無限がF1に初めて挑戦したのは1992年だった。そこから9年間、大手自動車メーカーと互角以上に戦い、4回の優勝を歴史に刻んだ。社員200人の企業が世界最高峰のF1という舞台で輝いた。
無限のF1参戦はホンダのF1第二期活動が終わる1992年にホンダがティレルに供給していたV10エンジンを無限とホンダの共同開発という形で始まった。ホンダエンジン「RA101E」をベースに開発された無限エンジン「MF351H」の最初の供給先はフットワークだった。NA3.5L V10エンジンは他社がV12へ移行し、高回転化による最高出力の向上を図るメーカーと、Renaultを代表とする軽量、コンパクトで中速度域の高トルク化を図るメーカー間が非常に激しく戦う時代で有った。
無限は、“V10エンジンこそが、F1に於ける車両全体の性能バランスを一番高く実現出来る。"という考えの元、ホンダ技研社の90年エンジンをベースにスロットル形式を変更してドライバビリティ向上と高トルク化を図って参戦する。初年度はコンストラクターズランキング7位、2年目は9位という成績だったが時には上位集団に迫る走りを見せた。
参戦3年目の1994年は、エンジンコンセプトから全て新規設計の「MF351HD」エンジン開発を行い、又、メンバーは若い社員から選抜された開発メンバーで行った。チームはロータスに変わり、新規車両への搭載や設計からレース投入まで約半年間という短期実戦投入計画で有り、チーム代表のピーター・コリンズ氏やピーター・ライト氏からは当初は計画実現を信じて貰えなかったが、イギリス、シルバーストーンでのシェイクダウンが無事に完了して、彼等の驚きの目を向けられながらの実戦投入となった。 初戦のモンツアGPでは、今まで予選が20番目辺りだった予選戦績が、一台だけサーキットに持ち込んだ新規エンジンを搭載したジョニー・ハーバートが予選4位となり、周囲のチームから一気に注目を集める事となった。
1995年はリジェにエンジンを供給する事となり、フランスのチームであるリジェのエースドライバーはオリビエ・パニス、セカンドドライバーにマーチン・ブランドルと鈴木亜久里となった。
1994年のサンマリノGPでのアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故をきっかけに、スピードダウンを目的としたエンジン排気量ダウンによる出力抑制の為、排気量は3.5Lから3.0Lとなる事がレギュレーションで決定され、前年度に短期間開発して投入した3.5Lエンジンを急遽3.0L化にした「MF301H」エンジンを開発し投入した。V12エンジンメーカーは、この3.0L化をきっかけに超高回転化から軽量化と低重心による車両総合性能向上と燃費性能で優位なV10エンジンの開発を各社が進めていく事となる。3.5Lから3.0Lへのダウンサイジングは、無限エンジン出力に於いて80Psのダウンとなったが、一貫してV10エンジンの熟成を重ねていた無限は既に上位集団を脅かす存在となっていた。
そしてベルギーGPでブランドルが3位となり無限にとって初めての表彰台をもたらした。パニスも最終戦オーストラリアGPで2位となり、コンストラーズランキングも5位を実現した。
リジェとの2年目となる1996年、ドライバーはパニスとペドロ・デニスとなった。この年のエンジンは、前年度エンジンから最高出力で40Ps、最高回転数で+800rpm、-7.0kgの軽量化を達成したもので、
名門チームを脅かし、雨で乱戦となったモナコGPではパニスが初優勝した。
無限にとっても参戦開始から5年目での初優勝であった。
(コンストラーズランキングは6位)
1997年、リジェはアラン・プロストのチームへと生まれ変わりプロスト・無限となった。ドライバーはパニス、トゥルーリ、中野信治の3名。この年、ブリヂストンが新規参入し、そのエースチームとして機能した。パニスの怪我があったが、トゥルーリの活躍もありコンストラクターズは6位だった。
1998年、オールフレンチを目指すプロストはプジョーエンジンを使用していたジョーダンとエンジンを入れ替え、無限はジョーダン・無限として6年目を迎えた。この年のエンジンは、既に1994年の3.5Lエンジンの最高出力を上回り、最高回転数では16000rpm Over、125kg以下の軽量化を達成した非常に戦闘力の高いエンジンとなった。ドライバーは96年にチャンピオンとなったデイモン・ヒルと若いラルフ・シューマッハとなる。雨のベルギーGPで、ヒルが優勝、シューマッハが2位となり1-2フィニッシュを達成した。(コンストラーズランキングは4位)
