日本史/明治時代 - ホームメイト
- 小
- 中
- 大
そもそも明治時代とは?
明治時代の大きな流れ
明治時代の起源をいつと定めるのかは諸説あります。
一般的には、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)による「大政奉還」(たいせいほうかん:朝廷に政権を返上すること)を経て、「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい:天皇を中心とした治世を復活させ、明治新政府設立を宣言した号令)が出された1867年(慶応3年)12月。
しかし、「明治天皇」の践祚(せんそ:皇位に就くこと)が行われた1868年(慶応4年/明治元年)1月とする説や、「一世一元の制」(いっせいいちげんのせい)が発布され、明治の元号が用いられるようになった1868年10月とする説もあり、時代区分の定義(政権・元号・即位)によって変わります。
明治時代の開始時期が曖昧な理由は、新政府が半ばクーデターに近いかたちで誕生したためです。先に新政府を樹立して既成事実を作り、そのあとで法整備や旧江戸幕府軍の征討が遂行されました。
これにより江戸幕府の終焉と、実質的な新政権の起源との間にグレーゾーンが存在するのです。明治時代は次の表の通り、大きく3つの時期に分けることができます。
ひとつ目は、明治維新から1877年(明治10年)の「西南戦争」(せいなんせんそう)までを指す時期。2つ目は「自由民権運動」が巻き起こったのち、1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」が制定されるまでの時期。そして3つ目は、「日清戦争」(にっしんせんそう)と「日露戦争」(にちろせんそう)を経て、帝国主義が確立された時期です。
No | 西暦(和暦) | 主な出来事 |
---|---|---|
1 | 1868年(明治元年)~ 1877年(明治10年) |
明治維新が始まる 西南戦争の勃発 |
2 | 1874年(明治7年)~ 1889年(明治22年) |
自由民権運動が起こる 大日本帝国憲法の制定 |
3 | 1889年(明治22年)~ 1912年(明治45年) |
1894年(明治27年)日清戦争の勃発 1904年(明治37年)日露戦争の勃発 日本帝国主義の確立 |
明治政府の国家スローガンは「富国強兵」(ふこくきょうへい:経済を発展させることで軍事力を強化していく政策)。そもそも倒幕自体が、西洋列強の侵略から日本を守るためでした。明治政府は、「強い国を作ること」が最大の目標であり、そのために様々な法整備や海外進出が行われたのです。
まず明治政府が行った施策は、平安時代から続く封建制度からの脱却。もっとも大きな転換点となったのは、1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)です。これにより全国の土地や人民は、すべて国が管理することになりました。
領主の存在がなくなったことで全国から税収を得られるようになり、国直属となる軍隊の創設も可能になったのです。事実上、明治政府が発足したのは、このときとも言われています。さらに、西洋諸国へ日本の開明性(かいめいせい:文化が進んでいる状態)を訴えるために身分制度を撤廃し、「四民平等」(しみんびょうどう)を推進。
しかし、その結果、従来特権階級だった士族(江戸時代の旧武士階層)が困窮するようになり、やがて日本史上最後の内戦・西南戦争へと至るのです。その後、武力による蜂起(ほうき)の代わりに起こったのが、言論による反政府運動。
特に隆盛を誇ったのが、「板垣退助」(いたがきたいすけ)を中心とする自由民権運動でした。その頃の明治政府は、国民の意見を吸い上げる機関「国会」が存在せず、板垣退助らは「国会期成同盟」(こっかいきせいどうめい)を結成して、強硬に国会開設と憲法制定を要求。政府は仕方なく10年後の国会開設を約束し、その間に国会にまつわる内容を盛り込んだ憲法の起草を進めることになりました。
このとき、中心的な役割を担ったのは「伊藤博文」(いとうひろぶみ)です。まずは憲法調査のためヨーロッパへ飛び、帰国後に「内閣制」を導入して初代内閣総理大臣になると、憲法草案を審議するために創設された「枢密院」(すうみついん)の議長に就任。1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」を制定しました。
国内の法整備がひと段落したことで、日本は本格的に海外への進出を開始します。外務大臣の「陸奥宗光」(むつむねみつ)が、イギリスを始めとする列強15ヵ国との不平等条約の改正に成功すると、朝鮮の支配をめぐって日清戦争を起こして勝利。
その賠償金をもとに軍備を拡大し、やがて大国・ロシア帝国との日露戦争へと突入しました。ここで辛うじて勝利を収めた日本は、アジア随一の軍事大国としての地位を確立。朝鮮や満州を植民地化し、以降、帝国主義の道を邁進していくのです。
明治時代の主要人物
西郷隆盛
「西郷隆盛」は、「維新三傑」(いしんさんけつ)のひとりに数えられる明治維新の立役者で、1828年(文政11年)、薩摩国の下級武士「西郷吉兵衛」(さいごうきちべえ)の長男として誕生。
近所に「大久保利通」(おおくぼとしみち)がおり、幼い頃から共に勉学に励んでいました。1844年(天保15年/弘化元年)に「郡方書役助」(こおりかたかきやくたすけ:藩における農政の事務補助を行う役職)となり、農政について知見を得ると藩庁へ意見書を提出。これが、「島津家」の世嗣「島津斉彬」(しまづなりあきら)の目に留まります。
そして、島津斉彬の江戸参勤に伴って「御庭方役」(おにわかたやく:諜報活動を行う隠密)に大抜擢され、公家や諸大名との連絡役を務めるようになったのです。島津斉彬没後、西郷隆盛は「安政の大獄」(あんせいのたいごく)を機に、2度の島流しに遭いますが、大久保利通の取りなしによって藩政の中枢へ。
主に軍事面の責任者を担い、「禁門の変」(きんもんのへん)や「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)で活躍。やがて大久保利通や薩摩藩家老「小松帯刀」(こまつたてわき)らと連携して、「薩長同盟」(さっちょうどうめい)や「薩土盟約」(さつどめいやく)などを締結し、武力面における「薩摩の顔」となりました。
また西郷隆盛は、1868年(慶応4年/明治元年)から始まった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)で参謀を務め、「江戸城」(東京都千代田区)の無血開城を実現。
戊辰戦争後は、いったん薩摩国へ戻りますが、新政府に請われて参議に就任。「岩倉使節団」の外国回遊時には、留守番を任された「留守政府」の中心として政務を担いました。
ところが、「明治六年の政変」で下野(げや:官職を辞任して民間に下ること)すると、不平士族に担がれ西南戦争の首領となり、1877年(明治10年)に自刃して亡くなります。
西郷隆盛は、極めて人望が高かったことでも知られ、味方はもちろん、敵からも愛される人物でした。豪胆(ごうたん:度胸があって、物事に動じないこと)と至誠(しせい:極めて誠実なこと)を併せ持つ清廉潔白な性格で、明治時代の君主にあたる明治天皇が、もっとも信頼して愛したのは西郷隆盛だったと言われています。
大久保利通
大久保利通は、1830年(文政13年)に薩摩藩士「大久保利世」(おおくぼとしよ)の長男として誕生。幼少期は西郷隆盛らと学問に励み、近所では有名な秀才でした。
しかし、父が「お由羅騒動」(おゆらそうどう)というお家騒動に連座して謹慎。貧困にあえぐ生活を強いられます。元服後に大久保利通は、「精忠組」(せいちゅうぐみ)と称する組織を結成して事実上の首領になると、薩摩藩の国父(藩主の父で実質的な指導者)であった「島津久光」(しまづひさみつ)の囲碁相手に選ばれたことをきっかけに、側近として躍進。
やがて藩政を主導する立場にまで上り詰めます。大久保利通がその辣腕(らつわん)を発揮したのは、王政復古の大号令が発せられたときです。公家の「岩倉具視」(いわくらともみ)と結託し、「徳川家」を排除することに成功。
明治新政府樹立の立役者になりました。明治時代に入ってから大久保利通は、政府の中心人物として次々に改革を手掛け、明治六年の政変後は、初代「内務卿」(ないむきょう:事実上の首相)に就任。明治政府の頂点に君臨しました。
ほぼ独裁に近いかたちで富国強兵政策を推し進めたものの、1878年(明治11年)に不平士族に襲われ、49歳で死去。性格は沈着冷静で思慮深く、政治の駆け引きが非常に巧みでした。
冷徹な人物として政府内でも恐れられ、大久保利通に意見できる者はごくひと握りだったと言われています。一方で大久保利通は私欲がなく、国の公共事業などは私財を投じて推進。西郷隆盛に負けず劣らず、「無私」の人物だったのです。
板垣退助
板垣退助は1837年(天保8年)、土佐藩の上士(じょうし:土佐藩内で最高位の家格)「乾正成」(いぬいまさしげ)の嫡男として誕生。
幼少期は、幼なじみの「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)と喧嘩に明け暮れる日々を過ごしますが、江戸への遊学後、「尊皇攘夷/尊王攘夷」(天皇を尊んで外敵を排除しようとする思想)に目覚めて各藩の志士と交流。
家柄が良かったこともあり、藩内でも町奉行や大目付(おおめつけ:藩政全般を監察する役職)などの要職を歴任し、存在感を高めていったのです。江戸幕府の終焉が迫ると、土佐藩が大政奉還を目指すなか、板垣退助だけは藩論を無視して武力による倒幕を終始模索していました。
そして西郷隆盛らに接近し、「薩土倒幕の密約」(さつどとうばくのみつやく)を締結することに成功します。戊辰戦争が始まると板垣退助は、密約通りに自ら編成した「迅衝隊」(じんしょうたい)を率いて各地を転戦。
