縄文関連の本を読みまくっていると書いたけど、
実は同時進行でお金関連の本も読んでいた。
お金の使い方については、以前から折に触れて自分なりに考えてきた。でも、答えが出ていない側面がまだまだたくさんある感じで、ちょっと行き詰まっていた。
そんな中、稲垣えみ子さんの「お金を使おうと思って寄付を試したが、身近な人相手にやると人間関係に影響が出て難しい」という贈与が簡単ではない話と、
(それについてはここで書いた↓)
縄文時代は贈与経済だったが全国的に物流があったという話を読んだ。
それで、贈与という側面からお金の使い方を考えたら何か新しい視点が得られるかもと思ったから、そういう系統の本を探して読んでいたわけ。
見つけたのはこれと、
これ。
きみのお金は誰のためは、よくある「迷える若者が賢者的な人物に出会い、大切なことを学ぶ」っていうストーリー形式の本。個人的には「フィーリング多めで中身が少なめ感」が否めなかったけど、社会におけるお金の働きの本質を突いている部分もあってわりと良かった。
特に「みんなでお金を貯めていても意味がない」というくだりは、日本のみんなが共有すべき認識なんじゃないかと思う。
一方、贈与をめぐる冒険は、若干小難しい感じがあって結論も抽象的で、今どきの「さっさと具体的手順を教えて欲しい若者勢」には刺さらなさそう…という感じだった。でも、いろんな視点から「贈与」という概念や行為について考察していて興味深かった。
やっぱり贈与には力学があるんだよね。上の立場の人が下の立場の人に贈与するパターンか、立場に差がない人同士がお互いに贈与し合うパターンでないと、人間関係に影響が出てしまう。でも、資本主義思考で贈与的意識が薄れてくると人間関係が希薄になってきてそれはそれで良くなさそうだから、贈与の概念と実践のあり方のアプデが必要、という話。
これは本に書いてあったことではないんだけど、この2冊を読んだあとつらつら考えていて、お金は血漿みたいなものなんじゃないかと思った。
血漿は、赤血球(酸素)、栄養分、ミネラル、白血球・血小板など、身体が必要としている成分を乗せて血液を構成し、血流で全体に行き渡らせている。お金も要はモノやサービスを経済圏内で行き渡らせる流れを可能にしている媒体なのだから、社会の血漿であり、お金を介して行き渡るモノやサービスの流れは社会の血流だと考えれば良いのではないか。
そういうふうに理解すると「みんなが各自でお金を貯めていても全体としては意味がない」の意味も実感しやすい。お金は人々の間を流れることによって初めて価値を発揮するもので、血流が良いほど体調が良くなるのと同じで、お金の流れも良いほうが社会経済の調子が良くなる、ということ。
政府や企業も含め、みんながこういう意識でお金を循環させようとしたら社会は良くなるかもしれない。そして、贈与の概念と実践のアプデというアングルでこの辺りを模索するのもいいかもしれない。
……引き続き考えるか。