【鉄道と戦争の歴史】日露戦争勃発! 日本を恐怖させた大陸の鉄道網
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第5回】
満州だけにとどまらず、朝鮮半島にも触手を伸ばす勢いのロシア。このままでは、次は日本本土が標的になってしまう。まさに現在再放送中の、司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』の世界が繰り広げられていたのである。
明治36年(1903)8月から行なわれた日露交渉で、日本側は「朝鮮半島は日本の影響下に置き、満州はロシアの支配下に置く」という妥協案を提示した。近代国家建設途上の日本にとって、軍事大国ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島はどうしても自国の影響下に置いておきたかったのだ。
だがロシアは極東の小国日本と対等に交渉する気などなかった。ロシアの返答は「朝鮮半島の北緯39度以北を、中立地帯とする」であった。これは事実上、朝鮮半島はロシアが支配下に置くということに等しい。
それにロシアは旅順に強力な艦隊を停泊させ、陸上には堅固な要塞を築いていた。しかも旅順はロシアが建設した東清(とうしん)鉄道で奉天(ほうてん)、ハルビンを経由してシベリア鉄道と接続している。シベリア鉄道はバイカル湖の区間を除き、1901年に一応完成していた。湖上は夏期の間はフェリー、冬期は分厚い氷の上に線路を敷いて列車を走らせた。もしもシベリア鉄道が全線開通すると、欧州に駐屯しているロシア軍を素早く、しかも大量に極東へ派兵することが容易になる。
日本政府内や陸海軍の強硬派は「そうなる前に戦端を開くべき」と主張した。そんな意見を述べた人々も、大国ロシアに勝つ確固たる道筋は示せなかった。
それでも日本の独立を保つことに危機感を覚え、ついにロシア帝国に対して宣戦布告を決断した日本は、明治37年(1904)2月6日午後2時、大日本帝国海軍の艦艇を3手に分け、佐世保港を出港させた。艦艇はそれぞれ仁川、旅順、大連へと向かったのである。
2月8日、陸軍は先遣部隊の第12師団木越旅団が、日本海軍の瓜生外吉(うりゅうそときち)少将率いる第2艦隊の護衛を受け、朝鮮の仁川に上陸した。入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘と記録されている。そして遼東半島の旅順に向かっていた日本海軍駆逐艦部隊は、同日夜に旅順港口でロシアの太平洋艦隊を捉え、これに奇襲攻撃を加えた。
瓜生戦隊は翌9日、仁川港外で巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃した。この仁川沖海戦が、日露戦争における最初の本格的海戦で、日本側に損害はなく、ロシア側は2隻とも自沈している。
その後、ロシアの旅順(太平洋)艦隊は日本海軍連合艦隊との正面決戦を避け、旅順港の奥深くで待機、増援を待ち続けた。連合艦隊は2月から5月にかけ、旅順港口に古い船舶を沈め、軍艦の出入りを不可能にする旅順港閉塞作戦を実施する。だが思うような成果は得られず、3月27日に行われた第二次閉塞作戦では、日本海海戦時の作戦参謀・秋山真之(さねゆき)の盟友、広瀬武夫少佐(のちに中佐に特進)が戦死している。
4月13日には連合艦隊が敷設した機雷に、旅順艦隊旗艦の戦艦ペトロパブロフスクが触雷、轟沈する。名提督と称えられた旅順艦隊司令長官マカロフ中将が、艦と運命をともにする。その一方、ウラジオストクの巡洋艦隊が積極的に通商破壊戦を行なっていた。日本側は上村彦之丞(かみむらひこのじょう)中将が率いる第二艦隊がウラジオストク港攻撃に赴いているが、すれ違いが続いた。このように、海の戦いは膠着状態に陥っている。
陸上の戦いでは、仁川に上陸した木越安綱(きごしやすつな)少将の歩兵第23旅団は橋頭堡を確保した後、朝鮮半島に上陸してきた黒木為楨(くろきためもと)大将率いる第1軍に合流。朝鮮半島を確保し、4月30日から5月1日の鴨緑江会戦で、安東(現・丹東)付近のロシア軍を駆逐している。
奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第2軍は、遼東半島の塩大墺(えんたいおう)に上陸。5月26日に南山のロシア軍陣地を攻略した。さらに大連を占領すると、第1師団を残して遼陽へ向け進軍。こうして旅順要塞を孤立させた。第2軍は6月13日に、得利寺(とくりじ)の戦いで旅順援護のために南下してきた部隊を撃退している。
戦いが広範囲に及んでくると、陸軍は旅順要塞にたて籠った有力なロシア軍を放置していては背後が脅かされると判断。さらに海軍は旅順港に籠って出て来ないロシア艦隊に手を焼き、遂には陸上からロシア艦隊を攻撃するように陸軍に要請。そこで乃木希典(のぎまれすけ)大将を司令官とした第3軍を編成し、これに当たることとなった。
第3軍は要塞攻撃前に、ロシア軍が破壊していった東清鉄道を復旧。大連港から要塞攻略地点最前線の約10km手前まで、鉄道を利用できるようにした。さらにそこから陣地まで、資材運搬用トロッコ線路を敷設。これは人力ながら大砲や砲弾の運搬に活用できた。これらの作業は、野戦鉄道提理部(やせんてつどうていりぶ)と呼ばれた鉄道部隊が手がけている。