「会津戦争」(あいづせんそう)では「会津若松城」(福島県会津若松市:別称[鶴ヶ城])を開城させるなどの手柄を立てて、凱旋しました。
明治維新後は、高知藩の「大参事」(だいさんじ:現在の副知事)に抜擢され、そのあと、新政府の参議に任じられますが、明治六年の政変で西郷隆盛らと共に辞職。
在野(ざいや:公職に就かずに民間で活動すること)となった板垣退助は、「五箇条の御誓文」(ごかじょうのごせいもん)にある「広く会議を興し、万機公論の決すべし」の文言をもとに、議会制政治の実現を目指すようになり、自由民権運動を主導しました。
しかし、1882年(明治15年)、板垣退助は演説中に、暴漢に襲われ負傷。その際に言い放った「板垣死すとも自由は死せず」と言う名言は、現在も広く知られています。
「帝国議会」の開設後は、衆議院の第一党となった「立憲自由党」(のちの[自由党])を率いて政界でも活躍。晩年は内務大臣なども務めました。
伊藤博文
伊藤博文は1841年(天保12年)に、長州藩の農民「林十蔵」(はやしじゅうぞう)の長男として誕生。家が非常に貧しく、父は出稼ぎ。幼少期は母の実家で育てられました。
のちに父が足軽の「伊藤弥右衞門」(いとうやえもん)の養子となったことで萩(山口県萩市)へ移り住み、寺などで読み書きを習い始めます。
16歳のとき、「吉田松陰」(よしだしょういん)の「松下村塾」(しょうかそんじゅく)に入塾すると、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らと交流。18歳のときに、「桂小五郎」(かつらこごろう:のちの木戸孝允[きどたかよし])の従者として江戸を訪れた際、尊皇攘夷思想に触れたことで、志士となって活動を開始します。
1863年(文久3年)、長州藩の留学生としてイギリスへ留学する機会に恵まれ、英語を習得。これにより、伊藤博文は帰国後、長州藩の外国応接係に抜擢されます。
通訳として藩に重宝された一方、高杉晋作によるクーデター、「功山寺挙兵」(こうざんじきょへい)が発端となった「元治の内乱」(げんじのないらん)の際は、自ら編成した「力士隊」([奇兵隊]の支隊)を引き連れて最初に駆け付けた他、英語力を活かして、「神戸事件」など外国人刺殺事件の解決に尽力。
明治維新後は、長州藩における実力者のひとりとして、参与などの要職に抜擢されました。そして、伊藤博文は大久保利通の死後、内務卿を継いで政府の実権を握ると、憲法制定に奔走。
初代内閣総理大臣や初代枢密院議長などの重責を次々と担います。性格は朗らかで柔軟性に富み、お金に対しては清廉潔白。1909年(明治42年)、満州のハルビン駅で抗日運動家「安重根」(あんじゅうこん)に銃撃されて死去。69歳でこの世を去りました。
福沢諭吉
「福沢諭吉/福澤諭吉」(ふくざわゆきち)は、1835年(天保6年)に、豊前国・中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士「福沢百助」(ふくざわひゃくすけ)の次男として生まれました。
幼少期は家が貧しかったことから、内職をしながら勉学に励み、19歳のときに長崎へ留学。ここで砲術や蘭学などを学んだのちに、大坂の「緒方洪庵」(おがたこうあん)が営む「適塾」(てきじゅく)へ入塾し、塾頭を務めるほどの才覚を発揮しました。
1860年(安政7年/万延元年)には、江戸幕府による遣米使節団の一員として、「咸臨丸」(かんりんまる)に乗り込み渡米。帰国後は「慶應義塾」(けいおうぎじゅく:現在の[慶應義塾大学])を開き、蘭学などを教えました。「上野戦争」(うえのせんそう)が起こったときも、砲撃の音を聞きながら授業を続けたと言う逸話は有名です。
日本初の近代学校制度「学制」が施行された1872年(明治5年)、福沢諭吉の著書「学問のすゝめ/学問のすすめ」が約3,000,000部発行の大ベストセラーとなり、明治時代を代表する思想家・教育者として一躍名を馳せます。
そのあと、「時事新報」などの新聞創刊や、政府の重鎮「大隈重信」(おおくましげのぶ)との連携など、政界にも影響力を発揮。「時事新報」に掲載された「脱亜論」(だつあろん)において、「アジアを脱して西洋列強と同じ道を歩むべき」と説いた際は、日本が帝国主義を突き進む一因になるほど、大きな反響を呼び起こしました。
また、明治時代の言語革命にも寄与し、「文明開化」や「経済」、「演説」、「自由」などの和製漢語は、いずれも福沢諭吉が考案。晩年、日本近代医学の父と称される「北里柴三郎」(きたさとしばさぶろう)のために、「伝染病研究所」を設立するなどの事業も行っており、文学から教育、文化にまで幅広く影響を与えた人物です。
明治時代の政治
明治新政府の誕生と戊辰戦争
1867年(慶応3年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行った前後から、次の政権をめぐる駆け引きが始まりました。
徳川慶喜が画策したのは、江戸幕府が築いた265年の実績を背景に、明治新政府においても主導的な立場に収まること。
しかし、1867年(慶応3年)12月に突如、薩摩藩を始めとする計5藩の軍勢が御所を取り囲み、幕府関係者を排除した状態で王政復古の大号令を発布。
幕府や将軍職、摂政・関白職などを廃止した上で、新たに「総裁」(そうさい)、「議定」(ぎじょう)、「参与」(さんよ)の三職(さんしょく)を設置したのです。ところがその中に、徳川慶喜ら旧幕府勢力の名前はありませんでした。
さらにその夜開かれた「小御所会議」(こごしょかいぎ)では、徳川慶喜の官位と領地の没収が決定。これにより徳川家は、完全に新政府から締め出された格好となったのです。徳川慶喜はひとまず大坂へ退くと、すぐに次の手を打ちました。
日本にいるアメリカやイギリス、フランスなど計6ヵ国の公使を集めて、引き続き外交の窓口は徳川家が務めることを宣言。国外における信用度の高さを利用し、諸外国を味方に付けたのです。
また、小御所会議で決められた領地の返還についても、うやむやにして持久戦に持ち込み、日和見を続ける諸藩を徳川方に引き込もうと考えたのでした。実際、明確に新政府側であった藩は、薩摩藩や長州藩などひと握り。この時点では兵力も軍備も徳川方が勝っていたのです。
短期決戦に持ち込みたい新政府側は、ここでなりふり構わず挑発作戦を開始します。薩摩藩の西郷隆盛が江戸に工作員を放ち、強盗や略奪を繰り返したあげく、江戸城二の丸に放火して全焼させたのです。
この所業に激怒した幕府方は、報復として芝(現在の東京都港区)の薩摩藩邸を焼き討ち。さらに徳川慶喜のいる大坂でも主戦論一色に染まり、もはや徳川慶喜が制止できない状況に陥ってしまったのです。
こうして、戊辰戦争の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)が勃発。賊軍(天皇[朝廷]に敵対する軍勢)の汚名を着せられた旧幕府軍は敗北を喫し、徳川慶喜は海路で江戸へ逃亡したのち、恭順の意を示すため謹慎します。
それでも新政府軍は、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)が「東征大総督」(とうせいだいそうとく)、西郷隆盛らが参謀を務めて江戸への進軍を開始。
江戸城総攻撃目前で、徳川方の陸軍総裁「勝海舟」(かつかいしゅう)と西郷隆盛の会談によって江戸城無血開城が実現しますが、そのあとも、旧幕府軍の主戦派が各地で抵抗を続け、戊辰戦争の終息には約1年半の歳月が費やされたのです。
なお、新政府軍の東征に先駆けて、ひとつの事件が起こっています。東山道(とうさんどう/とうせんどう)沿線諸藩の動向を探るために編成された「赤報隊」(せきほうたい)が、偽官軍と見なされて処刑されたのです。
「相楽総三」(さがらそうぞう)率いる赤報隊は、新政府の「東山道鎮撫総督」(とうさんどうちんぶそうとく)指揮下において、先鋒を務めていました。実は進軍の際に赤報隊は、事前に新政府の許可を得た上で、諸藩の人々に年貢半減令を布告。
しかし、新政府は戦費を埋め合わせる必要に迫られ、「三井組」らの豪商から借金することに。これにより年貢の半減が実現不可能になり、辻褄を合わせるために赤報隊を犠牲にしたのでした。戊辰戦争に掛かった莫大な戦費は、そのあとの明治新政府に大きくのしかかることになるのです。
財政難によって強行された廃藩置県
1868年(慶応4年/明治元年)3月、明治新政府の基本方針をまとめた五箇条の御誓文が布告されたことにより、古い慣習を捨てて新しい思想を取り入れることが明言化されました。さらに同年7月、江戸が東京に改称され、9月には一世一元の制によって、天皇ひとりにつき年号をひとつのみに制定することが決定。
明治天皇は、10月に初めて東京へ行幸したのち、いったん京都に戻ります。そして1869年(明治2年)3月に改めて東京へと入り、以降日本の首都は、京都から東京へ移りました。明治時代初期、実質的に国政を取り仕切ったのは、王政復古の大号令などで参与に選ばれた人々です。
倒幕で功績を挙げた薩摩藩と長州藩出身者が中心でしたが、次いで土佐藩と肥前藩が要職を占めました。「薩長土」は倒幕時から連携していた雄藩(ゆうはん:勢力の強大な藩)ですが、ここに肥前藩が食い込んだのは、戊辰戦争で新政府軍の中核を担ったためです。肥前藩は幕末期に西洋化を推し進め、自藩で最新鋭のアームストロング砲を製造するほど、高い軍事力を有していました。
この「薩長土肥」の四藩と、倒幕に尽力した公家達によって構成された参与のうち、特に発言力が強かったのは、公家出身の岩倉具視や薩摩藩の大久保利通、長州藩の木戸孝允などです。なかでも慎重派の大久保利通と急進派の木戸孝允は意見が合わず、たびたび対立を繰り返していました。
例えば、国の常備兵の設置。大久保利通は薩長土から徴兵する案を出しましたが、木戸孝允は国民全体からの徴兵にこだわり、結局木戸孝允の案が採用されています。このとき、薩摩に帰藩していた西郷隆盛が呼び戻されて、「御親兵」(ごしんぺい:天皇及び御所の護衛を行う軍隊)の創設が行われました。
