そんな苦境の中、政吉は高給が望める音楽教師になることを思うようになります。
父の奨めで長年稽古していた長唄の素養を生かせば教師になることが可能だと聞き、稽古仲間のつてで、愛知県師範学校音楽教師恒川鐐之助の門を叩きました。
宿命ともいえる天職への準備期間
父正春は尾張藩士でしたが、乏しい家禄だけで生計をたてるのは困難で、 細工好きの腕を琴・三味線作りの内職に役立て、どうにか家族六人を養う身の上。 長兄は夭死し、次男政吉は奔放に育ちました。
八歳から三年ばかり漢学を習った後、さまざまな勉学に励みますが、時代の流れと共に維新の政変と貧乏とにさいなまれ、就学のすべを失います。
同じく家禄も奪われ、内職を家業にくら替えして、武士の商法に打って出た父親の手助けをすることになるのです。
家業手伝いの二年が過ぎた十四歳に政吉は、従姉の嫁ぎ先である東京浅草の塗物商・飛騨屋の奉公人として上京します。奉公生活は主人夫婦がそろって亡くなるまでの約三年間でしたが、日々の酷使を、天がくれた試練と受け止め、貴重な体験をしていきました。
また深夜には人目を盗み、読売仮名付新聞で文字を覚えたり、必死に記帳、発信の基本を自習したとも言われています。
そんな日常や、塗りの感覚や日毎夜毎に養い鍛えた生活が、かけがえのない財産となり将来の バイオリン製作に生かされることになるとは思いもしなかったでしょう。
3年後帰郷し、家業の三味線造りの下職に従事する政吉は飛騨屋仕込みの早起遅寝で奮闘し、翌年には父から一家をまかされるようになりますが、大工の半分くらいしか稼げぬ苦境が続いていました。
唯一、仕事に対する面白さだけを糧に、苦境に耐えながらも努めますが、明治17年には父が病死してしまいます。
その後の不況は格別にこたえ、また鹿鳴館の鼓動が容赦なく和楽器の需要難に拍車をか けてくるのでした。
運命の出会い
代表
入門後程なくして、運命の出会いをすることになります。政吉は同門の甘利鉄吉から和製バイオリンを見せられ、たちまちそれに魅了されてしまうのです。徹夜でそれを模写し、一週間で仕上げ、苦心のバイオリン初作を恒川に見せました。
そしてその嘉賞と激励とを励みに手掛けた第二作が売れ、注文も舞い込んで、助手数名を雇うようになったのです。明治20年初頭のことでした。
数ヵ月後、岐阜県師範学校に本物の舶来品があると知り、政吉は自作を携行してこれに一騎打ちの比較を挑みます。
結果は、見事な惨敗。 しかし、その舶来品のバイオリンは、日本の梅雨の湿気にやられて板がはがれていました。 何とその修理を政吉がまかされたのです。その際彼が、宿敵の正体を思う存分模写したことは いうまでもありません。その作業に夢中になるうち、いつしか政吉の胸にはこの仕事を天職とする 思いが、あたかも天の導きのようにわき起こってきたのです。
工場生産の開始
明治23年(1890年)生家から東門前町の借家に仕事場を移し、さらにその翌年大枚300円を投じて向かいの住宅を買入。これを工場にし生産、研究を続けました。
その結果、第3回内国勧業博の有功賞(明治23年)を皮切りに、北米コロンブス世界博の賞牌(明治26年)や第4回内国勧業博の進歩賞(明治28年)を受賞し結実してゆきます。
政吉は、これらの表彰によって自信を得ながらも、用材の選定から乾燥の具合や塗装の配合等という製作上のあらゆる難問にぶつかるのでした。
しかし、長唄の稽古で養った自慢の耳と、口癖に云う”二つのぼう”とで、彼はそれらの難問と戦いながらバイオリン製作に没頭してゆきます。
二つのぼうとは辛抱(しんぼう)と貧乏(びんぼう)のことであり、政吉得意のキャッチフレーズでした。
そんな精神のもと政吉は、その後訪れる経済恐慌や日清戦争直下の衝撃を凌いでいくのです。
明治33年の三大壮挙
日清戦争の勝利が会社企業の異常な勃興を誘う中で、音楽界には芸術的洋楽の発展と民衆音楽の拡大という新気運が開けてきましたが、政吉はこの明治30年代の初頭を三つの壮挙で飾ります。
第一は、バイオリン頭部の自動削り機(渦取機)の考案及び完成。さらに二年後には甲削機(表板と裏板に丸みを持たせる加工)の発明。
第二は、本格的工場の建設。住宅まがいの作業場から近代式工場へと脱皮。
第三は、パリ万国博にて政吉のバイオリンが銅賞を受賞。
以上の壮挙を期に、政吉は事業飛躍の体制を樹立し、念願のバイオリン大量生産のはじまりとなったのでした。
記憶に残る最盛期
