“家康、千代田城入城”スペシャル! 東京・千代田で辿る徳川家康の足跡
Mummy-D&KOHEI JAPANの遠い目症候群#02
ヒップホップグループ「RHYMESTER(ライムスター)」の兄・Mummy-Dと、「MELLOW YELLOW(メローイエロー)」の弟・KOHEI JAPAN。2人は共に音楽シーンで活躍する一方で、大の歴史好き。今回は、歴史と音楽を愛する2人が東京・千代田区を歴史探検します。
一般社団法人千代田区観光協会が仕掛ける、徳川家康に関する観光プロジェクト「家康、千代田城入城」。徳川家康が築いた江戸城と千代田区の町(江戸城下町)~現在へとつながる魅力を、千代田区の地で感じていただきたい」という想いから生まれたこのプロジェクトでは、2023年11月10日~2024年3月31日までの4ヶ月にわたって、イベントや講演会が行われる。そして今回、歴史人WEB「Mummy-D×KOHEI JAPANの遠い目症候群」とのコラボが実現した。
徳川幕府のお膝元であり、今も昔も日本の中心だった江戸。その中枢たる千代田区には、徳川の世から受け継がれてきた文化と伝統、そして江戸っ子の人情が今なお息づいている。大都会東京のど真ん中では、どんな歴史の魅力が待ち受けているのか……!
■徳川家康が築いた江戸の中心、千代田の歴史を再発見!
(by Mummy-D)
9月某日、大河ドラマ『どうする家康』でも、徳川家康がとうとう江戸に入府して天下人への道を歩みだしたこともあり、我ら遠い目探検隊はその日有楽町線桜田門駅3番出口に集合……するはずだったのですが、チッ、KOHEIが来ねえ。
今回は千代田区観光協会さんとのコラボで、担当のW女史も待たせてるってのに。この「千代田区女子」Wさんが実はめっちゃオモロいLADYであるというのは終着駅、神田の昭和香る大衆居酒屋『みますや』さんで発覚するのであるが、その時の僕らはまだ知らない。家康の築いたニュータウン「江戸」とその食文化を探るべく、歩を進めたいのであるが……。
■多くの建造物を失ってなお徳川の威光を現代に伝える江戸城を歩く
(by KOHEI JAPAN)
JR有楽町駅で下車し、混雑した駅前のビル群を、小走りで日比谷方面へ急ぐ。この辺一帯は徳川家康が入府する直前までは、日比谷入江という海・湿地だったエリアか。早速遠い目をしたいところだが、俺は忙しいのだ。何を隠そう、待ち合わせの時間に、もう20分程度遅刻をしている。
日比谷まで抜ければ一気に視界が開ける。日比谷公園を左にして、右側に広がるのは皇居a.k.a.江戸城だ。俺は日比谷壕(ぼり)、祝田橋を超えて凱旋壕、集合場所の桜田門に小走りで向かう。
祝田橋というのは江戸期には架かっておらず、日露戦争の凱旋パレードのために橋を架け、二重橋方向に凱旋パレード用の道路を造ったという。それが今の内堀通りの原型となる。凱旋パレードのときは相当の国民が集まったのだろう。遠い目をしたいところだが、俺は忙しいのだ。
アティイ。更年期障害で汗が止まらない。だけどみんなを待たせているので急がねば。ちなみに日本のヒップホップ用語で「ライムス入り」というのがある。兄・Mummy-Dが所属するヒップホップグループ「RHYMESTER(ライムスター)」は集合時間の15分前にみんな集合するのだ。だからライムス関係の仕事に遅刻は許されない。話は逸れるがもうひとつ「ギドラ入り」というのもある。キングギドラも日本を代表するヒップホップグループだが、集合時間の30分後にみんな集まるらしい。K-Dub Shine本人から聞いた話だ(笑)。
そんなこんなでほぼ「ギドラ入り」してしまった私。さっそく桜田門から入城。桜田門といえばやはり大老・井伊直弼の暗殺事件「桜田門外の変」で有名だが、江戸初期までは小田原門、小田原口などと呼ばれていて、ここが小田原街道の始点だったらしい。桜田門になったのは1636年、名前の由来は、このあたりが「桜田郷」と呼ばれていたからだという。
門を潜るとまず枡形(ますがた)の広さに圧倒される。西の丸防備のために異例の大きさでつくられたとのこと。右側の渡櫓門の威圧感。扉もデケエ。人の頭くらいの鉄製の蝶番(笑)。いまでもちゃんと開閉できるように年に数回は閉めるのだそう。とにかく規模のデカさに驚愕。これも天下を統一した家康の為せる技なのだなあ。
この桜田門、正式名は「外桜田門」なんだってさ。ってことは「内桜田門」ってのもあるのね。知らなかった。じゃあ行ってみんべ!ってことで、渡櫓門を抜け、そこからお堀沿いに1トリス(10分くらい)くらい皇居正門(西の丸大手門)方向へ歩く。この日は観光客もまばらで思いの外静かだ。左手に有名な二重橋が見えてくる。右側は丸の内。日比谷通り沿いに高層オフィスビルが、皇居一帯を見下ろすかのように行儀よく並んでいる。
さらにまっすぐ進むと「内桜田門」、通称桔梗門にぶつかる。なんでもここは三の丸への通用門で、本丸に登城する際、10万石未満の少身の大名や旗本、商人などが通る門なんだってさ。中入ってみてえなあ。どの門も警察官が立っていて、突破は難しい(するな)。
そしてさらに1トリスくらい桔梗濠沿いに大手門方向に進む俺たち。ひたすら連なる石垣。鏡石などの巨石は、伊豆から海路船で運び、最終的に丸太の上を転がして大人数で引っ張って運んだらしい。しかも丸太の上にさらに大量のワカメをビチャビチャにして敷いて、摩擦を減らしていたという。まさに先人たちのK.U.F.Uの上に、この日本最大の石垣はつくられたのだ。遠い目。
大手門から、本丸があったであろう方向を眺め遠い目。本日はまだまだ見どころモリモリなので、遠い目を解除し、次なる目的地へレッツゴー! 江戸城また来るじょー。
■平将門も遠い目? ビルの隙間に表れた綺麗な塚の謎
(by Mummy-D)
「また来るじょー」じゃないんだよ、まだ始まってもいないんだよ馬鹿野郎(笑)。我々が向かったのはその大手門から至近、あの平安中期に関八州を平らげ新皇を名乗った、平将門公の首を祀る将門塚でした。
実際に行ってみると、昔写真なんかで見て思い描いていた、赤い幟旗の立つちょっと「禍々(まがまが)しい祠」よりだいぶキレイに再建されてて、どこぞの葬祭業者が入ってるの?ってくらい「メモリアル」で真っ白な場所になっており、今も賛否両論あるらしいのですが、実際どう思ってるんですかマサカドさん?
「それも時代ってことじゃねえのかなあ? 今って令和だっけ? オレらの生きてた承平とか天慶の頃はさあ……」
あの頃はアツかったと、大手町に浮かぶ生首が遠い目で申しておりました。わはははは。笑ってる場合じゃない。平将門公は日本三大怨霊の一人とされ、戦後GHQが塚を取り壊そうとした時にブルドーザーが横転、運転手が死亡するという事故も起きており、平安時代から現在に至るまでずっと畏怖を持って崇敬されてきた場所なのでした。ま、日本人が好きそうなエピソードではあるけどね。