また、廃藩置県の実施方法についても意見が衝突。藩主から従来の権限をいきなり剥奪すると反発が強くなる恐れがあることから、大久保利通はまず土地と人民を朝廷に返還する「版籍奉還」(はんせきほうかん)を実施することを提案。
木戸孝允は、即時の廃藩置県を主張しますが、結局大久保利通の案が採用されました。1869年(明治2年)6月に薩長土肥の4藩主が連署した上で版籍奉還が実施されたものの、その効果は限定的。
藩主の多くは「徳川将軍の代わりに、朝廷が知行安堵をした」と解釈し、封建制度からの脱却を目指した新政府の意図は、ほぼ伝わらなかったのです。ここで障害になったのが、新政府の税収問題。実はこの頃、新政府には直轄地が少なく、ほとんど財源を有していませんでした。
その上、戊辰戦争の費用がかさみ、国の財政は破綻寸前。「不換紙幣」(ふかんしへい)と言う金貨や銀貨との交換ができない紙幣を大量に発行することで急場をしのいでいましたが、極度のインフレと米価の高騰を招いてしまい、庶民の不満も頂点に達していたのです。
実際、1869年(明治2年)だけでも全国で151件もの一揆が起こった他、維新への失望などから政府要人が襲われる事件も多発していました。つまり、藩主達の同意を得てから廃藩置県へと移行するほど時間の余裕がなかったのです。
1871年(明治4年)、新政府は全国の知藩事(ちはんじ:版籍奉還で任命された地方長官で、旧藩主のこと)を一堂に集め、突如廃藩置県を公布。藩の代わりに府と県が置かれて3府302県となり、その直後、3府72県に統合されました。
また、中央政府からは知事と県令が派遣され、各地の支配体系も新政府によって一元化。各藩の税収もそのまま国の税収へと移行されました。こうして平安時代から続く地方分権は一掃され、日本は中央集権国家として生まれ変わったのです。
新政府は当初、反発を想定して御親兵による鎮圧を企図していましたが、大きな反乱は起こりませんでした。その理由は、そもそも財政難だった藩が多かったことや、旧藩士が抱えていた債務がすべて免責されたことなどが挙げられます。
岩倉使節団の派遣と留守政府
明治新政府に課せられた大きな課題のひとつが、不平等条約の改正です。幕末期に結んだアメリカやオランダ、イギリス、ロシア、フランスとの条約内には、「領事裁判権」(外国人が日本で罪を犯しても日本では裁かれず、本国の領事による裁判を受ける権利)を諸外国が持つことや、「関税自主権」(輸出入品の関税を日本が決める権利)が、日本にないことなどが盛り込まれていました。
しかし、この不平等条約の締結時に、1872年(明治5年)7月に改訂できるという条件が定められており、新政府は、来る(きたる)べきその機会に向けて予備交渉を行おうと考えていたのです。
こうした背景から、1871年(明治4年)11月に派遣されたのが岩倉使節団。特命全権大使に岩倉具視、副使官に大久保利通や木戸孝允、伊藤博文などが名を連ね、総勢107名に及ぶ大使節団となりました。
当初は、条約改正御用掛の大隈重信が単独で渡海する予定でしたが、大久保利通や木戸孝允らが諸外国を目にしたことがなかったため、政府首脳陣が長期間国を留守にすると言う異例の外遊が実現したのです。
このとき日本の国政を一任されたのは、太政大臣の「三条実美」(さんじょうさねとみ)や西郷隆盛の他、大隈重信、「江藤新平」(えとうしんぺい)、板垣退助、「井上馨」(いのうえかおる)らの面々。いわゆる「留守政府」が託されたのは、主に廃藩置県の事後処理などでした。
一方で大久保利通からは、「岩倉使節団の外遊中に大規模な政治改革を行わないように」と釘を刺されており、盟約書まで書かされています。岩倉使節団が最初に向かったのはアメリカでした。ここで早くも条約改正交渉は暗礁に乗り上げます。
そもそも国家間における条約を改正するためには、国の君主である明治天皇からの全権委任状が必要だったことを知らなかったのです。交渉のテーブルにさえ着くことができない状況に直面し、岩倉使節団は方針転換。条約改正は諦め、日本近代化のための欧米視察に切り替えました。
日本へ戻ったのは、出航から1年10ヵ月後の1873年(明治6年)9月です。この間、西郷隆盛を中心とした留守政府は、国政を止めるように指示されていたにもかかわらず、次々と改革を推進。
まず、岩倉使節団が出航する前に布告されていた四民平等政策によって、大名や公家は「華族」(かぞく)、一般の武士は「士族」、農民や商工業者は「平民」となりましたが、実態は身分制度が色濃く残っていました。そのため、華族や士族はもちろん、平民にも職業を選択する自由を承認。
1872年(明治5年)10月には、江藤新平の主導で「人身売買禁止令」も公布されました。また、日本における最初の近代的学校制度である学制を定め、身分や性別に関係なく教育が受けられるように法整備を行っています。このように、まずは人権面での近代化を推進していったのです。
廃藩置県の後処理についても次々と改革を推し進め、「壬申地券」(じんしんちけん)と言う地券の発行によって、土地の所有者や初代地、石高などを明確化。その上で1873年(明治6年)に「地租改正法」(ちそかいせいほう)を制定し、税収の安定確保を目指しました。
これにより、地租は3%全国一律と定められますが、この数値はあらかじめ国に必要な税収額から逆算して設定したため、結果的には江戸時代と変わらない重税となって一揆が頻発。土地を売買する者も続出し、その後も数年に亘り、地租改正にまつわる調整が続けられ、安定し始めたのは1878年(明治11年)頃でした。
この他にも留守政府は、1873年(明治6年)1月の「徴兵令」(ちょうへいれい)による国民皆兵の浸透や、太陽暦の採用などを実施。さらには、初代「司法卿」(司法行政の長官)の江藤新平が力を持つようになり、長州藩出身の「山県有朋」(やまがたありとも)や井上馨の収賄を嗅ぎ付けて問題が表面化。
岩倉使節団不在時に、留守政府の中枢はすっかり様変わりしてしまったのです。極め付きは、李氏朝鮮との外交問題。朝鮮に設置されていた「草梁倭館」(そうりょうわかん)と称する建物を、日本政府が勝手に「大日本公館」と改名します。
その上、三井組らの商人が朝鮮に進出してきたことで、両国の関係が悪化し始めてしまいました。明治新政府はいったん朝鮮への即時出兵を主張する「征韓論」(せいかんろん)に染まりますが、西郷隆盛が使節として朝鮮へ渡ることで決着。
その頃、ようやく岩倉使節団の面々が帰国したのです。大久保利通や岩倉具視は、この西郷隆盛を派遣する案に猛反対。しかし、一度閣議で内定した事項をたやすく変更することはできません。そこで大久保利通と岩倉具視は、一計を案じます。
過剰なストレスによって体調を崩した三条実美に代わり、岩倉具視が臨時の太政大臣に就任。西郷隆盛派遣案を明治天皇へ上奏する際、私見として派遣反対を述べて、明治天皇を説得したのです。
こうして朝鮮への派遣は無期延期に落ち着きました。ところが閣議決定が覆されたことで、西郷隆盛、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助らは辞任。いわゆる「明治六年の政変」によって、再び大久保利通らに政治の実権が渡ったのです。
大久保利通による政治
明治六年の政変で国政の実権を掌握した大久保利通は、「内務省」を創設し、自ら内務卿に就任します。職権は多岐に亘り、大蔵省と司法省以外すべての業務を統括。事実上、日本の首相とも言える立場になったのです。
この独裁ぶりに、参議を辞職した江藤新平や板垣退助、後藤象二郎、「副島種臣」(そえじまたねおみ)らが「愛国公党」(あいこくこうとう)を結成して、「民撰議院設立建白書」(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を提出。政治の実権が天皇にも人民にもない状況を批判し、「民撰議院」(国民が選んだ議員によって構成される議院)の開設を要求したのです。
しかし、大久保利通はいっさい顧みることなく「有司専制」(ゆうしせんせい:特定の藩閥政治家によって行われる政治)を断行しました。富国強兵の実現と士族の不満を外へ向けるため、大久保利通は、まず1874年(明治7年)に「台湾出兵」を敢行。
琉球(現在の沖縄県)の島民が台湾に流れ着いた際に殺された事件があり、その抗議活動として軍隊を送り込んだのです。台湾の領有をめぐっては清国(中国)も介入し、一触即発の事態に発展します。
ところがイギリスの介入によって清国が折れ、日本は見舞金を獲得。同時に琉球の民が日本人であることが国際的に認められた事件にもなったのです。この交渉を取りまとめたのは、全権大使として北京入りした大久保利通でした。
さらに1875年(明治8年)、朝鮮の首府・漢城(現在の韓国・ソウル)近郊の江華島沖に、飲料水補給の名目で上陸。李氏朝鮮との小競り合い「江華島事件」(こうかとうじけん)が発生すると、すかさずアメリカやイギリスの支持を取り付けて、開国と貿易を要求しました。軍艦6隻を引き連れて軍事的圧力を掛けた日本は、不平等条約「日朝修好条規」(にっちょうしゅうこうじょうき)の締結に成功。
まさに日本がアメリカにされたことを、そのまま李氏朝鮮にやり返したのです。国外への進出によって、日本の国際的な地位向上が図られた一方で、国内は重大な財政危機に直面しました。地租改正だけでは増加する軍費に対処しきれず、抜本的な改革が必要になっていたのです。
そこで大久保利通は、士族への家禄に目を付けました。当時、財政支出の3分の1が士族への家禄(かろく:明治時代初期に、華族や士族の家格に対して支給された俸禄)だったため、まず1873年(明治6年)12月に「家禄税」を掛け、その上で「秩禄奉還」(ちつろくほうかん)を公布。家禄を受け取っていた華族、及び士族のうち、自主的に奉還する者に対しては、現金と秩禄公債の半々で6年分の家禄を配ると言う政策でした。
