【古代史の真実】「ヤマト王権の“本当”の発祥地」は、定説とちがう!? 地元住民が「証拠隠滅」していた!? 「柏原説」を振り返る
日本史あやしい話
神武天皇の事績に注目! 九州南部から旅立って、ヤマトという新天地にたどり着いたことが『日本書紀』に記されている。一般的には、即位した地が橿原だったと信じられているようであるが、本居宣長が指摘するように、それは橿原ではなく柏原だったとの説が気になる。「ヤマト王権の発祥地」は本当は一体どこだったのだろうか?
■九州北部に行けなかった天皇の祖先
九州南部に居住した天皇の祖先は、神武天皇へと系統を繋いできたものの、実り豊かな九州北部への進出の夢を叶えることはできていなかった。
そこには、縄文晩期に中国南部から渡来してきた海人族(のちの邪馬台国連合国)が勢威を張っていたからである。九州南部は火山灰の層が厚く、耕作には不向き。将来性においても、希望が持てるところではなかった。
そこで新たな耕作地として期待をかけたのが、はるか東に位置するヤマトであった。そこに至るまでの行程が、いわゆる「神武東征」である。
■物部氏の祖に阻まれ、やむなく南下
出航の地は明記されていないものの、九州南部のいずこかの港であったことは間違いない。そこから北上して筑紫の国に立ち寄ったというのも、彼らを支援する何らかの勢力に協力を求めたのだろう。
『日本書紀』によれば、その後、安芸国に2ヶ月余り、吉備国に3年も滞在。東征に必要な船舶や兵糧を集めるためであった。そして準備万端、体制を整えて河内国草香村への侵入を試みたのが、戌午の年の3月10日であった。
しかし、ここで思わぬ抵抗にあう。土着勢力であるニギハヤヒ(物部氏の祖か)を盟主とする長髄彦(ながすねひこ)に阻まれたのだ。そこで、やむなく南下。
熊野川(紀伊川のはずとの説も)を遡って宇陀へとたどり着く。ここで歯向かってきた各地の土豪たちを次々と降し、橿原(かしはら)の地を都として即位。それが、辛酉(かのととり)の年の春1月1日のことであった。その宮というのが、一般的には、現・橿原神宮のあるところだったと見られることが多いようだ。
しかし、その場所に関して、国学者の本居宣長が異議を唱えているのをご存知だろうか?
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