高橋先生の長年にわたる『学び合い』の実践が丁寧に語られた一冊です。
子どもへのまなざし
子どもたちの力を腹の底から信じ切るという宣言のような、あるいは子どもたちの未来の幸せを心の底から祈るような、そういう温かさを感じる文体で丁寧にご自身の実践が語られている。
「美しい物語を紡いでしまうこと」に対して注意深く、このような記事を書かれているが、『学び合い』に対して詳しくもなく、小学生の指導からは縁遠い自分が読んでも、決して何かを美化しようとして書いているのではなく、「あるがまま」の過ぎ去りし日々を語ろうとしているように感じる。
確かに「学問的に正当な手続きとして再現性があるか」と言われると難しい部分もあるだろうし、この本に書いてあることを何も考えずに真似してしまえば混乱することは想像に難くない。しかし、それは読み方を間違えているのではないかと思う。
『学び合い』は子どもたちへの「語り」に本質があるが、その「語り」はテクニックではなく、教員に立つ人間の本心の如何で決まる。子どもたちの幸せを願い続けてきた本気の大人の言葉が温かく響いているのが本書である。
この本の中で語られる子どもたちの姿には、現実の息づかいが感じられ、そこに実際にあった教室がありありと想像されるのである。
この独特な空気感は何か、時々、不思議に思うのである。優れた実践の記録にはそこに子どもたちの姿が見える。
例えば
も河野先生が附属小時代の実践の記録の本であるが、随所に、子どもたちの姿が浮かび上がってくる。
こういう「語り」は小学校の先生だからこそ持っている視点から描き出されるのかもしれない。
あすこま先生が「小学校の先生」の仕事について、丁寧な分析を描かれていたが、その話ともつながってくる。
注:高橋先生は「感動エビデンス主義」ではないですよ。…言っておかないと勘違いされる可能性があるのも、嫌な感じですが。
本書は「美しいストーリー」なのかもしれない。しかし、その美しさは、心から子どもたちの幸せを願い、苦闘することに覚悟のある先生が生み出すものなのだろう。
高校の教員から見て
自分は高校の教員なので、やはり小学校とは子どもとの関わり方が異なる。週に2単位時間しか子どもに会わないこともあれば、行事についても小中学校ほど生徒の学校生活に大きな影響を与えるわけでもない。教えている生徒も300人近いわけで、非常に一人一人に対する接し方は短時間でドライかもしれない。
そういう自分の仕事から見ると、小学校の子どもたちと一日中一緒に過ごすという働き方は異質なものに感じられるし、一方で色々なことを考えて取り組んでいけることに一種の羨ましさも感じる。しかし、根本的には「自分の責任」ということに対する怖れが先に来てしまう。自分がどれだけ子どもたちによい影響を与えられるのか、あるいはその逆なのかと。
自分が教員として割り切れないのは、子どもたちの姿を直視し、受け止め、授業を考えていくということに怖れながらも、子どもたちの現実を直視しない限り、自分のやりたい授業は出来ないのではないかと、なんとなく思っているからなのだろうと思う。
本書で高橋先生が子どもたちの姿を語るときに出てくるような言葉が、あと10年修行しても、自分から出てくるようにはならない気がしている。
それは高校と小学校の違いと言うよりも、自分の腹の決まり方の問題なのかもしれない。
もちろん、高校生を相手に、ドライに接しているとはいえ、子どもたちの幸せを願わないではいられない。それなのに、自分の中途半端な子どもたちの見取り方が浮き彫りになると、やはり重苦しく思うことはある。
高橋先生の教室の子どもたちのレポートが本書には登場しているが、そのレポートを読むと学ぶことに対する喜びや楽しさがにじみ出ているのである。これだけのエネルギーを子どもたちが持っているのに、高校に上がってきた時に、高校の授業でこういうエネルギーが薄れていくのは何故だろうと考えずにはいられないのである。
自分の教室に戻っていく
本書を読んでいくと、色々な願いが語られ、そしてその願いに応えるように成長していく教室の姿が目に浮かんでくる。もちろん、その裏にある苦しさも一方ではにじみ出ている。
そういうある教室の、ゆるやかな変化の姿を目の当たりにしていくと、自分の教室を思わずにはいられなくなる。
さて、4月に子どもたちが教室に戻ってきたときに、自分はどのような顔をして、どのような言葉を子どもたちにかければよいのだろうか。
そんなことを考えることになる一冊である。