さらに1876年(明治9年)8月には、「金禄公債証書発行条例」(きんろくこうさいしょうしょはっこうじょうれい)が出され、家禄の支給を止める代わりに、すべての受給者に5〜14年分の公債を交付したのです。
これらの政策には、士族達にまとまった現金を渡すことで新しい商売を始めさせようとする狙いがありましたが、これまで商売などしたことのない士族にとっては斬り捨てに等しく、一気に不満が爆発します。やがて「廃刀令」(はいとうれい)が公布され、行き場を失った不平士族達は、政府へ牙を剥き始めたのでした。
不平士族の反乱と西南戦争
不平士族による最初の武力蜂起は、1874年(明治7年)2月、明治政府の重鎮だった江藤新平が、不平士族に担がれて起こした「佐賀の乱」です。同乱の際に江藤新平の軍勢は、10,000人以上の兵力を有していました。
これに対抗するべく大久保利通は、自ら軍の編成などを行い、約2ヵ月後に明治政府側が勝利を収めて終結。捕縛された江藤新平は、初代・司法卿として裁判にまつわる法整備を進めたにもかかわらず、弁明の余地などをいっさい与えられないまま死刑、晒し首に処されました。
一説では、明治政府内でライバル関係にあった大久保利通による私的な制裁だったとも言われています。この一件を皮切りに全国の不平士族が次々と挙兵。1876年(明治9年)9月に福岡県で「秋月の乱」(あきづきのらん)、1876年10月24日には熊本県において、神官の「太田黒伴雄」(おおたぐろともお)による「神風連の乱」(しんぷうれんのらん)が勃発したのです。
さらに同年10月28日には、山口県で元参議の「前原一誠」(まえばらいっせい)が「萩の乱」(はぎのらん)を起こしました。いずれも反乱自体は数百人規模に過ぎず、明治政府軍が勝利しています。この頃、明治政府がもっとも懸念していたのは、政界を下野したのち、鹿児島で隠棲(いんせい)していた西郷隆盛の動向でした。
西郷隆盛は、士族の不満を緩和するために教育機関「私学校」(しがっこう)を設立したものの、逆に不平士族の温床となっていたことで、政府は警戒感を強めていたのです。そんな折、政府の密偵が私学校の生徒に捕まり、刺殺を企てていたことを白状。
これに激高した私学校の生徒達が、鹿児島の弾薬庫を襲撃したことで、1877年(明治10年)1月に西南戦争が勃発しました。一説では、「刺殺」と「視察」の誤解が原因だとも言われています。
この頃、明治維新を牽引した木戸孝允が、最期に「西郷もいい加減にしないか」と言い残して、死の床に就きました。やがて西南戦争は、8ヵ月に及ぶ戦闘の末、西郷隆盛が自刃すると言う結末を迎えます。以降、武力による不平士族の反乱は終息し、代わりに自由民権運動と言う言論闘争が幕を開けるのです。
自由民権運動の激化
西南戦争の終結後、大久保利通は中央集権から地方分権へと舵を切り、1878年(明治11年)に「地方三新法」(ちほうさんしんぽう)を公布しました。
①「郡区町村編制法」(ぐんくちょうそんへんせいほう)、②「府県会規則」(ふけんかいきそく)、③「地方税規則」(ちほうぜいきそく)の3法から成る同法によって、地方に議会が設けられ、地方税制が確立されたのです。
大久保利通としては、国の基盤作りは有司専制によって強引に推し進め、軌道に乗ったあとに、広く分権を浸透させていこうと考えていました。しかし、大久保利通は1878年(明治11年)5月、志半ばで不正士族による暗殺事件「紀尾井坂の変」(きおいざかのへん)で凶刃(きょうじん)に倒れます。
その後、明治政府の中枢は、内務卿を継いだ伊藤博文が担うようになるのです。一方、不平士族の多くは武力による政府への反抗を諦め、各地で言論活動を開始。当時の政府には、そもそも国民の意見が反映される仕組み自体がなかったため、国会の早期開設と憲法の制定が叫ばれるようになったのです。
この運動の中心となったのが、1874年(明治7年)に、政府へ民撰議院設立建白書を提出した人物のひとり、板垣退助。参議を辞職したのち、「立志社」(りっししゃ)という政治団体を発足し、1878年(明治11年)9月に日本最初の全国的な政治結社「愛国社」(あいこくしゃ)を再興しました。
さらに1880年(明治13年)3月には、愛国社の全国大会において国会期成同盟を発足。ここで全国の国会開設論者をひとつに束ねたことで、全国を舞台にした自由民権運動が始まったのです。なお、運動に積極的だった層は大きく分けて2つありました。
それは、不平士族による「士族民権」と、農村指導者が中心となった「豪農民権」です。士族だけでなく平民も運動に参加するようになったことが、自由民権運動が拡大した大きな要因になります。
自由民権運動の過剰な盛り上がりに対して、明治政府も手を打ちます。「プロイセン」(ドイツ帝国の盟主)の弾圧法をもとにした「集会条例」を布告し、政治弾圧を加えたのです。ここで国会期成同盟は、「河野広中」(こうのひろなか)と「片岡健吉」(かたおかけんきち)に、国会開設の請願書を託して上京させますが、「太政官」(だじょうかん:当時の最高行政機関)にも「元老院」(げんろういん:当時の立法機関)にも提出できないまま却下。
以降、自由民権運動はさらに具体化し、政党の結成や憲法案の作成へと発展しました。特に私擬憲法(しぎけんぽう:私的な憲法案)作りは盛んに行われ、それらの草案は40以上にも及んだのです。その多くは新聞や雑誌で発表され、庶民の間でも大いに議論を呼びました。
主な私擬憲法としては、福沢諭吉によって結成された交詢社の「私擬憲法案」、法学者「小野梓」(おのあずさ)が設立した「共存同衆」(きょうぞんどうしゅう)の「私擬憲法意見」、元老院大書記官「沼間守一」(ぬまもりかず/ぬましゅいち)の「嚶鳴社」(おうめいしゃ)による「嚶鳴社憲法草案」などです。
なかでも多くの支持を集めたのが、板垣退助の懐刀として活躍した論客「植木枝盛」(うえきえもり)による「東洋大日本国国憲按」(とうようだいにほんこくこっけんあん)です。220条にも及ぶ大作で、主権は国民にあることや、権利が侵された場合は革命が許容されるなど、極めて民主的な内容でした。
国民感情が国会開設と憲法制定一色に染まるなか、政府はようやく重い腰を上げます。1881年(明治14年)10月、帝国議会を10年後に開催することを宣言。直後、板垣退助は国会期成同盟の第3回大会において自由党を結成し、自ら総理(党首のこと)に就任します。日本初の全国的な政党の誕生でした。
この頃、新聞や雑誌、書籍などでも民主主義の思想が大きく取り上げられ、人々の人権に対する意識も大きく変化。特に影響力を発揮したのは、「中江兆民」(なかえちょうみん)が「ルソー」の「社会契約論」を翻訳した「民約訳解」(みんやくやくかい)です。これがベストセラーとなり、「そもそも国の主権は人民にある」と言う考え方が、広く日本に定着していきました。
自由民権運動の熱気が最高潮に達したのは、1882年(明治15年)4月、板垣退助が遊説中に、暴漢に刺されて「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残した頃です。
ここに至って政府は、自由党の勢いを削ぐため一計を案じます。憲法調査の名目で、板垣退助を海外へ留学させたのです。すると党首が不在になったことで、自由党員の一部が暴発。
福島県では農民が重い賦役(ぶやく/ふやく:労働で納める課役)を強いられたとして、県令「三島通庸」(みしまみちつね)に対し、自由党員と農民が蜂起した「福島事件」が勃発。また栃木県でも、県知事を兼任していた三島通庸が、無理な政策を押し通そうとしたことで自民党員が反発します。
これが「加波山事件」(かばさんじけん)と言う暗殺未遂事件に発展し、もはや自民党内でも、武力蜂起の流れを止められない状況に陥ってしまったのです。これにより1884年(明治17年)、自由党は解党。
その直後、貧民救済を武力によって訴えた「秩父事件」(ちちぶじけん)も起こりました。こうして自由民権運動は、言論活動と言う本来の姿を失い、下火になっていったのです。
大日本帝国憲法の制定
自由民権運動が隆盛を極めた頃、政府内では伊藤博文と大隈重信の政争が起こっていました。憲法の制定と議会の開設にあたり、伊藤博文はプロイセンが採用していた「立憲君主制」(憲法にしたがって君主政治が行われる制度)、大隈重信はイギリスの「議院内閣制」(議院が信任する内閣によって政治が行われる制度)を主張していたのです。先に動きを見せたのは大隈重信でした。
当代随一の知識人・福沢諭吉と協力し、議院内閣制に根差した憲法意見書を作成。大隈重信は、これを大臣や参議にいっさい相談せず、立法機関の長官である元老院議長・有栖川宮熾仁親王へと上奏。この勝手な行動に伊藤博文は激怒して、いったん出仕を拒否し、両者に亀裂が生じました。
すると大隈重信は、北海道開拓使長官の「黒田清隆」(くろだきよたか)が、北海道のビール工場や倉庫などを同郷の「五代友厚」(ごだいともあつ)に格安で売ったと言う情報を掴み、福沢諭吉に漏洩(諸説あり)。
大隈重信は、このいわゆる「開拓使官有物払下げ事件」について、福沢諭吉の門下生達が携わっていた「郵便報知新聞」に記事を書かせて、伊藤博文らを攻撃したのでした。このとき大隈重信は、国民の反政府感情を煽ることで、政治の実権を握ろうとしたと言われています。
自由民権運動により反政府の機運が高まっていた時期だけに、庶民の反発は極めて強く、伊藤博文は、すぐさま開拓使官有物の払い下げ中止を公表しました。さらに庶民の怒りを鎮めるために10年後の国会開設を約束。一方で漏洩事件への処罰として、大隈重信一派を政界から追放するクーデター、「明治十四年の政変」を起こしたのです。
これによって、政権は伊藤博文が掌握。以降、政府は10年の猶予期間中に、日本ならではの憲法を制定するため具体的な動きを始めました。1882年(明治15年)に、伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパへ飛び、諸国の憲法を研究。
