条時政を追放する
そうして、わずか12歳の源実朝が鎌倉幕府3代将軍になると、北条時政は将軍の補佐職として設けられた執権に就いて幕府の実権を握り、有力御家人を強引に排除したり、後妻「牧の方」(まきのかた)が生んだ娘の婿「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を次期将軍にしようと企てたりし始めます。
こうした父の暴走を危ぶんだ北条政子は、1205年(元久2年)、弟の北条義時と組んで、北条時政を鎌倉から追放。北条時政と牧の方は出家して伊豆国へ去りました。
鎌倉幕府最大の危機、承久の乱
3代将軍・源実朝が暗殺され、尼将軍となる
御家人を鼓舞した北条政子の演説
その頃、朝廷では「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府から政権を取り戻そうとしていました。
そして1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が諸国の武士に北条義時を討つように命じ挙兵した「承久の乱」(じょうきゅうのらん)が起こります。
すでに鎌倉幕府の政権下だったとはいえ朝廷の権威は揺るぎなく、そのトップである後鳥羽上皇が討幕に動いたことに御家人らは驚き、戸惑いました。ここで鎌倉幕府側に付けば、朝廷に弓を引くことになるからです。
このとき北条政子は、朝敵になることを恐れる御家人らに、こう呼びかけました。
「亡き源頼朝公が与えた官位や報償を思い出し、恩に報いて下さい。上皇様は逆臣にそそのかされて正義のない命を下されたのです。それでも朝廷に従う者は、ただちに名乗り出なさい」。
この北条政子の演説に御家人らは心を動かされ、士気の高まった幕府軍は朝廷軍に圧勝したのです。
北条政子の墓所
北条政子は悪女だったのか
北条政子は、南北朝時代の女性「日野富子」(ひのとみこ)、安土桃山時代の女性「淀殿」(よどどの:茶々)と並ぶ「日本三大悪女」のひとりに数えられています。
確かに、息子の源頼家を幽閉して死に追いやり、また父の北条時政を失脚させたのは苛烈な政治判断でしたが、これらは私欲やわがままが招いたことではありません。
北条政子の悪女イメージを決定付けているのは、嫉妬から起こした次の騒動だと考えられます。
亀の前事件
北条政子は大恋愛の末、源頼朝と結婚しましたが、その後も源頼朝は他の女性と関係を持っていました。そのひとり「亀の前」という女性の存在に気付いた北条政子は怒り、人を使って亀の前の屋敷を打ち壊してしまったのです。
それでも北条政子の怒りはおさまらず、亀の前をかくまった源頼朝の側近は流罪にされたほどでした。
政治家・北条政子の評価
嫉妬深い一面があった北条政子でしたが、夫と子どもに先立たれながらも草創期の鎌倉幕府を守り、荒ぶる坂東武者を統率しました。
その政治能力について、鎌倉幕府の公式史書「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)が称えているのは当然としても、倒幕を企てた後鳥羽上皇のブレーンだった高僧「慈円」(じえん)でさえ、著書「愚管抄」(ぐかんしょう)で「女人入眼[にょにんじゅげん]の日本国、いよいよまことなりけり」とつづっています。
入眼とは、仏像を造り、仕上げに目を入れて魂を迎えることで、慈円は北条政子の執政を「この国の形に目を入れて完成させるのは、まさに女性だと思う」と評価したのです。