山手線の前身となる品川線は、日本最初の私鉄である日本鉄道の品川と赤羽を結ぶ路線。品川線は1885(明治18)年3月1日開業で、当初は品川、渋谷、新宿、板橋、赤羽の5駅からなっていました。

新大久保駅の開業は1914(大正3)年11月15日。品川線開業から29年後であり、この間に池袋~田端間が開業して品川線は「山手線」と名称を変更。また、私鉄だった日本鉄道は国有化されて国鉄線となるなど、大きな変化をたどってきました。

そうしたなかで開業した新大久保駅。山手線全体のなかでは後発組の駅ですが、開業して100年以上の歴史を刻んできた駅です。

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日本で最初に「新」をつけた駅。年代物のホーム天井材は木造

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現在、各地の駅名を見てみると、「○○」という駅がすでに存在する場合、周辺に新駅が誕生すると旧駅名に「東西南北」や「新」「中」などの文字を加えて「東○○」「南○○」「新○○」などとするケースはよく見られます。

 

そして、新大久保駅は、日本で最初の「新○○」という駅名を採用した駅です。

 

新大久保駅開業に先立つ1895(明治28)年5月には、甲武鉄道(後の中央線)の大久保駅が開業していました。

 

新大久保駅は、この大久保駅とはわずか300mしか離れておらず、大久保に「新」をつけて「新大久保」としたと思われます。これが、日本の駅で既存の駅名に「新」をつけて新しい駅名にした最初の例といわれています。

 

1891(明治24)年、大久保駅・新大久保駅開業前の大久保の地図(日本陸地測量部、国土地理院)。山手線は「赤羽鉄道」、中央線は「甲武鉄道」と表記されている。新宿駅は開業しているが、「新宿停車場」と表記されている。鉄道線の東側の地名が「西大久保」なので、のちに誕生する新大久保駅は、「西大久保」よりもさらに西に位置することになる

1891(明治24)年、大久保駅・新大久保駅開業前の大久保の地図(日本陸地測量部、国土地理院)。山手線は「赤羽鉄道」、中央線は「甲武鉄道」と表記されている。新宿駅は開業しているが、「新宿停車場」と表記されている。鉄道線の東側の地名が「西大久保」なので、のちに誕生する新大久保駅は、「西大久保」よりもさらに西に位置することになる

地域の地名としては、このあたりの歴史的地名として「柏木(かしわぎ)」や「百人町(ひゃくにんちょう)」があります。

 

ただ「柏木」は大久保よりもやや西側、中野寄りの一帯で、甲武鉄道の「柏木駅」(現在の東中野駅)が1906(明治39)年に開業しています。

 

新大久保駅開業当時、駅の西側に「大久保駅」さらに西側に「柏木駅」があるので、「新柏木」といった駅名は採用しにくかったのでしょう。

 

一方、「百人町」は、江戸時代に徳川幕府の鉄砲組百人隊の武士たちがこの地に住んでいたことから1874(明治7)年に町名として成立したもので、現在の新大久保駅の所在地も住居表示は「新宿区百人町一丁目」です。

 

こう考えると駅名は「百人町」でも不自然ではないのに、なぜ「大久保」にこだわって「新」大久保という駅名となったのかは不明です。

1897(明治30)年の地図(陸地測量部、国土地理院)。のちに新大久保駅が誕生する周辺の地名は「百人町」。その北東エリアには「練兵場」「射撃場」などの文字が見える。東側は大久保の地名の由来と思われる「蟹川沿いの大きな窪地」

1897(明治30)年の地図(陸地測量部、国土地理院)。のちに新大久保駅が誕生する周辺の地名は「百人町」。その北東エリアには「練兵場」「射撃場」などの文字が見える。東側は大久保の地名の由来と思われる「蟹川沿いの大きな窪地」

前述のように、甲武鉄道の大久保駅がありながら、近くに新駅が誕生した背景には、陸軍施設の存在があります。大久保付近には江戸時代、尾張徳川家の下屋敷がありました。この屋敷跡に陸軍兵学舎が建てられたのが1872(明治5)年。