その中で、君主の力が強く民衆を抑えやすいプロイセン型の憲法こそが、天皇中心の日本には最適であるとし、帰国後、次々と制度を整えていったのです。まず着手したのは、1884年(明治17年)7月の「華族令」(かぞくれい)の発布。
帝国議会を二院制([貴族院]と[衆議院])にする前提で、貴族院に特権階級を送り込めるように、あらかじめ仕込んだのです。その上で1885年(明治18年)に、内閣制度を制定。これまでの太政官制は廃止され、伊藤博文を初代内閣総理大臣とする閣僚を決定しました。
さらに憲法の草案作りでは、「井上毅」(いのうえこわし)や「伊東巳代治」(いとうみよじ)、「金子堅太郎」(かねこけんたろう)らの官僚が中心となり、法律顧問に「ヘルマン・ロエスレル」と「アルベルト・モッセ」を迎え、何度も修正と改正を重ねて成案を構築。
とりわけ伊藤博文がこだわったのは、予算の成立と法律の制定には、議会の承認が必要だと言う点です。すなわち、明治維新以降の日本が財政難に陥った原因の排除と、内閣を議会の外に置くことで生まれやすくなる専制の回避こそが、憲法の核であると考えたのでした。
憲法の完成が間近に迫ると、伊藤博文は内閣総理大臣を辞し、憲法草案の審議を行う枢密院(すうみついん:天皇の諮問機関)の議長に就任。そして1889年(明治22年)2月、「大日本帝国憲法」(だいにほんていこくけんぽう)が公布され、日本はアジア初の近代的な立憲国家となったのです。
なお、大日本帝国憲法が施行されたのは、翌年の1890年(明治23年)11月。国会は、国民の中から選挙によって議員が選ばれる衆議院と、皇族や華族が任命した議員から成る貴族院の二院制となり、憲法の施行前に行われた「第1回衆議院議員総選挙」では、投票率が約94%に上りました。
しかし投票できたのは、直接国税を15円以上納めている25歳以上の男性のみ。国民のおよそ100人にひとりの割合です。議席数は全300席のうち、板垣退助が自由党解党後に立ち上げた立憲自由党が130人、大隈重信が立ち上げた立憲改進党が41人となり、政府系の政党を押さえて、民権派が過半数を占めました。
朝鮮をめぐる争いと日清戦争・日露戦争
国内で自由民権運動が盛り上がり、憲法制定が進められていたさなか、並行して行われていたのが日本の海外進出です。標的にしていたのは李氏朝鮮。
1876年(明治9年)に締結した日朝修好条規を契機に、朝鮮半島には日本のみならず、アメリカやロシア、イギリス、ドイツなどが進出していました。しかし、当時の李氏朝鮮は清国の属国だったため、各国とも表立った侵略行動は控えていたのです。
この当時、清国の軍備は高いレベルにあり、「眠れる獅子」として西洋諸国から一目置かれていた存在でした。そんな中、1882年(明治15年)に漢城の日本公使館が、朝鮮人兵士に襲われると言う事件が起こります。
この「壬午事変」(じんごじへん:別名[壬午軍乱])がきっかけとなり、日本と李氏朝鮮の関係に亀裂が入りました。さらに1884年(明治17年)、朝鮮の親日派がクーデターを起こして王宮を制圧した「甲申事変」(こうしんじへん)が勃発。
日本はすかさず、公使館の守備隊を援軍に出して親日派を助けますが、このとき樹立された新政権は、わずか1日で清兵を率いた「袁世凱」(えんせいがい)に敗北。朝鮮における親日派は一掃されてしまったのです。
その後、李氏朝鮮との間に「漢城条約」が結ばれ、日本人死傷者に対する賠償金や日本公使館の再建費用などを手にした一方で、清国と結んだ「天津条約」(てんしんじょうやく)には、朝鮮からの即時撤退や、今後朝鮮へ出兵する場合は互いに通知し合う条件が付けられ、事実上、朝鮮への足掛かりを失う結果となりました。
ところが、富国強兵政策を維持するためにも李氏朝鮮への影響力を保ちたい日本に、千載一遇の好機が訪れます。1894年(明治27年)に「東学党の乱」(とうがくとうのらん:別名、甲午農民戦争[こうごのうみんせんそう])が起こり、清国が約2,000人の兵を朝鮮へ派遣したのです。
日本も天津条約での取り決めに従い清国へ通達の上、約4,000人の兵を派遣。同乱をすみやかに収束させたものの、日本と清国は治安維持を理由に朝鮮に留まり続けました。その頃、外務大臣・陸奥宗光が、イギリスとの間で結ばれていた不平等条約にある条項のひとつ、領事裁判権の撤廃に成功したと同時に、日本への支持まで取り付けます。ここで日本軍は、強硬手段を選択。
朝鮮王宮を武力で制圧し、半ば無理矢理、清国を朝鮮から追い払うよう依頼を国王より引き出したのです。こうして1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発。この戦いに勝利したことで、日本は西洋諸国から一目置かれる存在になりました。
1895年(明治28年)4月、清国との間で結ばれた「日清講和条約」(別名[下関条約])に基づき、日本は台湾や遼東半島(現在の中国遼寧省南部)などの割譲と、2億両もの賠償金を獲得。しかし、清国の領土を狙う西洋諸国が黙っていませんでした。
ロシアやドイツ、フランスが結託して、日本に遼東半島の放棄を迫ったのです。この「三国干渉」(さんごくかんしょう)を受けた日本は、いったん遼東半島の返還を決断します。これ以降、清国は西洋列強に次々と付け込まれるようになり、没落の一途を辿りました。
その最大の要因となったのが、1900年(明治33年)の「義和団事件」(ぎわだんじけん)。宗教結社の義和団が、清国内の外国公使館を次々と襲撃すると、清国もそれを支持して諸外国に宣戦布告したのです。
これにより日本やアメリカ、イギリス、ロシアなど計8ヵ国の連合軍が清国に投入され、またたく間に首都・北京を占領。清国は「北京議定書」(ぺきんぎていしょ)によって多額の賠償金を負った上に、半植民地化されてしまったのです。
このとき、満州(現在の中国東北区)を手に入れたロシアと、朝鮮半島を領する日本の間で利権争いが起こりました。ロシアは、自国から満州へと延びるシベリア鉄道を守るために大軍を置きつつ、朝鮮半島への侵攻を匂わせていたのです。
日本は有事に備え、1902年(明治35年)に、外務大臣「小村寿太郎」(こむらじゅたろう)の交渉によって「日英同盟」(にちえいどうめい)を締結。その上で、再三にわたってロシアへ撤兵要求を行いました。
しかし、ことごとく無視された上、妥協案も一蹴されてしまいます。こうして1904年(明治37年)2月、圧倒的な戦力差の中、日露戦争が開戦したのです。戦いは要所要所での勝利を積み重ねた日本が、満身創痍になりながらも辛うじて勝利。
1905年(明治38年)10月に結ばれた「日露講和条約」(別名[ポーツマス条約])において、朝鮮半島の領有権と樺太島(からふととう)南半分の譲渡、そして遼東半島南端部や南満州における鉄道の租借権などを勝ち取り、日露戦争は終結しました。
ところが国民の多くは、同戦争によって生じた、損害や生活苦に見合うだけの賠償金を得られなかったことに激怒。全国的な講和反対運動が巻き起こったのです。その後、日本は、「韓国統監府」(かんこくとうかんふ)を設置し、初代統監に伊藤博文が就任。
1909年(明治42年)に満州のハルビン駅で、伊藤博文が抗日運動家に射殺される事件が起こったものの、翌1910年(明治43年)には、「日韓併合条約」(にっかんへいごうじょうやく)が締結されます。
そして日本は、植民地を有する帝国主義国家へ飛躍を遂げました。さらに1911年(明治44年)、小村寿太郎が不平等条約における最後の条項・関税自主権の回復に成功。これにより、維新期から目標に掲げていた富国強兵政策は達成され、日本は、西洋列強に肩を並べる近代国家としての道を歩み始めたのです。
明治時代の経済
日本の近代化と殖産興業
明治新政府が掲げた国家スローガンは、「富国強兵」と「殖産興業」でした。このうち経済面における発展を目指したのが殖産興業です。当時、民政の実権を握っていた大隈重信の主導によって、鉄道網の整備や機械制工業の確立が行われました。
このとき、大いに助けになったのが、江戸時代後期に産業発展の基礎がある程度、築かれていたことです。とりわけ薩摩藩や肥前藩では、幕末期に産業革命が行われており、西洋技術の導入についての見識を持っていました。
また、近代化に欠かせない鉄の産出についても、幕末期に「横浜製鉄所」や「横須賀製鉄所」などが建造されており、明治政府はこれらの製鉄所を造船所として活用。つまり、既存の環境に西洋技術を上乗せするというかたちが可能だったのです。
殖産興業については、「工部省」(こうぶしょう:のちに、内務省に吸収)の初代「工部卿」を務めた伊藤博文や、「大蔵大輔」(おおくらたゆう:大蔵省の次官)の井上馨、彼らの部下に当たる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)や「前島密」(まえじまひそか)などが、その実働部隊として腕を振るっています。
特に前島密が主導した1872年(明治5年)5月の鉄道開通は、庶民に大きな衝撃を与えました。新橋と横浜を約53分で結び、利用者は当時1日4,000人以上。
車両や鉄道はすべてイギリスから輸入され、明治政府のお雇い外国人「ウィリアム・カーギル」に公債発行や建設技術を学びながら、開業へとこぎ着けました。なお、前島密は1871年(明治4年)3月に郵便制度も確立しており、「日本近代郵便の父」とも称されています。
機械制工業においては、1872年(明治5年)10月に日本初の大規模器械製糸工場である「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)を開業。
もともと生糸は、江戸時代に鉱物を除いてもっとも輸出量が多かった品目。日本古来の産業を伸ばしていくことで、殖産興業を成し遂げようと考えたのです。
実際、生糸は昭和時代初期に至るまで日本最大の輸出品目であり続け、富国強兵政策を支える重要な地位を占めたのです。
