「木曜 夜なべ激レア」夏季攻勢【第2週 8/8(木)深夜24:10~】 劇場公開未公開・未ソフト化のジャック・ドゥミ『都会のひと部屋』。過去作と異なるドゥミ演出の熱量に圧倒される。その熱の源は何か(文/ミサオ・マモル) - 映画・海外ドラマのスターチャンネル「スターチャンネル通信」 icon-sns-youtube icon-sns-facebook icon-sns-twitter icon-sns-instagram icon-sns-line icon-sns-tiktok icon-sns-etc
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「木曜 夜なべ激レア」夏季攻勢【第2週 8/8(木)深夜24:10~】 劇場公開未公開・未ソフト化のジャック・ドゥミ『都会のひと部屋』。過去作と異なるドゥミ演出の熱量に圧倒される。その熱の源は何か(文/ミサオ・マモル) original image 16x9

「木曜 夜なべ激レア」夏季攻勢【第2週 8/8(木)深夜24:10~】 劇場公開未公開・未ソフト化のジャック・ドゥミ『都会のひと部屋』。過去作と異なるドゥミ演出の熱量に圧倒される。その熱の源は何か(文/ミサオ・マモル)

解説記事

2024.08.05

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DVDにプレミア価格がついている!いや、未円盤化でVHSが最後!! いや、未ソフト化で大昔に劇場かTVでやったのが最後!!! いや、そもそも日本未公開!!!!! ここでしかなかなか見られない~完全にここでしか見られない、まで“激レア”な映画を夜っぴて味わうサーズデイナイト。題して「木曜 夜なべ激レア」。8月は夏季大攻勢!とんでもないラインナップ4本が登場。

目次

構想から実現まで約30年の期間と、音楽・主演の降板、そして製作中止を乗り越えて、ようやくに仕留めた、ドゥミにとって“白鯨”のような執念の作品

ジャック・ドゥミ監督の1982年作品『都会のひと部屋』の存在を小学生の頃に雑誌「スクリーン」(「キネ旬」読むのは中学生になってから!)で知って以来(*1)ずぅっと見たいと追いかけていたのに、未輸入だった『ローラ』と『天使の入り江』が配給され、『ロバと王女』が、次いで『シェルブールの雨傘』と『ロシュフォールの恋人たち』がリヴァイヴァル、『ハメルンの笛吹き』や『ベルサイユのばら』ですらBD化を果たしたというのに(『モン・パリ』『想い出のマルセイユ』だってこの数年内にスターチャンネルで放映されていたのだ)、本作は劇場公開はもちろん、BDやDVDにも、VHSにさえなっておらず、なかなか見られない【激レア】作品化してしまったのだった(*2)。

ようやく本作を鑑賞できたのは2014年9月、東京日仏学院で実施の特集「ジャック・ドゥミ、映画の夢」でのこと(この時も確か2回だけの限定上映だった筈だ)。そこで展開されるは紛れもないドゥミ世界ながら、過去作品と異なる演出の熱量に、「何とも凄いのを見ちゃったな…」と圧倒されてしまった。

そんな『シェルブール~』や『ロシュフォール~』とはひと味違う気迫に満ちたドゥミ演出を、もっと多くの方に“体感”していただきたくて本作を輸入したのだけれど、その準備で本作の製作過程を調べて分かったのが、『都会のひと部屋』はドゥミにとっての“モビィ・ディック”だった事だ。

メルヴィル著「白鯨」の原題転じて“執念で追い求める対象”の代名詞となったモビィ・ディック。映画界には様々な事情で製作が中断するも、監督の執念で完成にこぎ着けたモビィ・ディック作品が存在するが(ちょっと思い浮かべただけでも『ポンヌフの恋人』『フィッツカラルド』『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』等が上がる)、本作も構想から実現まで約30年の期間と音楽・主演の降板、そして製作中止を乗り越え仕留められた“白鯨”だった。そんな完成に至るまでの流れを、フランスでの再公開時に制作されたプレスシートを基に追ってみたい。そりゃあ監督の演出に、従来以上に力がこもる筈ですよ…

©2008 Ciné-Tamaris

社会的で、ときおり苦しいリリシズムを伴う重い悲劇を『シェルブール~』以来の歌劇(全篇、セリフが歌になっている)にしようと決意するも、長年コンビを組んできた作曲家と衝突…

