若き魔術の大家に魔術を教わることになった私。人間の欲深さをみごとに描いた名作を、大正ロマンの薫りただよう日本画で絵本化。
受賞歴:
★刊行時に寄せられたメッセージです
この『魔術』という話は、誰しもが潜在意識の中に持ちうるデジャブ、すなわち、既視感そのもののように思えます。遠いどこかの私が、主人公といつの間にか重なってゆくのです。
「ある時雨の降る晩のことです。」と始まったとたん、もう、ザーッ、ザーッと 降る雨の音が聞こえてきます。すでに最初の一行目から芥川に魔術をかけられてしまっているかのようです。大森界隈の険しい坂を人力車で行く、主人公の「私」。 でこぼこ道の揺れが椅子を通して、伝わってきます。薄暗い洋館に足を踏み入れ、そこで繰り広げられる、ミスラ君の魔術。テーブルかけの花模様を、ミスラ君は取り出します。部屋は麝香か何かの重苦しい匂いがするという。麝香の香を知らないはずの人までが、なぜか、記憶の糸を手繰り寄せてしまうでしょう。ランプがひとりでにぐるぐると廻り、書棚から飛び出した本は、まるで鳥のように飛びかいます。そんな息を呑み続けるような緊張の連続。
舞台が変わって、雨の銀座の倶楽部。暖炉の燃え盛る石炭をすくい上げ、撒き散らすと金貨になる段では、ほとんどの人が必ず、これはどこかでやったことがある、と確信してしまうでしょう。ああこれだったのだ、と。このあたりまでくると、すっかり絵本の中の「私」になりきってしまうはずです。その後に続く、人間の欲望むき出しの骨牌にいたっては、たびたび芥川作品に登場する、“無欲の強靭さ”に負ける弱い自分のほうが、主人公より先に「王様」と声を発してしまいそうになります。読み終えるとそこには、もうすっかりこのお話の魔術にかかった自分が呆然と座っているのです。
子どもの心の中にもデジャブはもちろん存在しているでしょう。読むにつけ、読み聞かせるにつけ、彼らもまたこの魔術の虜になってしまいそうです。そして大人になっても忘れえぬ、大切な本の中の1冊になるのではないでしょうか。(宮本順子)