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淀殿は豊臣秀吉の子・秀頼の育て方を誤ったのか⁉

大坂の陣 12の「謎」


天下を手中にした豊臣秀吉は、自らの子・秀頼を後継者として育て上げきれず、この世を去った。その代役を務めたのは、母親である淀殿だったのだが、その育て方はいかほどであったのだろうか?


 

■淀殿の理想と現実の違い

 

豊臣秀頼と淀殿
『大坂冬の陣図屏風』(模本)に描かれた、大坂城内で寄り添う男女。武将は秀頼、女性は淀殿か?(または千姫)。どちらにせよ秀頼は戦時でも、つねに家族と一緒だったのだろうか。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

 

 結論から言えば、豊臣秀頼は少なくとも慶長19年(1614)7月の〝方広寺事件〟が起きるまで、徳川家康が豊臣家を滅ぼすつもりでいることに、気がついていなかった。

 

 太閤・秀吉が62歳で亡くなった時、家康は57歳、秀頼は6歳、淀殿は30歳か32歳であった。豊臣家の行く末を考えるということで言えば、淀殿はまったくの素人、豊臣家の運営ができるような女性ではなかった。

 

 それどころか、淀殿には気鬱(ヒステリー)の持病があったと、当時の名医・曲直瀬道三(まなせどうさん)は証言している。気昏ませし、手足が動かなくなり、身体が氷のように冷たくなった、というのだ。秀吉という最大にして、唯一の保護者である秀吉を失ったことにより、心から安心することができず、そのため発作が時おり淀殿を襲った。

 

 そうした半ば病人の彼女は、巨大な大坂城に拠りながら、天下の趨勢(すうせい)が徳川家康に移った事実を、どうしても理解することができなかった。

 

 一方で、あるいは英邁(えいまい)であったかもしれない秀頼を、淀殿は完全に自らの支配下に置き、女主人として武将の嗜(たしなみ)を否定し、わが子を公家の代表者─いずれは関白にすべく、学問を修めさせた。

 

 しかも秀頼の周囲には、現実の厳しさ、理想と現実の違い、俗に言う〝帝王学〟を教える者が不在でありつづけた。

 

監修・文/橋場日明

歴史人2024年1月号『大坂の陣 12の「謎」』より

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