田町駅は1909(明治42)年12月16日開業。このとき同時に山手線は電化営業を開始します。
つまり、田町駅は当時主流だった蒸気機関車ではなく、開業当初から「電車」だけが発着する駅でした。周辺の埋め立てとともに発展してきた田町駅の歴史を追ってみたいと思います。
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地名が失われ、駅名だけが歴史を伝える
田町駅は東京都港区芝5丁目にあります。駅の西側は港区三田、東側は港区芝浦。周辺には田町という地名は存在しません。
ですがこれは、1967(昭和42)年、住居表示法により地名の変更・統合が行われたためで、「田町」そのものは古い地名です。
1829(文政12)年の『御府内備考(ごふないびこう)』には「芝九」の章に「かつては上高輪村のうちだったが、次第に人家が増え町並みとなり、田畑一円が町屋となったので田町という」とあり、さらには「1662(寛文2)年から江戸町奉行支配地になった」と記されています。
江戸時代初期から町奉行支配地となっていた田町は、1829年には、東海道沿いに一丁目から九丁目まである細長い町場となっていました。
町場は街道沿いに限られており、第一京浜(国道15号、江戸時代の東海道)と日比谷通りが分岐する三差路の付近が一丁目、第一京浜沿いの御田八幡(みたはちまん)神社や三田郵便局の辺りが九丁目でした。
田町の地名の由来はほかにもあって、近くの御田八幡神社(この神社が三田の地名の由来となった)の門前町なので御田町と呼ばれ、それが田町となった、とする説もあります。
明治初頭には「芝」エリアの田町の意味で「芝田町」と改称。その後、住居表示の統合により「芝田町」の地名は失われてしまいました。ということで、現在は駅名だけが古くからの歴史的地名を伝えている、ということになります。
埋め立て地に誕生した新駅
田町駅が存在する品川~新橋間の鉄道は、1872(明治5)年にわが国初の鉄道として開業した区間で、後に「東海道線」となりました。したがって、田町駅は「東海道線」の駅ということになります。
田町駅の開業は1909年12月16日。線路があるのに駅が設けられなかったのには、事情がありました。
その事情とは、埋め立ての状況。1886(明治19)年の地図を見ると、田町駅付近ではほぼ海上に線路が設けられています。つまり、駅を開設するための地理的・物理的なスペースが得られなかったのです。
田町駅が開業した当初、駅の海側には陸地はほぼありません。しかし、程なく埋め立てが進み、開発されていきます。
1919(大正8)年には周辺の埋め立てが始まり、陸化しているのが分かります。
そして、13年というわずかな期間で駅の海側は市街地化されています。
この間、1923(大正12)年には関東大震災が発生しています。震災からの復興という点を考えても、非常に急激な発展があったということなのでしょう。
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新橋駅の移転と田町駅開業
1872年に日本最初の鉄道駅として開業した新橋駅は、東海道線の起点駅であり、列車がこの駅で折り返し運転をすることを前提にした、終着駅型のプラットホームでした。横浜方面からやってきた列車は、ここから先へは進めない行き止まりの線路になっていたのです。
しかしその後、鉄道網の発達に伴って、東海道線と東北本線などとの連絡が要望され、新橋と上野を結ぶ鉄道路線が設けられることになりました。
都心を環状運転する山手線の構想はこのときから始まったのです。この構想では、鉄道開業時の新橋駅は、線路が行き止まりで折り返し運転が前提となっているために、不都合となってしまいました。
そこで、開業時の新橋駅とは別の場所に、線路が行き止まりにならない新駅「烏森駅」を新設。その後の東京・上野方面への延伸を前提としつつ、まず烏森駅、浜松町駅、田町駅の3駅を1909年12月16日に同時開業させることになるのです。
ちなみに烏森駅は、その後の東京駅開業の際に「新橋駅」と改称しました。これが現在の新橋駅であり、旧新橋駅は「汐留貨物駅」と変更されるのです。
田町駅の開業にはこうしたいきさつがあったため、「東海道線の駅でありながら東海道線の列車が停車したことがない駅」として、現在まで歴史を刻んでいます。
山手線の電化営業
烏森駅、浜松町駅、田町駅の開業に伴って、電化営業も同時に行われました。このとき電化されたのは、烏森(のちの新橋)~品川~目黒~渋谷~新宿~池袋~上野の区間。
山手線はこのときから電車運転となり、烏森~新宿~上野を往復して運転するようになりました。この運転状態を地図上で示すと、アルファベットのCの字を描くように見えることから「Cの字運転」と呼んでいます。
