大日本帝国憲法 - ホームメイト
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高まる憲法制定・国会開設運動
この時期、政府の参議筆頭兼大蔵卿(さんぎひっとうけんおおくらきょう)だった大隈重信(おおくましげのぶ)は、憲法制定と国会開設によるイギリス的な議会中心の政党政治を行うことを主張しました。
しかし岩倉具視(いわくらともみ)ら保守派は、ドイツ的な君主の権限が強い憲法の必要性を唱え、両者は対立。大隈重信と並ぶ政府の実力者だった参議兼内務卿(さんぎけんないむきょう)の伊藤博文(いとうひろぶみ)が大隈重信の独断的な行動から距離を置いたことなど様々な要因が重なり、大隈重信の急進的な動きは排除され、ついには罷免されることになります(明治十四年の政変)。
同時に、国会開設については1890年(明治23年)の開設を予告する勅諭(ちょくゆ)が出され、それに向けて板垣退助や後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らによる自由党、大隈重信や犬養毅(いぬかいつよし)らによる立憲改進党などの政党が相次いで結成されることとなりました。
板垣退助と言えば、「板垣退助死すとも自由は死せず」の言葉が有名です。これは1882年(明治15年)、岐阜・金華山のふもとでの遊説中に暴漢に襲われ、瀕死の状態に陥りながら発した言葉と言われています。この言葉はたちまち全国に広まり、名文句として多くの民権派を感動させました。「自由の神様」として自由党の象徴的存在となった板垣退助ですが、のちに政府の援助金で海外へ渡ったことにより立憲改進党はもちろん、自由党内からも激しい反発が生まれ、求心力は低下。
一方の立憲改進党も、大隈重信と三菱財閥の癒着問題などが取り沙汰され、ともに1884年(明治17年)に国会開設を待たず解党しています。
ヨーロッパへの憲法調査と伊藤博文内閣の成立
当時の日本は、「欧米の先進国に肩を並べる強国となるためには立憲政治の実現が不可欠」と考えていました。そのためには、一刻も早く日本独自の憲法を完成させる必要があったのです。
明治十四年の政変を経て、政府はドイツ的な君主権の強い憲法づくりを決め、1882年(明治15年)、伊藤博文らを憲法調査のためヨーロッパに派遣します。憲法起草の重役は、伊藤博文が務めることとなりました。ヨーロッパでの調査は1年半近くにも及び、伊藤博文は憲法制定において政府内で他の追随を許さない存在となりました。
憲法調査に留まらず、ヨーロッパで行政のあり方を様々な角度から学んだ伊藤博文は、帰国後まもなく宮中の改革に着手します。立憲政治を確立するためには、天皇をその体制における君主としてふさわしい存在にする必要があり、天皇に対して自身の感情や側近の助言に従う傾向にあったこれまでとは違う、国家・国民のリーダーたるヨーロッパ的な力強い元首になることを求めたのです。
続いて、1884年(明治17年)には「華族令」(かぞくれい)を制定。旧公家・旧大名だけでなく、国家に貢献した功労者にも爵位(しゃくい)を与えることとしました。これには、身分に関係なく昇格できる可能性を示し、国にとって有用な人材を集めるという目的の他、貴族院を創設するという目的もありました。立憲政治においては下院が政党などに左右されやすいため、国家の利益を優先する上院(貴族院)が必要と考えていたからであり、華族に貴族院の構成員になってもらうことを期待していたのです。
そして翌年の1885年(明治18年)、これまでの太政官制(だじょうかんせい)に代わって内閣制度を導入。これは政府の強化及び能率化、天皇の政務への積極的な参与を図るもので、伊藤博文は自ら初代内閣総理大臣に就任しました。閣僚の大部分が薩摩・長州両藩の出身者であるとして反対派から非難を浴びたものの、伊藤博文は当時44歳、最年長の松方正義(まつかたまさよし)でも50歳という若々しい内閣でした。
大日本帝国憲法を発布、アジア初の立憲国家に
立憲政治の実現に向けた準備は、いよいよ最終段階を迎えます。1886年(明治19年)11月頃より、憲法起草の作業が始まったのです。伊藤博文を中心に、ドイツ人顧問ヘルマン・ロエスレルの助言を受けながら井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らが作業にあたりました。
草案は、1888年(明治21年)に創設された枢密院(すうみついん)でまず審議されています。その際、ある顧問官から出た「天皇の権限を規定すべきでない」という見解に対して、議長の伊藤博文は「君主権の制限と国民権利の保護こそが憲法の必要条件」という意味の反論をしたとされ、伊藤博文が憲法調査などの豊富な経験から憲法の本質をよく理解していたことがうかがえます。
「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)は、1889年(明治22年)2月11日に発布されました。形の上では天皇がつくり、国民に下賜する(与える)「欽定憲法」(きんていけんぽう)として作成されており、天皇は元首として国家を統治し、軍隊の統帥、宣戦と講和、条約の締結、官吏の任免、緊急勅令の発布など、行政・外交・軍事にわたって強い権限を持つ内容でした。
しかし同時に、すべての権限は憲法の条規にしたがって行使されるという立憲君主制の原則も明記されており、憲法を超越する存在ではなかったのです。こういった天皇の権限については様々な論争が生まれましたが、実際の統治は内閣・行政官庁、軍部の統帥部、貴族院・衆議院、裁判所、枢密院などが分立して行い、天皇はこれらの権力を統合する総攬者(そうらんしゃ)であるという権力の分立は、この憲法の大きな特徴でした。
国民にも歓迎された大日本国帝国憲法
国民には兵役や増税の義務が課せられる一方で、法律などによる制約のもと言論・出版・集会・結社・信教・請願・官吏任用といった自由と権利が認められました。選挙権は厳しく制限されたものの、帝国議会が設けられた国政に、参加することも可能になったのです。
今日の民主主義の観点からすれば不十分な点も見受けられますが、日本はアジアで憲法と議会を有する初めての国となりました。発布されるまで憲法の内容を知る国民は誰もいませんでしたが、発布されてみると民権派の人々も「藩閥がつくったにしては議会や国民の権利が認められている」として、好意的な反応を示したと言われています。
続いて、1890年(明治23年)には「教育勅語」(きょういくちょくご)が発布されました。忠君愛国の精神と家族道徳が教育の基本であることが示され、「天皇は国民の精神的支柱である」という観念が国民の間に広がりました。そういった国家主義的な教育方針は、1903年(明治36年)に採用された小学校の国定教科書制度により、さらに普及していきます。地方自治制度を見直した「市制・町村制」の制定、「府県制・郡制」の制定もこの頃です。
当時の内務大臣だった山県有朋(やまがたありとも)は、これらの再編を「立憲政体の基礎を固めるためだ」と語ったと言われています。
大日本帝国憲法が発布された当時、ヨーロッパ諸国では「なぜ日本に憲法が必要なのか」という声が多く上がったと言います。長きにわたって君主独裁政治が行われてきた国が、いきなり立憲政治に切り替え、やっていくことができるのか。それは言い換えれば、日本が先進国の政治運営である立憲政治にふさわしい国家レベルに達していないのではないか、という問題提起でした。だからこそ、日本としては立憲政治を成功させ、ヨーロッパ諸国と対等に渡り合える基盤を築きたかったのです。