なお、殖産興業が加速的に発展を遂げた一因に、富国強兵政策との連携が挙げられます。例えば「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)が創始した「三菱財閥」が急成長したのは、1874年(明治7年)の台湾出兵や、1877年(明治10年)の西南戦争において、政府から軍事輸送を請け負ったことがきっかけ。
一方で国内の経済を牽引したのは、大蔵省を辞して実業家に転身した渋沢栄一でした。日本初の近代銀行である「第一国立銀行」(現在の[みずほ銀行])を始め、「抄紙会社」(しょうしがいしゃ:現在の[王子製紙])、や「日本鉄道会社」(現在の[JR東日本])、「共同運輸会社」(現在の[日本郵船])、「東京瓦斯会社」(とうきょうがすがいしゃ:現在の[東京ガス])など、現在も残る大企業を次々と設立。
渋沢栄一が起業を手掛けた数は、500社以上にも及びました。明治時代の経済発展は、こうした在野の実業家に依るところが大きかったのです。また、岩崎弥太郎と渋沢栄一は、一度海運業をめぐって対立しています。
海運業をほぼ独占していた岩崎弥太郎の「郵便汽船三菱会社」が運賃の釣り上げなどを行ったことから、渋沢栄一率いる共同運輸会社が、海運業に参入。両社は熾烈な値下げ競争へと突入し、共倒れの危機に瀕するまでシェア争いを繰り広げました。
その後、1885年(明治18年)に、政府の仲介で郵船汽船三菱会社と共同運輸会社は合併。「日本郵船」と称する一大海運会社が誕生したことで、結果的に日本の海運業は、大きな発展を遂げたのです。
不換紙幣が引き起こした財政危機
明治時代は財政危機に晒され続けた時代でした。その最大の要因となったのが、不換紙幣による穴埋めです。不換紙幣とは、金や銀といった正貨に引き換えられない紙幣のこと。明治政府は、お金が足りなくなるたび、この不換紙幣を大量に刷って急場をしのいでおり、何度もインフレに見舞われました。
なかでも致命的な失政だったのが、1878年(明治11年)に士族の秩禄処分にあたって支給された金禄公債の1億7,000万円と、起業公債の12,000,000円です。これらを合計すると、現在の価値で言えば約7,000億円。士族が俸禄に頼らず新しい生活を立てるために配ったお金でしたが、ほとんど役立てられることはありませんでした。
この「大隈財政」(おおくまざいせい)のしわ寄せを解消したのが、明治十四年の政変で大隈重信が失脚したのち、大蔵卿を継いだ「松方正義」(まつかたまさよし)です。
就任時、西南戦争のために不換紙幣を大量発行したことにより、国内は極度のインフレに陥っていただけでなく、国庫正貨準備金はわずか7,000,000円(現在の約260億円)のみ。国が破綻しかねない状況でした。
しかし松方正義は、緊縮財政によって危機を回避。酒税やたばこ税など様々な税を課すことで財源を確保しつつ、その一部を直接不換紙幣の償却に活用したのです。
さらに一部は国庫正貨準備金へまわし、それを元手に「日本銀行」を設立。ここで不換紙幣を正貨に交換して通貨の安定を図ると、徐々にインフレは収まり、財政は大幅に改善されたのです。ただし、急激な緊縮財政を敷いたことでデフレへと転換してしまい、庶民の反感を買う結果にもなりました。
こうした松方正義による一連の金融政策は「松方財政」(別名[松方デフレ])と呼ばれています。なお、松方正義がもっとも削減したかった軍備費は最後まで手を付けることができず、その後、日本は軍事費をさらに拡大させていくことになるのです。
賠償金がもたらした日本の産業革命
日本が本格的な産業革命へと突入したのは明治時代後期。日清戦争で巨額の賠償金を獲得したときです。賠償金の多くは軍事費に充てられましたが、一部が産業振興に使われ、紡績や製糸などの軽工業が発展を遂げました。
さらに1897年(明治30年)には、賠償金を元手に「金本位制」(金を通貨の価値基準とする制度)を導入。維新期から金本位制への移行を考えていた明治政府でしたが、ようやく紙幣と同額の金を常時保管できるようになったことで、実現にこぎ着けました。
そして1901年(明治34年)、「官営八幡製鉄所」(かんえいやはたせいてつしょ:福岡県北九州市)の操業を開始。以降、日本は鉄鋼や機械、造船などの重工業にも進出を果たし、西洋列強に並ぶ軍事力を有するようになっていったのです。
特に官営八幡製鉄所は、日本で生産される鉄鋼の約80%を担うようになり、経済、及び軍事力発展の原動力となりました。しかし、急速な経済発展の裏側では、公害事件なども発生。
なかでも「足尾銅山鉱毒事件」(あしおどうざんこうどくじけん)は、その代表格です。
西洋の近代鉱山技術を導入し、全国における約40%の銅を産出していましたが、銅を抽出する際に生じる化学物質を垂れ流していたことで、現在の栃木県と群馬県の県境付近を流れる渡良瀬川(わたらせがわ)が汚染。農作物などに大きな被害をもたらしました。
1901年(明治34年)に、衆議院議員「田中正造」(たなかしょうぞう)が明治天皇に直訴を行ったことがきっかけとなり、「鉱毒防止令」(こうどくぼうしれい)が制定されますが、大正・昭和時代にかけてもたびたび公害事件は起こり、大きな抑止力にはなりませんでした。
明治時代の外交~不平等条約改正への道~
明治時代の外交を象徴する出来事のひとつが、不平等条約の改正です。そもそも明治政府が富国強兵や殖産興業を掲げたのは、西洋列強と肩を並べる国家を作るため。不平等条約の改正、つまり領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復は、その試金石とも言えました。
最初の交渉は、1871年(明治4年)にアメリカやヨーロッパを外遊した岩倉使節団。しかし、交渉のテーブルに着くことさえできず、取り付く島がまったくありませんでした。ここで日本は、交渉力を持つためには、まず近代国家だと認められる必要があることを痛感。以後、国内の法整備と海外進出を推し進め、改正の機会を窺い続けたのです。
ところが、1886年(明治19年)10月、和歌山県沖でイギリスの貨物船が沈没した「ノルマントン号事件」が起こったことで国民は騒然とします。このとき、イギリス人の船長、及び乗組員は西洋人だけ助け、日本人を全員見殺しにしました。
それにもかかわらず、船長を除く乗組員が、裁判で全員無罪となります。領事裁判権によって、不当な判決が下されたのでした。この事件をきっかけに、国民の関心は、一気に不平等条約の改正へと向かっていったのです。
転機となったのは、1891年(明治24年)に起こった「大津事件」(おおつじけん)でした。ロシアの皇太子が訪日した際、警察官であった「津田三蔵」(つださんぞう)に襲われ負傷した事件です。
このとき日本は、ロシアからの圧力に屈することなく、1889年(明治22年)に制定された大日本帝国憲法にのっとり、津田三蔵を無期懲役に処しました。これにより、日本は立憲国家であることを世界に知らしめる結果となったのです。
そんな折に登場したのが、外務大臣・陸奥宗光。幕末期に「坂本龍馬」(さかもとりょうま)率いる海援隊に所属し、坂本龍馬に「刀を2本差さずに生きていけるのは、俺と陸奥だけ」と言わしめた人物でした。
陸奥宗光は、数ある不平等条約締結国の中からイギリスに狙いを定め、交渉を開始しました。当時、イギリスはロシアと敵対しており、軍事面での協力を担保にすれば、勝機があると踏んだのです。
こうして1894年(明治27年)、「日英通商航海条約」(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)を締結し、領事裁判権を撤廃。大国イギリスを落としたことで、他の国々も次々と改正に同意し、領事裁判権を有していた計15ヵ国すべてとの条約改正が実現したのです。残る関税自主権の回復は、小村寿太郎によって成し遂げられました。
日露戦争を目前に控えた1902年(明治35年)、対等なかたちで「日英同盟」(にちえいどうめい)を締結し、日露戦争後の「日露講和条約」を取りまとめた人物です。
すでにアジア最大の帝国主義国家となった日本の国力を背景に、アメリカに狙いを定めて交渉を開始。1911年(明治44年)、「日米通商航海条約」の改定に成功したことで、関税自主権が完全に回復されました。
その後、イギリスやフランス、ドイツとも条約の改定が実現。岩倉使節団の挫折から約40年を経て、ようやく悲願が達成されたのです。
明治時代の文化と生活
文明開化によって生じた生活の変化
明治時代に入ると、西洋文明が一斉に日本へ浸透し、いわゆる「文明開化」が起こりました。庶民の生活は服装から食事、建物に至るまで洋風に変化し、「ざん切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と言う歌まで登場。
ちなみに「ざん切り頭」とは、1871年(明治4年)に布告された「散髪脱刀令」によって流行した、西洋風に短く切った髪型のことです。
しかし、完全に西洋化したわけではなく、庶民達は是々非々(ぜぜひひ:良いことは良い、悪いことは悪いと公平に判断すること)で洋風と和風を使い分けていました。
つまり、和洋折衷が基本的なスタイルだったのです。例えば服装は、役人など上流階級の人々は洋装でしたが、庶民は着物が中心。外出時は洋装でも、家では着物で過ごす人々も多かったと言います。
女性の服装も着物が一般的でしたが、柄には洋風の模様が取り入れられることが増え、色味も江戸時代より華やかな装いになりました。明治時代後期になると、袴にブーツを合わせるなどの着こなしも普及。よりおしゃれを楽しむ幅が広がったのです。
食事面での大きな変化は、牛肉を食べる文化が根付いたこと。これまで日本では、仏教の影響から獣肉を食べることがはばかられてきました。
しかし、味噌やしょう油、砂糖などで味付けした日本人好みの牛肉料理「牛鍋」が登場し、これが上流階級から庶民に至るまで大流行。戯作者「仮名垣魯文」(かながきろぶん)の代表作「安愚楽鍋」(あぐらなべ)に出てくる「牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴」と言う一説が、当時の人気ぶりを物語っています。
