4月からまた新学期が始まり、大学の授業もスタートしました。僕は大学という場所が好きなのですが、あの社会から少し距離を置いた空間としての雰囲気だけでなく、学問を含め本当に自分の好きなことに没頭できる人生の中でも貴重な一時期を過ごせるところがよいのです。
そんな場所であるアメリカのUCLAとコロンビア大学で起きた、パレスチナ反戦運動の学生と親イスラエル学生の暴力による対立や、大学内への警察の介入をニュースで見て胸が苦しくなりました。
2023年10月にハマスがイスラエルを襲撃したことをきっかけとする、イスラエルによるガザ侵攻は終わりの見えない状態にあります。アメリカの影響力の低下も感じます。このガザ地区に世界遺産はありませんが、ガザ地区を含むこの一帯の政治的な不安定さと世界遺産には深い関係があります。
『エルサレムの旧市街と城壁群』は、世界遺産の中で唯一、ヨルダンが代理申請して保有国が「エルサレム」となっていますが、これは第一次中東戦争で東エルサレムを含むヨルダン川西岸がヨルダン領となったことに関係しています。この戦争でパレスチナの約8割がイスラエル領となり、パレスチナのアラブの人々の多くがパレスチナ難民となりました。
このヨルダンという国は、第一次世界大戦後にアラブの人々をオスマン帝国から独立させるという約束を反故にした英国が、アラブの人々の不満を逸らすためにアラブのアブドゥッラー1世を国王とするトランス・ヨルダン王国として作ったものです。因みに、その弟のファイサル1世を国王としたのがイラク王国です。もちろんどちらも英国の支配下にありました。
しかし、『エルサレムの旧市街と城壁群』のある一帯は、イスラエルが圧勝した第三次中東戦争でイスラエルが占領し、以降ずっと実効支配を続けています。ガザ地区をイスラエルが占領したのもこの時です。この地の保護がユネスコで課題となったのは、世界遺産条約が誕生するよりも前のことでした。イスラエルが東エルサレムを占領した翌年の第15回ユネスコ総会では、旧市街の文化財の保護を行うことと文化財の文化的・歴史的な特徴を損なうような変更を加えないことなどをイスラエルに求める決議が出されましたが、イスラエルはほとんど決議を無視します。
そのため、世界遺産条約が1972年に採択されると、ユネスコはエルサレムの旧市街を世界遺産と危機遺産のリストへ速やかに記載できるよう動き出します。そこで問題となったのが、誰がエルサレムを世界遺産に推薦するのか、ということでした。
世界遺産条約の中で、推薦する遺産は「自国の領域内に存在」するものと書かれているのですが、イスラエルによる実効支配は国際社会が承認しておらず、ヨルダンが推薦する法的権限などで議論が紛糾しました。最終的にはヨルダンが、「世界遺産登録は主権を主張するものではない」という了解の下に推薦を行ったのですが、国際社会に大きなしこりが残ったのも確かです。
登録翌年の1982年には危機遺産リストにも記載されますが、危機遺産リストのための登録基準は、『エルサレムの旧市街と城壁群』を保護する議論の中で定められていきました。世界で初めて危機遺産リストに『コトルの文化歴史地域と自然』が記載された時には、まだ明確な基準がなかったのです。『エルサレムの旧市街と城壁群』はそれ以降、最も長い間、危機遺産リストに記載され続けている遺産です。
もう一つ、世界遺産と関係しているのが第二次中東戦争です。エジプト革命によって誕生したエジプトのナセル大統領が、英仏の国策会社が運営するスエズ運河の国有化を決めたため、英仏はイスラエルと密約する形でエジプトに侵攻します。この第二次中東戦争では、国連やアメリカ、ソ連が非難したこともあり、英仏とイスラエルはスエズやシナイ半島から撤退し、英仏は中東での影響力を失いました。この難しい国際情勢の中で実現したのが、ユネスコが主導するヌビアの遺跡群救済キャンペーンでした。ここでの成功体験が、ユネスコの世界遺産条約実現へとつながっていきます。政治的に困難な状況にあっても文化財の保護のために国際社会が協力したというのは、ユネスコの平和理念そのものだったと思います。
このように、パレスチナ地域の政治的な不安定さやパワーバランスは、世界遺産条約の誕生や運用とも関係していますし、『エルサレムの旧市街と城壁群』の登録に対し、世界遺産委員会の政治化を懸念して最後まで反対していたのがアメリカだったことも、ユネスコとアメリカの関係悪化にも影響しています。
パレスチナの問題は非常に複雑です。どのような状態になったら「解決」となるのかすらわかりません。しかし、双方譲ることなく報復に報復を重ねていけば、和平から遠ざかるのはもちろん、文化財の保護なんて議論の俎上にも上らなくなるでしょう。紛争状態を終わらせることが最重要ですが、それと同時に文化財を保護することも同じくらい重要だと僕は考えています。なぜなら、和平後に人々が拠り所とし、互いを尊重する上で文化財が残されていることが必要だからです。
コロンビア大学やUCLAの例を見るまでもなく、不寛容な世界になりつつあるように感じられて怖いですが、世界遺産が存在する意義がより多くの人に伝わり世界の多様性理解や寛容さが広がるよう、微力ながら活動を続けていきたいと思いました。これを読んでくださった皆さまも、ぜひご協力をお願いします!
(2024.05.02)
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