「性質や言動が常人と異なっている人。変人」(大辞林)というのが、このシリーズにおける奇人の定義である。大きな仕事を成し遂げたかどうかは別として、普通の人間なら避ける道をあえて選んだ「勇気ある人」といった肯定的ニュアンスも込めたい。約1400年前の飛鳥時代を生きた山背大兄王(やましろのおおえのみこ、?~643年)も、そんな一人である。あの聖徳太子の嫡男という、エリート中のエリートだったのだ。
●推古女帝の後継候補だったが…
山背大兄王は、太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)の間に生まれた。用明天皇の孫にあたり、外祖父は実力者の馬子。毛並みと財力は抜きんでていた。
西暦628年3月、30年間にわたって女帝の座にあった推古天皇が死の床に就いた。夫の敏達(びたつ)天皇との間に誕生した竹田皇子(たけだのみこ)は夭折(ようせつ)していた。だれを後継の天皇にしたものか、天皇は大いに迷った。
口うるさい朝廷の実力者たちも納得させられそうな候補者は、2人いた。1人は竹田皇子の異母兄、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の息子の田村皇子である。そしてもう1人が、山背大兄王だった。
「日本書紀」によれば、女帝は亡くなる直前、まず田村皇子を枕元に呼び、「天子の位を継いで国を治めるのは大任だ。慎んで軽々しく口にすべきでない」とアドバイスした。さらに山背大兄王には、「お前はまだ未熟だから、心中期するところがあっても、あれこれ言うな。必ず群臣の言葉を聞いて従うように」と諭した。
これだけだと、女帝の意向がどちらにあったかは、よくわからない。山背大兄王は年齢的に若く、田村皇子に期待しているようにも取れる。しかし重要なことは、この時期、天皇であっても後継指名は簡単にはできず、次期天皇の推戴(すいたい)には何より、「群臣の合意」が重要だったということであろう。