台湾 花蓮地震に遭遇して | 一般財団法人 日本経済研究所

World View〈アジア発〉シリーズ「アジアほっつき歩る記」第106回

台湾 花蓮地震に遭遇して

2024年10-11月号

須賀 努 (すが つとむ)

コラムニスト・アジアンウオッチャー

筆者が初めて台湾を訪れてから今年でちょうど40年になる。その記念すべき台湾旅に4月初めに出たところ、何と到着の翌朝台北で大きな地震に遭遇した。今回は台湾での地震の影響や台湾人の反応について、少し述べてみたい。

台北で地震に見舞われる

台北到着2日目、朝ご飯は何を食べようかと考え始めたその時、思いもかけない揺れが来た。その揺れは長く続き、一時は体のバランスを維持するのも大変な状況で驚いた。これは2011年に東京で体験して以来の揺れだった。慌ててテレビを点けると花蓮方面が震度6強と出ている。その後も余震が続いており、かなり危険な状態だと不安になった。
花蓮では一部で建物が倒壊するなどの被害が報道されたが、その全体像は分からない。2時間ほど情報を集めていると、何と向かいの学校の建設工事が始まり、すごい音がした。余震はまだ続いているのに、階下を見ると、人が普通に歩いている。部屋に食糧が無く、地震発生ほぼ3時間後、恐る恐る外へ出てみた。

そこは全くの日常だった。いつも野菜を売っている女性が「あら、帰ってきたの」と気さくに声を掛けてきた。「地震、すごかったね」というと、「えー、日本人は慣れているでしょう」といって周囲の人も笑っている。いつも朝飯を食べる店も普通に開いており、皆が何事もなかったように食事している。地震の話題は誰もしていない。
一瞬止まっていた台北の交通網も動いており、完全に拍子抜けした。午後も余震は続いたが、知り合いに安否確認の連絡をしても、「あ、台湾に来たんだ、いつ会う?」などという返事が戻ってくるだけで、地震の影響を心配する声は日本人からしか聞かれなかった。夜には大きな余震があり、その後もずっと眠りの浅い夜が続いた。
因みに数日後、ある台湾人から言われた言葉。「日本人は今回の地震に対して多くの寄付を寄せてくれて大変有り難い。感謝している。だがニュースを見る限り、正月の能登地震の被災者、特に年配者や子供が家に帰れないのであれば、台湾は大丈夫だから、どうか寄付はそちらに回してもらいたい」と。

日月潭でバスに乗れず

台北において地震の影響はほぼ感じられなかった。震源に近い花蓮方面でも被害は最小限に止まったという印象を受け、当初言われていた25年ぶりの大地震、という感覚はなかった。因みに25年前の921大地震は台湾中部に甚大な被害を与え、街の半数が倒壊、半壊したところもあったという。
台北で目にした影響といえば、よく利用していた台湾図書館の一部が使用停止になったぐらいだが、それから台湾の山間部を旅してみると、今回の地震に関連するとみられる影響が随所に確認できた。まずは山へ行く観光客がかなり減少していた。これは地震後の土砂崩れなどを警戒して、台湾政府が山に行かないように呼び掛けていたことが背景にあるらしい。
その結果、何と台湾中部の景勝地、日月潭でバスに乗れずに困った。魚池の茶農家を訪ねた後、バスで台中に戻ろうとしたところ、午後4時台には台中行バスが2本あるので大丈夫だと思っていたら、何と1本目は『客満(満席)』で通り過ぎていく。2本目も同じだったが、バスは停まったので覗き込むと2人降りたので2席空いた。よかったと思ったら、ちょうど外国人カップルが不安そうにこちらを見たので彼らに席を譲り、バス停に取り残された。
結局その後に台北行バスが来て空きがあり事なきを得たが、平日の夕方に、バスの席がないとは驚いた。地元民によると、「最近日月潭観光に来る年配者が増えている。元々彼らは日帰り登山などを楽しんでいたが、今回の地震で目的地を変更した。台湾も人手不足、特にバスの運転手は確保が難しく、その結果満席が続いたのだろう」と説明された。

福寿山農場であわや孤立

5月半ばには、標高2,200mにある福寿山農場を訪れた。ここは1950年代国民党軍兵士の受け皿として開拓された歴史ある農場で、80年代から茶生産も始まり、今では台湾有数の高級高山茶を生産している。最近は観光地としても有名で、6年前に訪れた時は観光客が大勢いた。
だが今回は雨が続いていたせいもあり、観光客は以前と比べてかなり少なく感じられ、『山に行かない』という実態を証明しているようにも見えた。我々は台中から車で約6時間(途中休憩あり)かけてやってきたが、雨や霧で途中の景色もあまり拝めずにいた。
1泊して、さて台中に戻るかと前日来た道を進んでいると、前に車が止まっている。よく見ると上から勢いよく水が落ちている。いや水だけでなく土砂が。あっ、と思った時には、何と大きな石が目の前を過って落ちていった。土石流、さすがに危険を察知して、安全なところまで避難した。

埔里経由台中方面は通行止めになったが、もう一本の宜蘭方面の道は止まっておらず、大変な遠回りを覚悟して、宜蘭-台北-台中という道にチャレンジした。もし宜蘭方面も通行止めになっていれば、下に降りる道はない。山で孤立することの意味がよくわかった。
宜蘭方面を下り始めると晴れているが、天候の急変や土砂崩れがないとは限らない。案の定通行止めの場所があったが、1時間に10分だけ通行出来たので、何とか潜り抜けた。結局合計8時間以上かけて台中まで戻った。来た時より2時間以上余計にかかったが戻れただけ有難い。
遭遇した土砂崩れと地震に因果関係があるのかは分からないが、地震で緩んだ地盤に集中豪雨が降ると、土石流が発生するのは以前も経験済み。余震も含めて、地震はまだ終わっていない、と感じてしまった。山間部へ行く場合、一応の注意が必要なので、最新情報に留意して旅したいものだ。

著者プロフィール

須賀 努 (すが つとむ)

コラムニスト・アジアンウオッチャー

東京外語大中国語科卒。
金融機関で上海留学、台湾2年、香港通算9年、北京同5年の駐在を経験。
現在は中国を中心に東南アジアを広くカバーし、コラムの執筆活動に取り組む。