同胞たちの命を救った見事な手際!機動舟艇部隊と駆逐艦が成功に導いた撤収戦【べララベラ海戦】 | 歴史人
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同胞たちの命を救った見事な手際!機動舟艇部隊と駆逐艦が成功に導いた撤収戦【べララベラ海戦】

大海原で死闘を演じた日本海軍 その知られざる戦いを追う【第3回 べララベラ海戦】


とかく日本軍は攻めるのは得意だが、撤収するのは上手くないと言われる。だがガダルカナル戦以降のソロモンでの戦いにおいて陸海軍が共同し、見事な引き際と駆逐艦(くちくかん)本来の戦いを発揮した、小気味よい海戦があった。


第2次べララベラ海戦が行われている海域に到達し、すぐさま攻撃に移った駆逐艦時雨と五月雨。放たれた魚雷が敵艦セルフリッジに命中、大破させるという功績を挙げた。駆逐艦本来の見事な戦いぶりを発揮した。

 昭和18年(1943)2月初旬にガダルカナル島撤退後、南東方面の作戦を担当する日本軍(南東方面艦隊、第8艦隊、第8方面軍)は中部ソロモンのニュージョージア島に戦力を集中。だが日本軍がこの島を新たな防衛最前線と定めると、アメリカ軍はすぐに攻撃を仕掛けてきた。まずは島に向かう日本の輸送船が沈められ、ニュージョージア島守備隊は早くも物資不足に陥ってしまうのである。

 

 そして昭和18年7月4日、ニュージョージア島に米軍が上陸。8月4日にムンダ飛行場を放棄するまでの1カ月間、日本軍は米軍に対して激しい肉弾戦を挑む。それでも飛行場を放棄せざるを得なかった最大の理由は、大砲の砲弾が尽きてしまったからだ。それほど、海上からの輸送が困難を極めていた。そこで第8方面軍司令部は、部隊をコロンバンガラ島まで撤退させることを決定。

 

 こうした状況から米軍は、8月15日になりコロンバンガラ島の背後に浮かぶベララベラ島に約6000人の部隊を上陸させた。この島の防備が手薄だと判断したからだ。これでコロンバンガラ島とニュージョージア島は、後方を遮断された形となった。対するベララベラ島の日本軍守備隊は、鶴屋好夫陸軍大尉率いる600人の部隊に過ぎなかった。

 

 そこで8月17日、日本軍はベララベラ島強化のため陸軍2個中隊と海軍陸戦隊を送り込むことにし、大発動艇、内火艇、漁船改造駆潜艇による輸送部隊を編成。これを伊集院松治(いじゅういんまつじ)大佐指揮下の第3水雷戦隊所属の駆逐艦4隻が護衛。米軍も4隻の駆逐艦を繰り出し応戦、ベラ湾沖で両軍が激突した。これが第1次ベララベラ海戦と呼ばれ、日本側は駆潜艇4隻を失うも輸送には成功している。

昭和18年(1943)7月7日に第3水雷戦隊司令官となった伊集院松治大佐。ソロモンを舞台に行われた撤収作戦で、駆逐艦部隊を率い活躍。父は日露戦争で威力を発揮した伊集院信管の開発者、伊集院五郎海軍元帥。

 綻びてしまった戦線を立て直すため、まずニュージョージア島の部隊が、8月30日までに大発と小型船を使いコロンバンガラ島に転進することが決まる。さらに9月15日になると、司令部はコロンバンガラ島の放棄も決定した。コロンバンガラ島に集結した1万2000人の将兵を、北方に浮かぶチョイセル島を経由して、ブーゲンビル島へと撤退させる作戦を立案したのである。

 

 ふたつの島は最短48kmしか離れていないので、作戦には大発動艇を中心とした機動舟艇部隊を投入。収容人数が少ない分、何度か往復することでカバーすることにした。第1次撤収作戦は9月28日深夜に行われた。大発1隻を失うも、撤収自体は成功を収める。

 

 そして第2次撤収作戦は、10月2日夜に決行。米軍は先の撤収作戦を受け警戒を強化していたため、チョイセル島を出航した機動舟艇部隊は6隻の米駆逐艦部隊に発見される。だが機動舟艇部隊は散開してコロンバンガラ島に突入したため、被害を受けずに島に到達でき、待ちわびていた部隊すべてを収容した。

 

 帰路の洋上では、日本軍の駆逐艦部隊と米艦隊との間で激しい砲戦・魚雷戦が行われている様子が望めたが、機動舟艇部隊は一目散にチョイセル島を目指した。最終的に大半の大発を失いはしたが、1万2000名の日本軍将兵を脱出させることには見事成功した。

コロンバンガラ島から48km離れたチョイセル
島までの撤収作戦で活躍した大発動艇。これは1920年代中期から1930年代初期にかけ開発・採用された陸軍の上陸用舟艇だ。収容人数の少なさを機動力でカバーした。

 2回の撤収作戦で、コロンバンガラ島守備隊の撤退が完了した時、ベララベラ島では米軍に代わり増派されたニュージーランド軍の攻撃で人員、装備とも劣っていた日本軍は追い詰められていた。第1次ベララベラ海戦で揚陸に成功したとはいえ、その兵力差は圧倒的だったのだ。そもそもべララベラ島の部隊は、コロンバンガラ島の後方を守るのがもともとの任務。コロンバンガラ島から部隊が撤収したので、島に駐留する意味を失っていた。

 

 そのため10月になって、急遽この部隊をブーゲンビル島のブインへ撤退させることが決定される。10月6日未明、ベララベラ島の残存兵力を撤収させるための収容部隊と、それを護衛する第3水雷戦隊を含めた日本艦隊はベララベラ島を目指し進軍を開始。そこには当然のようにアメリカ第3艦隊の駆逐艦部隊が待ち受けていた。

 

 2030分頃から両軍は互いの艦影を確認し、2055分になると米艦隊が先制攻撃を仕掛けてきた。狙われたのは駆逐艦夕雲だったが、こちらも米艦隊に向け即座に反撃を始めている。大量の砲弾と魚雷を受け夕雲はたちまち炎上したが、放った魚雷1本が駆逐艦シャヴァリアに命中、大破させる。動けなくなったシャヴァリアにオバノンが追突、こちらも大破して動けなくなった。

 

 2101分に戦闘海域に達した駆逐艦時雨と五月雨も大量の魚雷を発射。1本がセルフリッジに命中。その直後、新たな魚雷が夕雲に命中し、沈没する。大破したセルフリッジは戦闘不能となり離脱。その後、視界が悪くなったため、シャヴァリアは自沈処分された。

 

 日本側の損害は駆逐艦夕雲が沈没、一方アメリカ側は駆逐艦シャヴァリアが沈没し、セルフリッジとオバノンが大破。しかも日本側は、ベララベラ島守備隊を無事収容することに成功している。こうして一連の撤収作戦は、どれも日本軍の作戦成功で幕を閉じた。

第2次べララベラ海戦で激しく損傷したアメリカの駆逐艦セルフリッジ(左)とオバノン。作戦に参加したアメリカの第4駆逐部隊は、この2隻に加えシャヴァリアで編成されていたので、全滅ともいえる大損害であった。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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