1936年と1955年に生まれ故郷ナントで起きた労働者の蜂起を目にしていたドゥミはその様子と、自分の父親の青年時代(本作の主人公フランソワ同様、田舎からナントに出てきて軍人の未亡人宅に下宿し、造船所で働いていた)を組み合わせた物語を、最初は小説として書いていたが、次第に映画にしたいと思う様になる。だがこの題材を手掛けるには、ある程度の監督経験が必要と判断した彼は一旦企画を寝かせ、折を見ては実現の可能性を探っていた。

1972年、『ハメルンの笛吹き』を撮り終えた彼は改めてこの企画と向き合い、『シェルブール~』以来の歌劇(全篇、セリフが歌になっている)にする事を決意。それも『ロシュフォール~』の様なハッピー・サッド映画ではなく“社会的で、ときおり苦しいリリシズムを伴う重い悲劇”としてシナリオ(と作詞)を脱稿、作曲を長年のコラボレイターであるミシェル・ルグランに託した。

しかし1973年の春にシナリオを読んだルグランは、この題材に「まったく惹かれなかった」だけでなく、製作の翻意を即す事すら迫った。「ジャックに言ったんだ。“君はリアリスティックで政治的な映画監督じゃない、魔法使いで詩人なんだよ。そして詩はどんな政治的な意思表明をも超越する”って」(*3)。激しい議論が交わされた様だが、固い決心のドゥミに対しルグランは本作を降板してしまう。彼曰く、これが「僕らにとって、初めての芸術的見解の相違だった」。それまで二人三脚で作品を創ってきた“相方”に、自身入魂の企画から去られたドゥミの心境がどんなものだったか。

それでも本作の映画化を諦めない彼は“もうひとりのミシェル”、作・編曲家ミシェル・コロンビエに出会う。セルジュ・ゲンズブールのアレンジャーとして頭角を現し、シャルル・アズナブールやバルバラらフランスの大物を手掛け、その後ハーブ・アルパートと出会いアメリカ進出も果たしていた人で、映画ファンなら『リスボン特急』や『カリブの熱い夜』等の音楽を担当したとご存じだろう。彼は思い浮かんだ曲のアイディアをピアノで弾いてカセットに録音し、そこからドゥミに選んでもらうという手法で作曲を進めた。「そのうち彼から“ロシア的な感じにしたい”と言われたんだ。これで方向性が掴めた。この映画の過剰な悲劇性は、ロシア文学っぽいと個人的に感じたからね」。

©2008 Ciné-Tamaris

主役候補のドヌーヴが吹き替えではなく自分で歌うことに固執しドゥミと衝突、ドヌーヴも降板…以後“ドゥミのミューズ”は永久にドゥミのもとから去る

こうして1976年に曲が完成し、この時点で『ナンのエディッEdith de Nantes』という、語呂合わせ好きなドゥミらしいタイトルで製作がスタートした本作は、タイトルロールのエディット役に『モン・パリ』まで監督と4度組んでいた“ドゥミのミューズ”カトリーヌ・ドヌーヴ、フランソワ役に『バルスーズ』でいよいよ主演スター級となった若きジェラール・ドパルデューがキャスティングされる(*4)。

ところが、今度はドヌーヴが「女優としての誠実さの証として」自身が歌う事に固執してしまう。やや低めの彼女の地声に代わり『シェルブール~』ではダニエル・リカーリが、『ロシュフォール~』と『ロバと王女』ではアンヌ・ジェルマンがそれぞれ歌を吹き替えていた様に、ドゥミの中では綺麗なソプラノが“ヒロインの声”(*5)で、譲れない点だったに違いない。いちおうコロンビエの伴奏でドパルデューと共に歌唱テストが行われたが、その後ドゥミが提案したのは吹き替えか降板かの二者択一だった。「あの夜の事を覚えています。私たちは別れ際に“さよなら”と言いましたが、それが本当の“さようなら”になったのです」と彼女が回想する通り(2年後に『ベルばら』でコンビが復活するルグランと違い)、以降ドゥミとドヌーヴが再び組む事はなかった。

ドヌーヴというスターを失った本作は製作中止に追い込まれ、ロシアとの合作ミュージカル企画『アヌーシュカ』も頓挫し、ドゥミは不遇な時代を迎える。そんな状況でも1978年の『ベルばら』と、下段で触れるTV映画以外、雇われ監督のオファーを全て断ったというドゥミ。「私はブルターニュ人ですから頑固です。そして『ナントのエディット』以外の映画は撮りたくない。この作品を私の中から解き放ちたいのです」。