なお、家での食事は和食が基本。この頃、西洋で使われていたダイニングテーブルの影響から、ちゃぶ台が生まれました。家族で食卓を囲むと言う文化が芽生えたのは明治時代なのです。
また、明治時代に入ると洋風建築やレンガ建築、ガス灯などが登場し、町の雰囲気が一変。1883年(明治16年)に井上馨によって建てられた「鹿鳴館」(ろくめいかん)などは文明開化を象徴する建物です。
一方で、大工の棟梁らが日本建築の粋と西洋建築の意匠を組み合わせた「擬洋風建築」(ぎようふうけんちく)も日本各地に建てられ、人気を博しました。ただし、庶民の住居は日本家屋がほとんど。住宅設備にも大きな変化はありませんでしたが、ランプやマッチが普及したことで、生活の利便性は向上したのです。
思想の変化と明治時代の文豪達
西洋文明の急激な流入は、考え方の面でも人々に大きな変革をもたらしました。自由や平等、個人の自立が浸透していった反面、「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)に代表されるような、日本古来の文化を否定する動きも起こったのです。
その誘因となったのは、1868年(慶応4年/明治元年)3月に発布された「神仏分離令」(しんぶつぶんりれい)。明治新政府が天皇を神格化するために神道と仏教を分けたことで、仏教を排斥する運動が激化。
全国の寺院が取り壊されたり売却されたりしたのです。国内有数の古刹(こさつ:由緒ある古い寺)として知られた「興福寺」(奈良県奈良市)は、五重塔が25円(現在の約120,000円)で売りに出されてしまいました。
人々の思想が混沌とする中、注目を集めるようになったのが「啓蒙思想」です。一部の知識人が西洋文明の良いところを抽出し、肯定的な思想の構築を庶民へ広めたのでした。
その第一人者が福澤諭吉。「学問のすすめ」は約3,400,000部の大ベストセラーとなり、人々に学問を切り口とした自立の手ほどきを伝えたのです。
当時、日本の人口は約30,000,000人だったので、約10人にひとりが手にしたことになります。他にも西洋哲学を日本に広めた「西周」(にしあまね)、「西国立志論」がベストセラーとなった「中村正直」(なかむらまさなお)などが思想の近代化を牽引しました。
また、庶民の啓蒙にひと役買ったのが新聞です。1871年(明治4年)に日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊されると、1872年(明治5年)には「東京日日新聞」(とうきょうにちにちしんぶん:現在の[毎日新聞])、「郵便報知新聞」(ゆうびんほうちしんぶん)なども登場。これらの啓蒙書や新聞は、自由民権運動の隆盛にも大きく影響を及ぼしました。一方、明治時代後期に入ると、小説などの文芸が人気を博すように。
「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」で知られる「夏目漱石」(なつめそうせき)、医師から小説家に転身し、「舞姫」(まいひめ)などを書いた「森鴎外」(もりおうがい)、短歌、及び俳句中興の祖と称される「正岡子規」(まさおかしき)などが登場したのです。
また、美術界では「岡倉天心」(おかくらてんしん)が、1898年(明治31年)に「日本美術院」を創設。「横山大観」(よこやまたいかん)や「下村観山」(しもむらかんざん)、「菱田春草」(ひしだしゅんそう)らを育て、日本の美を世界に発信しました。明治時代は、文学から芸術に至るまで、自由な表現が生まれた時代でもあるのです。
明治時代の戦争
戊辰戦争
戊辰戦争とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月から1869年(明治2年)5月にかけて、新政府軍と旧幕府勢力との間で行われた戦いです。戦端が切られたのは鳥羽・伏見の戦い。新政府軍の挑発に乗せられた旧幕府軍約15,000人が「大坂城」(大阪市中央区)から京都へと進軍し、待ち構えていた新政府軍約5,000と衝突したことで戦いへと発展しました。
戦場は、鳥羽街道と伏見街道の大きく2ヵ所に分けられ、序盤は兵力に勝る旧幕府軍が優勢でした。しかし、岩倉具視の策略で形勢逆転。古来官軍の証しとされてきた「錦の御旗」(にしきのみはた)を新政府軍に掲げさせ、幕府軍の戦意を削いだのです。
実は、錦の御旗が使用されたことがあるのは数百年前。誰も本物を見たことがないのを良いことに勝手に制作し、天皇の許可を得ないまま戦いに利用したのです。これにより幕府軍は総崩れとなり、徳川慶喜は海路で江戸へ逃亡。
同合戦は、新政府軍の勝利に終わったのです。その後、江戸城の無血開城によって、事実上旧幕府軍は崩壊。しかし、血気盛んな旧幕臣達は「彰義隊」(しょうぎたい)と称する徳川慶喜警護隊を結成し、上野の「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)に駐屯。
徳川慶喜が水戸(現在の茨城県水戸市)へ退去したのちも留まり続け、新政府軍の兵士と小競り合いを続けていました。そこで新政府軍は彰義隊討伐を決定。
1868年(慶応4年/明治元年)7月、長州藩出身の「大村益次郎」(おおむらますじろう)を指揮官とする約10,000人の兵で、彰義隊の約1,000人が籠もる寛永寺を包囲し、上野戦争が起こったのです。
戦いはわずか1日で新政府軍が勝利し、江戸から旧幕府勢力は一掃されました。次に戦いの舞台となったのは、陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)及び出羽国(現在の山形県、秋田県)です。このとき、新政府軍が標的としていたのは、幕末期に再三敵対した会津藩(現在の福島県)と庄内藩(現在の山形県)でした。
しかし、「鎮撫総督府参謀」(ちんぶそうとくさんぼう)として仙台入りしていた長州藩士、「世良修蔵」(せらしゅうぞう)の傍若無人ぶりに怒りを覚えた仙台藩士らが暗殺を決行。この事件がきっかけとなり、仙台藩や会津藩、庄内藩を中心とした計25藩による「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)が形成されました。
そのあと、長岡藩(現在の新潟県)など北越地方の6藩が加盟し、盟主に上野戦争から逃れてきた「輪王寺宮公現法親王」(りんのうじのみやきみありほうしんのう)を立て、反明治新政府を掲げる奥羽政権が構想されたのです。
新政府軍は、まず「宇都宮城の戦い」(うつのみやじょうのたたかい)で旧幕府軍の残党を討伐すると、そのまま北進。「白河口の戦い」(しらかわぐちのたたかい)や「母成峠の戦い」(ぼなりとうげのたたかい)などを経て、会津藩の本拠・会津若松城(鶴ヶ城)へと迫りました。このとき会津藩は、藩士総動員で迎撃。
16〜17歳の少年で構成された「白虎隊」(びゃっこたい)も戦闘に加わり、飯盛山で敢えない最期を迎えました。会津若松城での籠城戦は約1ヵ月に及びましたが、1868年(慶応4年/明治元年)9月、会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)が降伏。
直後、庄内藩や盛岡藩(現在の岩手県:別名[南部藩])も降伏し、奥羽越列藩同盟は崩壊したのです。なお、戊辰戦争最大の激戦となったのは、長岡藩で起こった「北越戦争」(ほくえつせんそう)。
当初、長岡藩の家老上席「河井継之助」(かわいつぎのすけ)は、最新兵器のガトリング砲などを買いそろえ、全国屈指の軍備力を背景に、武装中立を目指しました。しかし、新政府軍との談判が決裂したことで、やむなく戦いに突入。
すると、圧倒的な兵力差にもかかわらず、巧みな戦術により新政府軍を翻弄。一度、拠点としていた「長岡城」(新潟県長岡市)が落城しても、なお奪還し返す奮戦を見せ、約3ヵ月に亘って新政府軍を苦しめたのです。
その後、河井継之助は、戦傷を抱えながら会津藩領へ落ち延びますが、途中で死去。戊辰戦争において唯一、新政府軍に互角の死傷者を出した戦いとなりました。戊辰戦争最後の戦いは、蝦夷(現在の北海道)での「箱館戦争」(はこだてせんそう)です。
旧幕府軍の海軍副総裁「榎本武揚」(えのもとたけあき)が幕府艦隊を引き連れ北上し、箱館(現在の北海道函館市)の「五稜郭」(ごりょうかく)を占領。蝦夷共和国を樹立し、最後まで新政府軍に抵抗を続けました。
参加したのは、旧幕府軍の陸軍奉行「大鳥圭介」(おおとりけいすけ)や新選組副長「土方歳三」(ひじかたとしぞう)を始め、錚々たる(そうそうたる)顔ぶれでした。
しかし、新政府軍と同等の海軍力を有していたものの座礁が相次ぎ、新政府軍にたやすく蝦夷上陸を許してしまいます。4つの陸路と海路から本拠地の五稜郭へ迫られたことで、蝦夷軍は壊滅。1869年(明治2年)5月、榎本武揚の降伏により、約2年半に及んだ戊辰戦争は終焉を迎えました。
西南戦争
西南戦争は、日本最後の内戦として知られる戦いです。維新の英雄・西郷隆盛が不平士族の要望に応えて、1877年(明治10年)1月に挙兵。蜂起した戦力は約30,000人にも上りました。西郷隆盛率いる薩摩軍の目的は、明治政府へ意見書を届けること。
最初の標的は熊本鎮台(九州に設けられた日本陸軍の拠点)が置かれた「熊本城」(熊本県熊本市)でした。ところが、熊本鎮台司令長官「谷干城」(たにたてき/かんじょう)の頑強な守備の前に、薩摩軍は足止めを食ってしまいます。
そこへ新政府の征討軍が押し寄せ、薩摩軍は熊本城の北方に位置する田原坂(たばるざか:熊本県熊本市)で迎撃。約1ヵ月に及ぶ死闘が繰り広げられました。
守りに適した地形でしたが、最新鋭の武器を揃えた征討軍に対し、薩摩軍の主な対抗手段は抜刀攻撃。徐々に薩摩軍の形成が不利に傾くと、征討軍は1日約320,000発もの銃弾の雨と、選りすぐりの抜刀部隊による白兵戦(はくへいせん:抜き身の刀による戦い)を組み合わせて、総攻撃を仕掛けました。