大正3年(1914年)、欧州大戦が勃発し、世界のバイオリン市場を独占していたドイツの生産が絶たれると情勢は一変します。
世界各地からの発注が政吉に集まってきたのです。政吉は量産にめげず、なおも研究姿勢を崩しませんでした。
バイオリン製造過程における塗りに対しても、つねに品質の維持向上をもとめ、研究開発をしては新技術を現場に持ち込んだのです。
輸入断絶で入手困難となったバイオリン弦の自社開発にも成功し、大正6年には産業界の功労を称える緑綬褒章の授与となりました。
急膨張した発注に対し、それに見合う生産体制の確保と更なる品質向上はのちに、歴史に残るバイオリン製造最盛期につながってゆきます。
当時従業員は1000名を越え、毎日500本のバイオリン、1000本以上の弓が量産され、 輸出のみで年間に10万本のバイオリン、 50万本の弓を記録したといわれています。
また、4系列・27品種のバイオリンを筆頭にビオラ以下の新器種は全て数品種を揃え、それだけにとどまらず、マンドリン、ギターも製造しました。
あわせて、弦楽器53種、弓23種、ケース13種の多岐にわたるまでになっていました。
事業拡大はもとより音楽を愛し、バイオリンを取りまく全てを政吉は愛していました。
大正10年から同末年にかけ、エルマン、クライスラー、ハイフェッツ、ジンバリスト、モギレフスキー等世界一流のバイオリニストが来日した時期、名古屋における彼らの演奏会を主催したのも、彼らの名器を調整修理したのも政吉だったのです。
クレモナ銘器への挑戦
代表
大正15年(1926年)10月、長男梅雄、三男鎮一が渡独した際の賞賛の評価を出した中に、相対性理論の提唱者で有名なアルバート・アインシュタイン博士もいました。博士はバイオリンをこよなく愛し、天才バイオリニストのフリッツ・クライスラーの友人でした。政吉の作品を手にした折、ドイツ人製作の愛用のバイオリンと弾き比べ、「音の出方、音の価値については到底貴下の父親の作品に比する価値はない。自分の一生は勿論、永く家宝として愛用したい。」ともらしたのです。
その後、親交ある多数の学者、音楽家を招き家庭演奏会を催す中、政吉の作品を披露します。その席に居合わせたバイオリン作家は、細部にわたり熟視検討した上感嘆し、「かかる音色は200年前イタリアの巨匠の手に成ったものでなければ、世界のどこにも求めることはできない。然るに現代の新作品でしかも日本で、古代の名器と同じ音色を出すものが作り出されるとは、まったく不思議と言う外はない、これは人間業ではない」と驚嘆したといいます。
その翌月の11月2日、アインシュタイン博士は政吉へ一通の手紙をかいています。
1926年11月2日
鈴木政吉 様
拝啓
私宅には、2本のバイオリンがございますが、1本はベルリンの由緒ある製作家により作られたるバイオリンです。私がとても愛好している物です。
この1本と貴台製作のものとすべての点において比較いたしました。
各器をかわるがわる試奏しては、隣室において音色を聞き、どちらのバイオリンが良いかを判断しようと試みたのです。
両令息も私も共に貴器が優秀だという意見に一致いたしました。
この政吉様の力のこもれる御贈品に対して、深く感謝を申し述べますと共に、最優秀なる貴台の芸術に対して驚嘆の念を禁じえません。
アルバート・アインシュタイン
受け継がれる情熱
時代の流れは厳しく、それでもなお政吉は、経営存続と製作における情熱は冷めやらぬまま、バイオリンに一生を尽してゆきます。
そして昭和16年には長男梅雄を社長に就任させ、 名実ともに経営が継承されました。
昭和19年(1944年)の1月、政吉は永眠する三日前まで仕事に打ち込んでいたといいます。
事業家というより、あくまでも職人としてバイオリンに人生を賭け、生涯製作を楽しみ抜いた政吉が、バイオリンを初めて製作して1世紀以上、現在もなおその技術と情熱が受け継がれ生き続けているのです。
政吉の胸像について
この像は、日本弦楽器製造の始祖を讃えその長寿を祝う記念として、広く全国に募金をよびかけ完成されました。
一時疎開先の恵那工場で激化する戦火をしのぎ、戦後の昭和30年に名古屋市中川区の旧本社入り口に移設されました。大府市への本社移転に伴い、現在では大府市勤労文化会館(愛三文化会館)に移設されております。
参考文献
大野木吉兵衛 浜松短期大学研究論集 24・25号(1981.12、1982.6)