 

ここは1874(明治7)年に陸軍戸山学校となり、その後は陸軍歩兵学校などへの変遷があり、施設内には射撃場や砲術演習場なども併設されていたようです。こうした陸軍の施設があったため、最寄り駅が求められたのです。

 

大久保駅は甲武鉄道の駅であったため、沿線以外から利用するには、新宿駅で乗り換えが必要になります。そこで、品川方面や上野方面から乗り換えなしで利用できる山手線の駅が求められ、この場所に新しい駅が誕生したと考えられるのです。

 

陸軍施設の跡地は現在、東京都立戸山公園として整備されています。

 

諏訪神社には菊の家紋が掲げられている

諏訪神社には菊の家紋が掲げられている

戸山公園近くの諏訪神社は、少し高台になっており、陸軍の砲術演習を、明治天皇が観覧した場所で、記念する石碑がたてられています。

 

諏訪神社境内の明治天皇射的砲術天覧所阯碑

諏訪神社境内の明治天皇射的砲術天覧所阯碑

 

大久保の地名については、1591(天正19)年に徳川家康が大箪笥組(おおたんすくみ)の頭である榊原小兵衛(さかきばらこへい)と配下25名に、大久保村一帯を給地・屋敷地として与えたとする記録があり、江戸時代以前からの地名と考えられます。

 

大久保の地名の由来については、次のような説があります。

  • この地に屋敷があった百人組同心の大久保氏に由来
  • 東大久保村(現在の新宿7丁目)にある永福寺山号の大久保山に由来

 

ただ、百人組同心屋敷も永福寺の創建も江戸時代に入ってからのことなので、地名のほうが時代的に古く、由来とはなりえません。

 

また、「北条氏家臣の太田新六郎の寄子衆(配下)だった大久保氏に由来」とする説もあります。これは年代的には整合性があるのですが、「戦国大名の家来のそのまた家来」が地名の由来になるのは考えにくいです。

 

では、大久保の地名の由来はというと、「地形に由来する」と筆者は考えています。

 

駅の東側に神田川の支流である蟹川(かにかわ)という川が流れていて、この川が広い範囲に低湿地をつくっていました。

 

この低湿地を「大きな窪地」の意味で「大窪」と呼び、それがいつしか「大久保」の表記に変わったと思われます。

まさに大きな窪地の蟹川跡。これが大窪=大久保となった

まさに大きな窪地の蟹川跡。これが大窪=大久保となった

ちなみに、この「大窪」は現在もその地形を見ることができます。

 

新大久保駅から線路沿いに南へ歩いて、職安通りに出たら東へ。職安通りと明治通りとの交差点付近、都営大江戸線東新宿駅のあたりから東側を眺めてみましょう。

 

すると、職安通りがかなりの斜度で下り坂になっており、その先で再び上り坂となるのが分かります。その地形は巨大なすり鉢のようで、まさに「大きな窪地」と呼びたくなります。

 

窪地の底は、かつて蟹川が流れていた川の跡で、現在は道路になっています。

 

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1919(大正8)年の地図では、新大久保駅は大久保通りの北側にあるが、関東大震災後の1929(昭和4)年の地図では、高架線となって大久保通りの南側に移設された

1919(大正8)年の地図では、新大久保駅は大久保通りの北側にあるが、関東大震災後の1929(昭和4)年の地図では、高架線となって大久保通りの南側に移設された

新大久保駅は、現在は高架駅となっていますが、開業当時は高架ではなく地上駅でした。また、駅の場所も現在の場所とは異なり、大久保通りの北側に位置していました。

 

現在の場所に移設・高架化されたのは関東大震災後の1924(大正13)年。このとき、複々線化の工事も行われました。

 

現在のホームは、このときの工事で建てられたものが残されていると思われます。それはホームの鉄骨の柱にみられます。ホームの柱は、古いレールを転用したものです。

 

