第494話 失意の日々を、希望に変える
-【福岡県にゆかりのあるレジェンド篇】儒学者・本草学者 貝原益軒-
Podcast
[2025.02.15]
江戸時代の福岡藩士、儒学者で本草学者の賢人がいます。
貝原益軒(かいばら・えきけん)。
本草学とは、薬草だけにとどまらず、自然界にあるもの全てが対象。
病の効能に役立つものを扱う学問です。
貝原は、さらに本草学だけではなく、当時まだ広く知られていなかった「健康」という概念を哲学的に説き、人生論にまで高めました。
江戸時代、平均寿命が50歳と言われていましたが、彼は84歳まで生き、82歳の時に書いた『養生訓』には、現代に生きる我々にも当てはまる、心と体の健康術が記されています。
貝原は言いました。
「体が健康だと、とかく無茶をする。
睡眠時間を削り、暴飲暴食、体を気遣うことは後回し。
病気になってから急に養生しだすが、時すでに遅し。
それはまるで、お金がなくなって貧乏になってから節約を始めるのに似ている。
お金があるうちから、抑えるところは抑え、節制に励めば、貧乏にならずに済むものを…」
貝原の銅像は、福岡市中央区の金龍寺にあります。
その銅像は、正座して机に向かっています。
彼は生涯、努力のひとでした。
書物を読み、調べる。
そしてその一方で、全国を歩き回り、現地におもむくことを大切にしていました。
貝原は、最晩年になって、執筆に勤しみ、多くの著作を残す偉人になりますが、若い頃は、挫折の連続でした。
特に20歳の時に、藩主の怒りを買い、およそ7年にわたる浪人生活を余儀なくされました。
何もできぬ失意の日々。
でも、その7年間の過ごし方こそ、彼がのちに花開くきっかけを作ったのです。
彼は、失意の日々を、いかにして希望の明日に変えたのでしょうか。
日本のアリストテレスと言われるレジェンド、貝原益軒が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
江戸時代の儒学者、本草学者、貝原益軒は、1630年、寛永7年、筑前国、福岡藩士のもとに生まれた。
幼い頃は、病弱で一歩も外に出られない生活が続く。
物心がつくと、父の書物を開いた。
ただ家族の誰も、実際に読んでいるとは思わなかった。
父は書を好み、医学書、中国の四書など、蔵書はふんだんにあったが、幼い子には難しすぎる。
おそらく眺めているだけだと疑わなかった。
あるとき、兄が算術の本を探していた。
5歳にも満たない益軒が、その本を持っていた。
「こら! 父上の本で遊んではいけない」と、たしなめる。
まさかと思って、いくつか算術の問題を出してみた。
全問正解。
驚いた兄は、父や母に報告する。
父は、我が子が天才かもしれないと感じたとき、涙を流した。
なぜなら、天才は短命だと信じられていたから。
「益軒、おまえは、長生きしなくちゃいかん、私が医学のことを教えてやるから、よく聞くがいい」
父は言葉どおり、毎日、貝原に医学の本を読んで聞かせた。
蘭学、漢学。手に入る本は、全て取り寄せた。
6歳のとき、母がこの世を去る。
命に限りがあることを、哀しみの中で知った。
江戸時代の偉人、貝原益軒は、幼少期、孤独だった。
体が弱く、一日中、家にこもる。
書物だけが友だちだった。
ただ救いだったのは、誰かとつるんだことがないので、たったひとりがあたりまえ。
近所で遊ぶ子どもの声を聴きながら、ひたすら本を読んだ。
その甲斐があり、18歳で福岡藩 二代藩主、黒田忠之(くろだ・ただゆき)に仕えることになった。
父は喜び、知り合いに自慢した。
藩の学問所に通う同年代に負けない息子を誇りに思う。
貝原は、心に決めていた。
どんな状況になろうとも、己の志だけは高くあろう。
己が腐れば、未来も腐る。
気持ちの持ち方ひとつで、明日は見える。
藩主のもと、誠心誠意尽くす。
ひとと接してこなかったので、伝える術は劣っていたが、それを引いてあまりあるほど、博識で、鋭い判断力を持っていた。
ところが…2年が経ったある日。
藩主黒田が貝原を怒鳴りつけ、退職を命じた。
なぜ黒田が怒ったか。史実には明記されていない。
それからおよそ7年間、貝原は浪人生活をおくることになる。
完全に藩から見放された、長い月日…。
それは、この世の終わりに思えた。
貝原益軒が過ごした7年にも及ぶ何者でもない日々。
彼は以前決めたとおり、志だけは高く設定する。
相変わらず書物は読むが、行動を重視した。
幸い、住まいは長崎の近く。
当時、長崎には、西洋の文化や技術が押し寄せていた。
何度も、長崎に通う。
歩く。ひたすら歩いて学ぶ。
知りたいことがあれば、すすんで人に会いにいった。
時間はたっぷりある。
しかも、失うものは何もない。
誰に気をつかうこともなく、知らないことを知らないと言えた。
父も含めて、まわりからは、「天才も地に落ちた」と哀れみの目で見られた。
気にしない。もともと自分には、何もなかった。
27歳のとき、三代藩主、黒田光之(くろだ・みつゆき)に認められる。
ただ、貝原の気持ちは、京都に向いていた。
翌年には、藩の命を受けて、京都に滞在。
ここで生涯の学問、本草学に出会った。
全ては、浪人生活で描いた未来予想図だった。
「志を立てることは大にして高くすべし。
小にして低ければ、小成に安んじて成就しがたし。
天下第一等の人とならんと平生志すべし」
貝原益軒
【ON AIR LIST】
◆50% / Official髭男dism
◆わが母の教えたまいし歌(ジプシーの歌 作品55-4) / ドボルザーク(作曲)、ジュリアン・ロイド・ウェバー(チェロ)
◆The End Of The World / スキーター・デイヴィス
◆ルキンフォー / スピッツ
★今回の撮影は、「曹洞宗 耕雲山 金龍寺」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
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