ドヌーヴに代わってドミニク・サンダが主演に決定。「私のキャリアの中でもっとも好きな作品のひとつ」とサンダに言わしめた本作はついに完成、封切りへ

転機は1981年6月に訪れる。フランスの女性プロデューサーの第一人者クリスティーヌ・グゼ=ナレル(*6)との出会いで、脚本を熱心に読んだ彼女は直ちに資金調達を開始。エディット役に『暗殺の森』や『世界が燃えつきる日』ではアメリカに進出する等、当時国際スターだったドミニク・サンダ(前年にドゥミが手掛けたTV映画「La Naissance du Jour」に続く起用(*7))が、フランソワ役に後の演技派二枚目リシャール・ベリ(『愛しきは、女/ラ・バランス』『無伴奏「シャコンヌ」』他)が、そして『ロシュフォール~』以来のドゥミ世界への帰還となる大御所ダニエル・ダリュー(軍人の未亡人役)とミシェル・ピコリ(エディットの嫉妬深い夫役)の配役もスムーズに決定。新たに『都会のひと部屋』と題された本作は、遂に監督のヴィジョン通りの映画化が動き出した。

録音済の音源に合わせ、口の動きと身振りを完全にシンクロさせながら、という制約がある中での演技は主役のサンダもベリも苦労させられた様だが「撮影中の経験がほんとうにワイルドだった。私のキャリアの中でもっとも好きな作品のひとつ」(サンダ)「脚本が驚異的だった。世間の“ドゥミは過去作品の世界観から抜け出せない”という予測を覆し、社会派ドラマでミュージカルを作ったんだからね」(ベリ)と、後年本作を振り返っている。

1982年4月13日からビヤンクールのスタジオで始まった本作の撮影は、すべての始まりの地・ナントでのロケーションを経て、パリで6月3日に終了。同年10月27日に封切りを迎える。

©2008 Ciné-Tamaris

なおも続いた苦難。なぜかベルモンドとのバトルまで勃発。しかしそれを乗り越えた今は“ドゥミ最後の傑作”のポジションを確立

だが、残念ながらこれで万事めでたし、とは終わらなかった。先ず本作は興行的に失敗。ジャン=ポール・ベルモンド主演『エースの中のエース』等のエンタメ色が強い話題作群に本作が埋もれてしまった可能性が指摘される。そこで本作を擁護すべく批評家たちが「ル・モンド」紙等に声明文を出稿するが(*8)、これを『エース』へのネガティヴ・キャンペーンと捉えたベルモンドが反論、応援団が意図しない方向にマスコミが騒ぎ出し、終いにはドゥミが火消しをせねばならない事態に発展してしまう。

本作は1982年度の「カイエ・デュ・シネマ」誌の年間ベスト1と、メリエス賞(フランス映画批評家協会賞、因みに昨年は『落下の解剖学』が受賞)に輝き、翌年のセザール(フランス・アカデミー)賞では作品、監督を含む9部門で候補に挙がった。が、長年のモビィ・ディック=本作の不振はドゥミには相当堪えた様だ。本作で衣装を担当したドゥミの義理の娘ロザリー・ヴァルダ(ドゥミの僚友、プロダクション・デザイナーのベルナール・エヴァンと共に素晴らしい仕事ぶりを披露)が「『都会のひと部屋』の後、ジャックは以前と同じでは無くなった」と語ったが、本作以降の諸作~敬愛するコクトーの『オルフェ』の80年代アップデート作『パーキング』と、イヴ・モンタンとのタッグで期待させた『想い出のマルセイユ』~は、共に精彩を欠く出来に感じられた(*9)。そして1990年10月27日(奇しくも本作の初日の8年後)、ドゥミは59歳の若さで永眠する。

それから23年後の2013年、シネマテーク・フランセーズでの大規模な回顧展「ジャック・ドゥミの魅惑の世界」の開催に併せ、2Kレストアで蘇った本作が劇場で復活上映を果たし「近年、ここまで過激な美しさを持つ傑作が、これほどの情熱を呼び覚ますだろうか」(テレラマ)「ドゥミの最も悲劇的な映画であり、彼を蝕むような突き抜ける痛みに満ちた最も美しい作品」(レザンロック)「ドゥミの作品の中でも非常に特別で、様々なレヴェルにおいて野心的且つ個人的」(米クライテリオン公式サイト)等、初公開当時には理解されていたと言い難い本質を賞賛する評価が相次いだ。以降、今日では本作は“ドゥミ最後の傑作”と位置付けられている。