古レールの転用柱ということであれば、山手線内でも複数の駅で見つかり、特に珍しくはないのですが、新大久保駅の場合は、この転用柱がほかの駅とは異なる特徴を持っており、大正時代のものと考えられるのです。

 

古いレールを柱として転用

古いレールを柱として転用

新大久保駅の古レール転用柱は、ホームの中央から立ち上がり、上部で円弧を描いて左右に広がり、屋根を支える桁(けた)となっています。ただ一部の柱はホームの左右2ヶ所から立ち上がり、ホームの中央に向かって曲がる形となっています。

 

これが大正時代のものと思われる理由は、柱と柱の間隔にメートル法ではなくヤード・ポンド法が採用されているからです。鉄道にメートル法が採用されたのは1930(昭和5)年であり、それ以前はヤード・ポンド法でした。

 

これは明治の初めに、鉄道建設の際にイギリスから技師を招いたことが理由です。

4.5m間隔で古レール転用柱が並ぶ新大久保駅のホーム

4.5m間隔で古レール転用柱が並ぶ新大久保駅のホーム

そして、新大久保駅のホームの柱は、5ヤードすなわち約4.5m間隔で設置されているのです。

 

ほかの駅と比較しても「なんとなく柱の間隔が短い」という印象を受ける程度ですが、5ヤード間隔で柱が立てられている数少ない例といえるのです。

 

もう一つ、新大久保駅の柱は、ほかの多くの駅よりも細い古レールが使用されているのが特徴的です。

 

鉄道のレールは、部品として表示すると、長さ1m当たりの重量で表示されます。現在の山手線のレールは、長さ1m当たり50kgの重さ(50kg/m)。これは幹線鉄道に使用される標準的なレールです。

 

それに比べると、新大久保駅の転用柱はかなり細い印象で、おそらくは明治時代に使用されていた30kg/mのものではないかと推察されます。

 

つまり、新大久保駅のホームの柱は、明治時代の細い古レールを再利用して、大正時代の基準で建てられたものが現存している、と思われるのです。

 

単独駅とは、その駅がほかのJR線や私鉄、地下鉄との接続がまったくない、という駅のこと。

 

東京中心部を走る山手線では大半の駅がほかの路線と接続する乗換駅になっており、単独駅は珍しい状況です。2023年1月時点、山手線30駅のうち単独駅は、ここ新大久保駅のほか、目白駅、高輪ゲートウェイ駅の3駅だけです。

 

他路線との接続がないということは、乗り換えで利用する乗客がいないということで、上記の3駅は山手線内でも乗客の少ない駅となっています。

 

JR東日本がホームページで公開している「各駅の乗車人員」のデータ(乗車人員のみ。降車の人員等は含まれない)によると、2021年度、新大久保駅の1日の平均乗車人員は3万5,722人で、山手線30駅中26位です。

 

ちなみに27位は田端駅で3万4,916人、28位は目白駅で2万6,325人、29位は鶯谷駅で1万8,890人、30位は高輪ゲートウェイ駅の7867人となっています。

 

田端駅と鶯谷駅は、京浜東北線と接続してはいますが、乗換駅としての性格は薄く、乗り換えに改札を経由する必要もない(すなわち実質的には単独駅と変わらない)ことが乗客数の少なさにつながっています。

 

また、高輪ゲートウェイ駅の場合は今後周辺の再開発工事が進行する予定で、駅も仮開業(正式開業は2024年正式開業を予定)という状況なので、2021年の数字はほかの駅と前提条件が異なるため、同論で語ることはできないでしょう。

 

その意味で、新大久保駅は、「山手線の単独駅」としては乗客数が多い駅といえます。これは、コリアンタウンなど駅周辺を訪ねる目的の乗客が多いということが考えられます。

 

ということで、次回は新大久保駅周辺の街中の魅力を探っていきます。

 

【山手線の魅力を探る 新大久保駅 2】多国籍のエスニックタウンと江戸時代の史跡が同居

 

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更新日: / 公開日:2023.02.13