秋分の日。ニュース番組を見ていると、しきりに「飛び石連休」と言っててびっくりした。飛び石連休とは休日が平日を挟んで並んだ連休のことだけれど、近年では「飛び石連休」なんてほとんど目にすることもなかったから、急に掘り返された言葉なんだろうなと感じた。古いものが逆に新しかったりするアレを狙っているのかな。
学生時代に大好きだった言語学の先生が言っていた話に「使用語彙」と「理解語彙」という話があった。使用語彙というのは、自分が使用することば。理解語彙とは、自分が使用しないけれど意味自体は分かる言葉。ニュースで「飛び石連休」と聞いた時、瞬時に、あ、理解語彙だな、と感じた。私はこれまでの人生で「飛び石連休」なんて使ったことがないけれど、聞いた瞬間にどういう意味の言葉であるのかを理解できた。そういういってブログを書いていることで、私にとって「飛び石連休」は使用語彙になってしまっているんですけれどね。ともあれ週の中休みはうれしい。
昼ごはん。冷蔵庫の中身がさみしい。食材が全然ない。やけくそになって卵を二つ焼いた。たまに卵だけを食べると、卵ってこんなにおいしかったんだなと感動する事ってありますよね。それを痛感していた。
昼過ぎ。真造圭伍「ひらやすみ」と松本大洋「東京ヒゴロ」を読んだ。「ひらやすみ」は人柄の良さだけは最高にいいフリーターの主人公が、仲良くなったおばあちゃん(赤の他人)から平屋を相続して暮らしていく話。気負わない生き方がとても眩しい。この家を管理する不動産屋の女性社員はせかせか生き急いでいる人で、私はどうしてもこの人に親しみを感じてしまうから、しがらみなく自由に暮らせたらどんなにかいいだろうな。でも私がフリーターになっても、誰かから平屋を相続することなんてないだろうな。魅力的な人は定職に就いていなくたって何してたって魅力的だ。
「東京ヒゴロ」は、漫画編集の主人公が出版社を早期退職して、その退職金を注ぎ込んで、本当に自分がいいと思う漫画を載せた採算度外視の雑誌を作ろうとする話。いろんな漫画家との会話の中で、本当に描きたいものと売れるものとの間の葛藤が垣間見えて、歳をとるごとに擦り減ってしまうことへの悲しさが充満している。それでも主人公の熱意は擦り切れた人々をも動かしていくんだよな。一心不乱な人は素敵だな。
ほとんど何もせずに1日が終わってしまった。模範的休日。それもよい。
(一巻から漫画を追いかけられるってよい。)