海外版プレスに掲載されたティエリー・フレモー(カンヌ映画祭ディレクター)の寄稿通り、本作は初公開時と「今日ではまったく逆の状況になっているのです。この映画は愛されており、この映画は美しく、この映画は灰の中から蘇ったのです」――日本でも、『都会のひと部屋』が今回の放送と配信で、知る人ぞ知る存在から、より広く見られる事を切に願いつつ…

さぁ、映画作家が心底、ほんとうに撮りたかった作品が持つ力にぶっ飛ばされやがれ!
*1…1982年頃の「スクリーン」誌では当時在フランスだった小松沢陽一氏(後の「東京国際ファンタスティック映画祭」プロデューサー)がフランスの新作映画をポスター画像と共に紹介するページがあり、そこで本作を知ったのだった

*2…1994年にNHK-BS2の映画枠で放映されたが、今回は本文中でも触れた【2Kレストア版】で放送・配信

*3…だがドゥミは本作のメイキング映像で「政治的な映画を作りたい訳ではない。自分たちの権利を擁護し、自分の人生・愛・幸福を護る人々がテーマです」と発言していた

*4…ドヌーヴとドパルデューの他、ドゥミは軍人の未亡人役に一時シモーヌ・シニョレの、またフランソワの恋人ヴィオレット役に当時の“気鋭の若手”イザベル・ユペールの起用を検討していた

*5…因みにドゥミ作品の“ヒーローの声”はジャック・ルヴォーで、『ロシュフォール~』『ロバと王女』のジャック・ぺランの歌声は彼のもの。本作の製作時、彼は自らのレコード会社を設立し裏方業に回っていたが、本作のサウンドトラックをプロデュースし録音を費用面でバックアップしただけでなく、リシャール・ベリの吹替で歌唱にも復帰。余談だが、この人はあの♪マイ・ウェイ(Comme d’habitude)をC・フランソワと共作していた。ついでながら記すと、本作で歌も地声なのはドゥミ曰く「絶対音感の持ち主」ダニエル・ダリューと、ヴィオレット役のファビアンヌ・ギヨン(現在も舞台女優兼シンガーとして活動中)の二人だ

*6…シャブロルの『虎は新鮮な肉を好む』『スーパータイガー/黄金作戦』やミムジー・ファーマー主演の『ポケットの愛』等を製作。前2本の主演ロジェ・アナンと結婚。ミッテラン元大統領の義理の姉でもあった

*7…フランスのTV局フランス3で放送された「Le Roman du Samedi」の1エピソードでコレットが原作。サイト「Le Ciné-club de Caen」の同作ページによると、コレットの娘が直々にドゥミに監督を依頼したらしい

*8…歴史は繰り返す?今では信じがたいが『ロシュフォール~』も初公開時は興行が不振で、それに対し「カイエ・デュ・シネマ」が全面支援を行った。詳しくは山田宏一氏の名著「友よ映画よ――わがヌーヴェル・ヴァーグ史」(ちくま文庫)を参照されたい

*9…『パーキング』の前に、米HBO他向けに製作された大作TV映画『Louisiane』の監督に就任したが、撮影開始一カ月で降板。フィリップ・ド・ブロカ(『リオの男』『まぼろしの市街戦』)が後任を務めた

*特記以外の参考文献
Les Inrockuptibles誌2013年4月12日ジャック・ドゥミ特集号
「Un film osé, chanté, engagé」Sébastien Reynaud(サイト「Zone Critique」2013年4月24日投稿)
「Une Chambre en Ville – Box Office」Frédéric Mignard(サイト「CinéDweller」投稿日未記載)
Profile : ミサオ・マモル
映画ひとすじ、有余年。映画配給会社を6社渡り歩き、現在は映画探偵事務所813フィルムズの人。ヨーロッパ映画を中心に、なぜか今まで未輸入だった名篇から、果てはなんじゃこりゃな“珍味”まで、今日も隠れたる逸品を探し求め東奔西走中。いやしっかし、最近の円安にはほとほと参っておりやす、、、
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