やがて副司令格の「篠原国幹」(しのはらくにもと)が討死するなど、甚大な被害を受けた薩摩軍は「田原坂の戦い」で敗北。熊本城の攻略を断念し、戦線を後退させる他ありませんでした。
その後も、「人吉攻防戦」(ひとよしこうぼうせん)や「和田越えの戦い」などで敗れた薩摩軍は、最後に故郷・鹿児島の城山へと立て籠もります。薩摩郡の残存兵力は約350人。約70,000人にも及ぶ征討軍の総攻撃を受け、西郷隆盛は自刃。薩摩藩士の「別府晋介」(べっぷしんすけ)に向けて言った「晋どん、もう、ここらで良か」が最期の言葉でした。
日清戦争
朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清国が争った日清戦争は、日本が帝国主義国家として歩み始める契機となった戦争です。きっかけは東学党の乱を平定するために、日清両国の軍が朝鮮に駐屯したこと。同乱の平定後もにらみ合いが続く中、日本軍が李氏朝鮮の王宮を占領したことから戦端(せんたん:戦いの糸口)が開かれました。
最初の大きな戦いは、1894年(明治27年)7月の「豊島沖海戦」(ほうとうおきかいせん)です。日清戦争の開戦時、日本の「連合艦隊」はいち早く海上を押さえ、海路による清陸軍への補給路を断っていました。
そこへ現れたのが、清陸軍の補給要請を受けた清海軍の巡洋艦2隻。連合艦隊のうち巡洋艦3隻が鉢合わせたことで海戦へと発展しました。ここで日本軍は無傷で清国の2隻を撃沈。緒戦(しょせん/ちょせん:始まったばかりの頃の戦争)に勝利したことで、戦いを優位に進めることが可能になったのです。
一方陸戦では、「成歓の戦い」(せいかんのたたかい)が勃発。互いの兵力は約4,000人規模に過ぎませんでしたが、清陸軍は士気が低く、全面衝突する前に指揮官が撤退してしまいます。同軍は、早々に約500人の戦死者を出したことで形勢不利を悟り、本隊のいる平壌(へいじょう/ピョンヤン)で迎え撃とうと考えたのでした。
「野津道貫」(のづみちつら/どうがん)と「桂太郎」(かつらたろう)の両師団長率いる計10,000人の日本陸軍は、勝利の勢いに乗って平壌を目指したものの、装備の不足から戦線は一時停滞。
実は、平壌は最新鋭の機関銃などを揃え、兵力も約15,000人を有する清軍最大の要衝だったのです。つまり、軍備・兵力とも日本軍が不利な状況でした。ところが「平壌の戦い」(へいじょう/ピョンヤンのたたかい)が始まると、同士討ち(味方と味方の争い)による迎撃作戦失敗を機に、清軍が戦意を喪失。
指揮官を務めた「葉志超」(ようしちょう)は包囲作戦を立案しましたが、包囲完成前に兵士を残して撤退し、平壌はあっけなく日本軍の手に落ちたのでした。さらに海戦においても、日本軍は大きな戦果を挙げます。当時清国は「北洋艦隊」と言う最新鋭の西洋式海軍を有しており、西洋諸国からも恐れられていました。
しかし、「伊東祐亨」(いとうゆうこう)率いる連合艦隊との全面対決となった「黄海海戦」(こうかいかいせん)では、両隊が遭遇したことから大規模な戦いに発展。これにより、整備面や兵士の訓練度の差が浮き彫りになります。
北洋艦隊は艦船こそ最新鋭だったものの、設備を維持する資金力や人材確保が行き届いておらず、海軍としての総合力は低かったのです。指揮官の「丁汝昌」(ていじょしょう)は、早々に敗北を悟って戦線を離脱。
北洋艦隊は巡洋艦5隻沈没と言う大打撃を受け、戦局は大きく日本へ傾きました。その後、日本軍は清国内へと侵攻し、遼東半島(現在の中国東北地区南部)を占領。半島内にある北洋艦隊の拠点・威海衛(いかいえい)も攻略して同隊を壊滅させたことで、日本軍は、日清戦争に完勝したのです。
日露戦争
日清戦争によって朝鮮半島の領有権を確保した日本でしたが、清国の衰退により、西洋列強は、こぞって清国へ進出しました。その中でロシアが領有したのが満洲と遼東半島。日本の勢力圏である朝鮮半島のすぐ隣です。
加えてロシアは、満州に大兵団を置いて朝鮮半島を窺う気配を見せ、日本が出した「満韓交換論」(まんかんこうかんろん:日本は朝鮮半島、ロシアは満洲を支配下に置くと言う案)を一蹴。すなわち、ロシアが朝鮮半島を狙っていることが明らかになったのです。
こうして1904年(明治37年)2月、日露戦争が開戦。しかし日本は国力の差を理解しており、事前にできる限りの準備を整えました。1902年(明治35年)にイギリスと軍事同盟を結び、戦費調達には、日本銀行副総裁「高橋是清」(たかはしこれきよ)が奔走。
国を挙げての総力戦で引き分けを勝ち取るのが、当初の目論見だったのです。最初の激戦地となったのは、遼東半島の先端に位置する旅順(りょじゅん:現在の中国・大連市)。ロシアはここに近代的な巨大要塞を構築し、アジア方面の艦隊「太平洋艦隊」(別名[旅順艦隊])の拠点としていました。
日本としては、まず太平洋艦隊を殲滅し、朝鮮半島と日本を繋ぐ海路を確保することが最重要事項。そこで立案したのが、旅順港の入り口に、艦船を沈めて封鎖する作戦です。ところが思うような戦果は挙げられません。
艦船の代わりに機雷(きらい:水面下に係留、または敷設し、艦船が接触すると爆発する水雷)を沈める作戦に切り替えても、成功させることはできませんでした。そこへ、世界最強と謳われた「バルチック艦隊」が、バルト海から派遣されると言う情報が入ります。日本海軍は急遽方針を転換し、日本陸軍に陸路からの旅順要塞攻略を要請。
こうして「乃木希典」(のぎまれすけ)率いる約51,000人の軍が編成されたのです。ところが旅順要塞の堅固さは、日本軍の想定をはるかに上回っていました。
多数のコンクリート製の堡塁(ほうるい:敵の攻撃を防ぐために構築された陣地)や砲台が塹壕(ざんごう:戦場において、歩兵が敵弾を避けるために設置された防御施設)で繋がれ、それらが二重に防御線を形成。そこを約44,000人の兵士が守備していたのです。日本軍は再三に亘って総攻撃を仕掛けますが、まったく歯が立ちませんでした。
そこで乃木希典は作戦を変え、あくまで旅順港を陸から砲撃できる高台を占領することに専念します。乃木希典が標的としたのは、「二百三高地」(にひゃくさんこうち:現在の旅順にある標高203mの高地)です。
やがて日本軍は、戦死者約15,000人を出しながらも二百三高地を占領。そこから太平洋艦隊を砲撃し、ほぼ殲滅しました。そのあと日本軍は、旅順要塞も陥落させ、旅順をめぐる戦いに勝利したのです。
なお、旅順要塞への総攻撃の前に、日本陸軍は「大孤山」(だいこざん)と言う丘陵を制圧。通常は設置が困難な重砲を用いての旅順港砲撃を成功させています。これにより太平洋艦隊は、一時的に旅順港から避難しようとしましたが、そこへ連合艦隊が攻撃。
前述した黄海海戦によって、約半数の艦船に痛撃を加えていました。つまり二百三高地から旅順港への攻撃は、とどめの一撃だったのです。旅順陥落の知らせを受けたロシア軍総司令官「アレクセイ・クロパトキン」は、約160,000人の大軍を遼陽(現在の中国遼寧省遼陽)に集結させ、戦況の打開を図りました。
一方で日本陸軍は、満州軍総司令官「大山巌」(おおやまいわお)自ら約125,000人の兵を率いてロシア軍に対峙。こうして起こったのが「遼陽会戦」(りょうようかいせん)です。しかし、両軍共に決定打を出せず、一進一退の攻防を繰り返します。
クロパトキンは戦況の好転を諦め、いったんロシア軍の満州における拠点・奉天(現在の中国瀋陽市)へ撤退。こうして決戦は「奉天会戦」(ほうてんかいせん)へと持ち越されたのです。日本陸軍はこの一戦に全兵力を投入し、総勢約250,000人の大兵団を形成。
対するロシア軍は約320,000人。火力(かりょく:鉄砲など火器の威力)についてもロシア軍が上回っていました。ところが日本陸軍は、左翼と右翼に兵力を集めて陽動(ようどう:本来の目的などを隠して注意を他に逸らすために、目立つような行動をわざと取ること)を続けます。
さらには、「秋山好古」(あきやまよしふる)の騎兵隊が大きく迂回してロシア軍の背後へ進出すると、ロシア軍は退路を断たれることを恐れていっせいに撤退。これにより日本陸軍の勝利となり、ロシア軍を満州から排除することに成功したのです。
しかし、このとき日本陸軍は兵力・火力とも限界に達しており、追撃もできない状況にまで追い込まれていました。日露戦争における最後の戦いは、ロシアの切り札・バルチック艦隊と、日本海軍の連合艦隊による「日本海海戦」です。
日本海軍の目標は、敵艦隊のウラジオストック港への入港を阻止し、バルチック艦隊を壊滅させること。ここで連合艦隊司令長官「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)は、世界史上でも類を見ない作戦を選択します。いわゆる「丁字戦法」(ていじせんぽう)です。
バルチック艦隊が対馬海峡(つしまかいきょう:現在の九州と朝鮮半島の間にある海峡)を通ることを見越して対馬沖で待機。通常は両艦隊が平行になるかたちで戦闘するところを、あえて敵艦をさえぎる陣形、すなわち「丁」の字形になるよう敵前回頭。
約10分間に亘って敵の標的になるリスクを負うことで、そのあとに訪れる絶対有利の陣形を手にしたのです。前例を無視したこの回頭は、「東郷ターン」とも呼ばれています。戦いはわずか30分で、連合艦隊の勝利が決定的になりました。
以降、連合艦隊は徹底的な追撃を敢行し、沈没21隻、拿捕6隻と言う大戦果を挙げます。辛うじて逃げ延びたバルチック艦隊の艦船はわずか3隻のみと言う有様でした。
この陸海戦における勝利のあと、アメリカ大統領「フランクリン・ルーズベルト」の仲介によって、日露講和条約が締結。ロシア国内でちょうどロシア革命が起こったこともあり、もっとも戦況が日本に有利な時点で、終戦を迎えることができました。日本にとって、富国強兵政策における到達点のひとつが日露戦争だったのです。