1999年、ヒルは残留し、シューマッハの代わりにハインツ-ハラルド・フレンツェンが加入した。この年のエンジンは、更に前年度エンジンの最高出力を15Ps向上させ、2kgの軽量化と共に低重心化を徹底的に図ったものとなった。フレンツェンは、第7戦フランスGPと第13戦イタリアGPで優勝し、続く第14戦ヨーロッパGPでは無限にとって初めてのポールポジションを獲得した。このヨーロッパGPの結果次第ではドライバーチャンピオン争いに加わる大活躍を見せた。タイトル挑戦に向けた重要な予選は、ポールポジションを奪取しての決勝のスタートだったが、Topを走行中に電気系のトラブルでリタイアしてしまう。その結果、フレンツェンはシーズンランキング3位となった。またヒルは精彩を欠き12位となりシーズン終了とともに引退することになった。シーズン中の2回の優勝で、コンストラーズランキングは前年度から1つ順位を上げて3位となり、大手自動車メーカーがしのぎを削る戦いの中で大殊勲の年となった。
2000年にホンダがF1に復帰し、無限の活動はこの年を持って活動完了と決めた。最後のシーズンはジョーダン・無限としての参戦となった。新たにヤルノ・トゥルーリがドライバーとして加入したが、コンストラーズランキングは6位となった。
1990年代はイルモア、ジャッド、ハートなど中堅のエンジンコンストラクターが参戦した時代であったが優勝する事は難しかった。大企業であるプジョーやランボルギーニなども1勝も出来ずに撤退した。
この9年間の参戦活動により、エンジンの排気量は3.5Lから3.0Lになったにも関わらず、最高出力で90Ps、最高回転数で+4200rpm、重量で-40kgの軽量化の性能向上を実現した。
今も、昔もF1で優勝することはレース関係者にとっての夢である。無限はその夢を4度も実現した。「絶対に勝ちたい!」という情熱と絶え間ない性能向上への熱意で突っ走った9年間だった。
1996年にリジェ・無限がモナコGPで優勝してから20年という節目の今年、当時の関係者が集まり20周年記念祝賀会が開催されることになった。モナコGPにあわせて無限が保管していた優勝時のマシン「JS43」やトロフィ、ポスターなどもモナコで展示することになった。
JS43は無限のショールームに展示してあったが最近は倉庫にしまってあったため掃除を兼ねて車体からエンジンを下ろしばらしてみた。エンジンは当時のままで20年ぶりに開けてみたところエアバルブ黎明期だった時代にも関わらず、ほぼエアが抜けておらず驚いた。車体もひび割れなどもなく良好な状態だったが、問題はタイヤだった。20年前のままであったタイヤは、プラスチックのように硬くなり、右フロントタイヤはスローパンクを起こしていた。しかし、現在その型のタイヤは製造されておらず、作ってもらうにもモナコGPに間に合わないという回答だった。ヨーロッパのグッドイヤーに問い合わせたところ他社製のタイヤではあるものの、装着できるタイヤをアレンジして送ってくれた。
3月14日に整備を終えたリジェ・無限「JS43」はモナコに向けて出発した。
20年前のモナコGP優勝は無限にとっても、オリビエ・パニス選手にとっても初めてのことであり、リジェチームにとっては最後の優勝になった思い出の多いグランプリであった。
また20周年記念祝賀会を開催するにあたりモナコ公国大公アルベール2世殿下より宮殿に招待されることになり、それとともに無限の電動レーシングバイク「神電四」も宮殿に展示していただけることになった。余談だがモナコGP優勝が縁となりアルベール2世殿下は皇太子時代(1998年2月4日)に無限を訪問されている。
今回の「F1モナコGP優勝20周年記念」についてはトーチュウF1エクスプレスに詳しく掲載されている。
27日夜にカジノ・ド・モンテカルロでF1モナコGP優勝20周年記念パーティーが開催された。パーティーには本田博俊(優勝当時の無限社長)やオリビエ・パニス選手、ギ・リジェ代表の孫娘カミーユさんも出席され、当時の話に花を咲かせた。
また25日に本田博俊は宮殿に招かれ、アルベール2世大公に拝謁し「神電」を紹介した。その際に特別に製作した神電のモーターカバーがオブジェとしてあしらわれている記念品を献上した。