多種多様な化学物質が開発・製造される中で、環境中に放出された化学物質が生態系に与える影響(生態毒性)の解明は、豊かな生態系を次世代に引き継ぐための重要な研究テーマの1つです。生態毒性研究の分野では、化学物質の有害性の検出や評価を目的として、試験生物に化学物質を与えて、それらの反応から化学物質の有害性を知る、毒性試験(生物応答試験=バイオアッセイ)が、多数開発されています。この毒性試験において、再現性の高い結果や世界的に優れた成果を得るためには、遺伝的に同一な「試験生物」が長期的かつ安定的に供給される必要があります。そのためには、それぞれの試験生物に合った最適な飼育手法を開発し、試験生物を長期・安定的に維持しなければなりません。我々は、試験生物の安定供給をサポートする活動に加え、豊かな生態系を守るために欠かせない多様な試験生物の長期・安定的な飼育手法を開発し、新たな毒性試験の開発に繋げることで、生態毒性研究の分野をリードしています。
世界で最も利用されている化学物質データベースのChemical Abstracts Service (CAS)は、2015年にその登録件数が1億に達したことを報告しています。2021年には2億5千万以上に達し、現在もその数は増加の一途をたどっています。現在、多種多様な化学物質が開発・製造される中で、環境中に放出された化学物質が生態系に与える影響(生態毒性)の解明は、豊かな生態系を次世代に引き継ぐための重要な研究テーマの1つです。生態毒性研究の分野では、化学物質が自然界の生物に与えるさまざまな有害影響を検出して評価するため、多種多様な毒性試験(代表的な生物種に化学物質を与えて、それらの反応から化学物質が生物に与える影響を知る試験のこと。生物応答試験=バイオアッセイともいう。)が開発されています。例えば、ホルモン(生体の器官でつくられ、ごく微量でさまざまな生態機能を調節する働きを持つ生理活性物質)様の作用を有する化学物質が水環境中に放出されると、水生生物の体内のホルモンバランスのかく乱が起こり、個々の生物や生態系に有害な影響を及ぼすことがよく知られています。特に、女性ホルモンの一種であるエストロゲンや合成女性ホルモンは、生活排水を介して水生生物のメス化を引き起こすことが知られています。このように、環境中において生物の繁殖に有害な影響を及ぼす可能性のある化学物質は、「環境ホルモン」(=内分泌かく乱作用を有する物質)と呼ばれています。環境ホルモンは、これまでにさまざまな観点から研究が行われ、我々もこれらを検出・評価するための毒性試験法を複数開発してきました(https://www.nies.go.jp/whatsnew/2023/20230914/20230914.html)。しかしながら、対象となる試験生物はメダカやカエル、ミジンコなど、食物網の各段階を代表する生物種に留まっています。そのため、今後は、自然界に生育する幅広い生物種を対象とした新たな毒性試験の開発を進めるとともに、個々の生物ではなく、生態系全体を対象とした化学物質の影響解明にも取り組まなければなりません。
一方で、生態系を守るために重要な役割を担う毒性試験の結果については、高い信頼性が求められ、そのためには、遺伝的に同一な試験生物が長期的かつ安定的に維持されなければなりません。
試験生物を長期的・安定的に飼育して維持していくためには、それぞれの生物の特性や習性を十分理解し、それらにあった飼育・繁殖法の開発が必要になります。例えば、世界的な試験生物であるミナミメダカ(Oryzias latipes)の寿命は1〜2年と言われています。そのため、卵を産ませて次の世代に命を繋がなければ、同じ系統のメダカを維持することはできません。ミナミメダカは、一般的に水温が25〜26℃で日照時間が長くなったときに最も良く産卵します。このように、生物を長期的かつ安定的に維持するためには、特に温度や日照条件など季節により左右される繁殖条件をどのように制御するかが重要なカギになります。我々は、毒性試験の対象となる試験生物の多様化を踏まえ、国環研構内の環境実験施設(アクアトロン)に設置されている複数の人工環境室(温度や日照条件が制御できる部屋)を利用し、新たな試験生物の長期的かつ安定的な飼育手法の開発を進めています。同時に、安定的な供給が可能になった生物種については、生態毒性研究の促進とクオリティーの向上を目的に、所外の研究者や試験機関への分譲も行っています(https://www.nies.go.jp/kenkyu/yusyo/suisei/index.html)。また、教育活動の一環として、学習教材などへの利用を目的とする教育機関への分譲や飼育方法などに関する相談も受け付けています。
現在、アクアトロンでは、特に化学物質の影響評価に用いられる生物種を中心に約19種類の水生生物を飼育・繁殖しています。飼育生物を水生生物に特化しているのは、標準的な化学物質の影響評価が、水生生物で行われることが多いためです。アクアトロンでは、他では人工繁殖が行えない生物種も飼育しています。例えば、アオモンイトトンボ(Ischnura senegalensis)は、他のトンボ類と同様に、幼虫期であるヤゴ世代と成虫期であるトンボ世代からなる生活史を持っていますが、成虫は空中を飛んで移動するため、実験室などの限られたスペースでの飼育・繁殖が難しい生物種の1つです。近年、トンボは世界的にその数の減少が報告されています。森林や草地の開発のほか、ヤゴの生息地である水田に散布される農薬との関連性が指摘されていますが、その原因はまだ明らかになっていません。原因の解明には、試験生物となるヤゴの安定的な供給が必要になることから、我々は、これまで成功例のないアオモンイトトンボの人工飼育法の開発に着手しました。開発には、多くの時間と労力を要しましたが、独自に開発した小型飼育ケージの採用や、低温飼育によってヤゴの羽化までの期間を延ばし、作業労力を軽減するなどの工夫を行うことで、限られたスペースでの人工繁殖に成功しました。今後は、安定供給が可能になったアオモンイトトンボのヤゴを用いることで、世界的なトンボ減少問題の解明に迫れるのではないかと期待しています。このようにアクアトロンは、多様な試験生物の長期的・安定的な飼育手法を開発し、新たな毒性試験の開発に繋げることで、生態毒性研究の分野をリードしています。また、さらなる試験生物の充実化を進めることで、日本で唯一の水生生物に特化した飼育施設を目指しています。
アクアトロンの人工飼育室
一方で、限られた集団内での長期的な人工繁殖は、遺伝的な障害による形態異常を誘発する可能性があることも知られています。これは、同一集団内での繰り返しの交配により、劣勢遺伝子形質が発現するためです。また、最近我々は、生態影響試験の主要な試験生物である緑藻ムレミカヅキモ(Raphidocelis subcapitata)が長期的に培養環境下に置かれると、年間数百ヶ所という非常に速いスピードで遺伝子変異が誘発されることを明らかにしました(Yamagishi et al. 2020)。このように、生物をもとの状態で長期的・安定的に維持するためには、いかに遺伝子変異や形質の変化を最小限に抑えるかが重要であり、今後の大きな課題の1つです。
また、限られた飼育施設で飼育する生物種を増やすためには、飼育にかかる労力やコストの削減が必須の課題となります。今後は、飼育法の小型化や飼育技術の改良を進めることで、より多くの試験生物の飼育・繁殖を可能にしたいと考えています。また、試験生物のゲノム配列やcDNA等の遺伝子情報を公開し(Hiki et al. 2021, 2023)、試験生物としての付加価値を向上させることで、さらなるリソースの充実化と質の向上を進めたいと考えています。