Cの字運転は、1914(大正3)年の東京駅開業後も続き、1919(大正8)年の神田駅開業によって神田~東京が結ばれると、上野~池袋~渋谷~品川~新橋(旧烏森)~東京~神田~四谷~新宿~中野という区間で電車を往復させる「“の”の字運転」に変更されます。つまり、現在の四ツ谷や中野など中央線の駅も、「山手線の駅」として電車が走っていた時期があったのです。
この時代の鉄道は蒸気機関車によるけん引が基本ですが、蒸気機関は初動のパワーが弱く、しばらく運転した後に最大のパワーが得られるという特性があります。つまり、蒸気機関車は長時間連続運転をする長距離移動が得意で、短時間に発進・停止を繰り返す短距離の運転には向いていないのです。
その半面、電車は発進直後から最大のパワーが得られるので、発進・停車を繰り返す短距離区間の運転に真価を発揮するといえます。
田町駅の開業から間もない1911年の地図を見ると、田町駅は本線から分岐線を新たに設けて、既存の線路とは別の場所に駅が誕生しています。東海道線は田町駅開業の1909年当時はまだ電化しておらず、蒸気機関車が走っていたのです。
一方、田町駅は電化が前提です。このため、駅の開設には専用の路線を設ける必要がありました。つまりこの当時、烏森~浜松町~田町~品川の区間は、電化されていない東海道線の線路と、電化された東海道線電化区間の線路が並行して敷かれていたことになります。
現在も田町駅では、駅に停車する山手線や京浜東北線の電車の脇を、東海道線の列車が駆け抜けていく光景が見られますが、田町駅は開業当初からこうした姿が見られたということになります。
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地上駅から橋上駅へ、そしてペデストリアンデッキの開設
現在の田町駅は橋上駅で、改札口も橋上にあります。しかし、当然ではありますが、明治時代に開業した当時の田町駅は、地上駅で地上改札でした。
田町駅が地上駅・地上改札だったのは1971(昭和46)年2月まで。それまでは、跨線橋によって駅の海側と内陸側は結ばれていましたが、跨線橋だけが駅の東西を結ぶというのは利便性が低いといわざるを得ません。そこで、駅を橋上化し、東西自由通路が設けられたのです。
そして、1994(平成6)年、内陸側である三田側に、改札口から段差なしでそのまま第一京浜(国道15号)を跨ぐペデストリアンデッキが完成します。これによって人の流れが大きく変わることになりました。
その後、2003(平成15)年に駅構内の改装が行われ、東西自由通路は幅7mから16mに拡幅されました。
駅の規模に比べ、広い改札口
田町駅ではホームから階段やエスカレーターで橋上へ上がると、改札口に出ます。この改札口が、駅の規模からするとかなり広い印象です。
実は、田町駅の乗客数は、2019年の数字で(コロナの影響で出控えがあったため2020年~2022年のデータは参考にしていません)、1日当たり15万8,839人。これは、JRグループ全体でも上位の数字であり、新大阪駅の乗客数4万9,564人の3倍以上にのぼります。
都心にあって海側には東京工業大学があり、三田側に慶應義塾大学が存在するため、学生の利用者が非常に多いこと、ほかに周辺に企業があることが利用客の多い理由と思われます。朝のラッシュ時にはこの改札が大活躍しているのでしょう。
駅前には都営地下鉄の三田駅
田町駅は都営地下鉄三田線・浅草線との接続駅です。ほぼ同じ場所にあるのに「田町」「三田」と駅名が異なるのは、都営地下鉄の駅名は、都電の停留所名を踏襲したから。
都電は昭和30年代までは都心部の公共交通の主力でした。しかし、昭和40年代になるとモータリゼーション(自動車の大衆化現象)の急激な発展で、道路を走行する路面電車は渋滞の原因とされて、1967(昭和42)年から1972(昭和47)年までの間に順次廃止され、それに代わって地下鉄が都心部公共交通機関の主役となります。
こうしたいきさつから、都営地下鉄の駅名は都電の停留所名を受け継ぐ形で命名されたケースが見られるのです。
ちなみに田町は旧東海道の街道沿いの地名ですが、街道から内陸部に入った一帯の地名は三田でした。つまり、どちらも歴史的地名を駅名として採用していることになります。
なお、山手線の電車内の案内表示には都営地下鉄への乗り換え案内は表示されませんが、駅構内には「都営三田線」「都営浅草線」への乗り換え案内が表示されています。
ここまで、田町駅の歴史について、紹介しました。続いては、田町駅周辺の歴史スポットを中心にめぐってみます。
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更新日: / 公開日:2023.10.13