なぜ、日本人は「野球」が大好きなのか? 世界では「マイナー球技」なのに… 明治期には「野球“害毒”論」が唱えられても、国民の心を離さなかった理由とは?
世界の中の日本人・海外の反応
先日、米大リーグ、ドジャースの大谷翔平選手が50-50を達成。史上初の偉業に、日米の野球ファンが熱狂した。
さて、野球は明治時代に日本にもたらされたスポーツだが、同時代にはサッカーやクリケットなどほかのスポーツも輸入されていたのに、なぜ「野球」がとりわけ人気になったのだろうか? 東京朝日新聞では教育関係者を中心に「野球害毒論」も掲載され、『武士道』の新渡戸稲造も野球を「スリの遊戯」としてこき下ろしていた。それでも人気が冷めなかったのはなぜなのだろうか?
■WBCで日本が“無双”している理由とは?
オリンピック夏季大会で、野球が開催されることは少ない。国際的な球技としてはフットボール(サッカー)の人気が群を抜き、野球はそれとは比較にならないほどマイナーな存在だからである。
それではなぜ、日本では野球人気が高く、4年に1度のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝を重ねる(5回中3回)だけの実力を備えているのか? 日本における野球人気の歴史について振り返りつつ、考えてみよう。
■東京朝日新聞では「野球害毒論」が掲載されるも…
日本に野球がもたらされたのは明治5年(1872)のこと。同11年には日本で最初の本格的な野球チーム「新橋アスレチッククラブ」が結成され、同27年には「野球」という和名が誕生した。
同29年には第一高等学校(東京大学教養学部の前身)が横浜外国人チームに勝利したことで、にわかに人気が高まり、熱狂的と呼ぶべき一大ブームが沸き起こる。
ただし、明治の日本は野球に対して肯定一色であったわけではなく、明治44年8月、東京朝日新聞では22回にわたり、「野球害毒論」なる記事が掲載された。
主に教育関係者の声からなり、名著『武士道』の著者で、当時は第一高等学校の校長を務めていた新渡戸稲造に至っては、
「野球という遊戯は悪く言えば巾着きり(スリ)の遊戯、対手(対戦相手)を常にペテンに掛けよう、計略に陥れようベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである」
「賤技(せんぎ ※いやしい技術)なり。剛勇の気分なし」
とまでこき下ろしていた。
しかし、大新聞で「野球害毒論」が喧伝されても、日本人の野球熱は一向に冷める気配はなく、昭和9年(1934)には大リーグ選抜チームを日本に招聘。同11年には日本職業野球連盟の創立にこぎつけた。
その後、戦争による中断期を経て、昭和25年にセントラルとパシフィックの2リーグ制が採用され、現在に至る。少なくとも昭和の末までは、プロ野球選手は男子にとって憧れの職業ナンバー1であり、シーズン中のテレビとラジオではプロ野球の実況中継こそが一番の看板番組だった。
■なぜ「マイナー球技」の野球が抜きん出て人気なのか?
明治時代に日本にもたらされた球技は野球だけではない。明治6年にサッカー、同32年にはラグビー、同41年にはバレーボールとバスケットボールがもたらされ、クリケットのそれも野球とほぼ同時だったと伝えられる。
つまり数ある球技の中で取捨選択が行なわれた結果、野球が抜きんでた扱いを受けるようになったのだが、それにしても、どうして野球だったのか。
現在の世界を見渡してみても、野球が盛んなのは本家のアメリカとそれに隣接するカナダ、メキシコを始めとする中米及びカリブ海諸国、アジアでは日本と韓国、台湾くらいしかなく、200以上の国や地域で主要スポーツと化しているサッカーには遠く及ばない。国際的には「マイナー球技」なのだ。それが日本では広く受け入れられたのは、いったいどうしてなのか?
この点に関しては、先の新渡戸稲造の論がヒントになろう。「対手(対戦相手)を常にペテンに掛けよう、計略に陥れようベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊び」とは、つまり、勝利を得るために互いに計略を駆使し、相手に出し抜かれぬよう常に気配りが欠かせないということだ。また、「剛勇の気分なし」ということは、1人の剛勇に頼らない、チームプレイに邁進するスポーツということでもある。
そのほか、緻密な戦略と戦術、本番に備えての猛練習、血の滲むような努力、などなど。日本人の琴線に触れる要素をいくつも有する点が、熱狂的な人気と実力の向上につながったのだと考えられる。