上野駅周辺の見どころといえば、上野動物園や上野公園、国立博物館、近代美術館などが挙げられますが、ほかにも歴史スポットやエピソードがたくさんあります。
上野駅記事の最終回は、そうした歴史を秘めた上野の奥深さをお伝えしましょう。
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上野で長い歴史を刻んできた寛永寺
上野駅の西側に広がる上野公園の一帯は、明治維新の直前まで、徳川将軍家の祈願寺である寛永寺(かんえいじ)の境内でした。上野公園だけではなく、上野動物園や都立上野高校、東京藝術大学、谷中霊園などの一帯すべてが境内だったというから驚きます。
もう少し説明すると、江戸時代の寛永寺は現在の上野駅や鶯谷駅から日暮里駅付近までの広いエリアが境域で、寺域約30万坪(約100万平米)。東京ドーム21個分という規模をもつ、江戸城下最大の寺院でした。
寛永寺は、江戸幕府3代将軍の徳川家光が、天台宗の天海僧正(てんかいそうじょう)に命じて、1625(寛永2)年に建立した寺院です。
天海僧正は、織田信長の焼き討ちで荒廃した延暦寺の再興に力を注いだ比叡山探題執行(比叡山の復興採否決定の最高責任僧)でした。江戸に幕府が開かれてからは、徳川家康の参謀的な存在として幕府と朝廷との交渉役という重要な任務にあたっていました。
その天海が、関東天台総本山と位置づけて、新しく誕生した江戸の都に開創したのが寛永寺でした。山号(寺院の名前の上に付ける称号)は東叡山(とうえいざん)。天台宗総本山の比叡山延暦寺にちなんで、東の比叡山、すなわち東日本における天台宗の一大拠点として開創されたことになります。
徳川家康は死後、墓所をつくらせず、「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」という神として日光東照宮に祀られました。つまり、日光東照宮は徳川家康の遺体をご神体とする神社なのです。
その家康の葬送に伴う天台密教の儀式を執り仕切ったのが天海です。天台密教は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の色彩が濃く、神社である日光東照宮造営の責任者も天海が担っていました。
しかし、江戸時代の移動手段は基本的に徒歩ですから、徳川将軍家といえども日光へ何度も参拝に出向くわけにはいきません。こうしたことから、家康が葬られた日光東照宮の江戸における参詣所になったのが寛永寺でした。
その後、徳川家光が、自分の墓所を祖父の家康と同じ日光に設けるよう遺言。このため、日光に大猷院(たいゆういん)という寺院が創建されました。そして、やはり日光は簡単に出かけられないということで、家光の一周忌や三回忌などの法要は、日光の大猷院ではなく、上野の寛永寺で営まれるようになりました。
徳川将軍家の菩提寺は本来、現在の港区芝公園にある増上寺と定められていたのですが、そうした徳川将軍家との深い結びつきから、4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉とふたりの将軍が寛永寺に葬られることになりました。
こうしたことから、寛永寺は徳川家祈願寺から徳川家菩提寺へと性格を変えていったようです。
江戸から明治へと激動の時代「上野戦争」で焦土と化した
寛永寺は、明治維新の際の上野戦争で戦火に見舞われました。1868(慶応4)年5月15日のことです。
長きに渡った徳川政権が終焉し、大政奉還や王政復古が行われたのち、寛永寺で謹慎中の元将軍・徳川慶喜の守護をしていた旧幕臣らの彰義隊(しょうぎたい)と、明治新政府軍との間で戦闘が起こりました。これが上野戦争です。
約1000人の彰義隊は寛永寺に立てこもったのですが、対する新政府軍は約1万人の兵力で上野を包囲。この圧倒的な戦力の差に、彰義隊は約300人の死者を出し敗退。この戦争で寛永寺は、建物のほとんどを焼失しました。
しかし、それは戦いの最中に燃えたのではありません。寛永寺の焼失は、戦闘が終わった後、「徳川の残党が利用しないように」との理由で火を放たれたためです。
当時は「文化財として保護する」という概念はなかった時代ですので、戦略的な考え方から焼き払うという処置はやむを得なかったことなのかもしれません。
ただ、現存していれば、江戸時代初期建築で国内最大の寺院として国宝指定もあったでしょう。つくづく残念な思いがします。
上野駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す寛永寺に現存する建造物の多くは国の重要文化財
上野戦争後の焼却によって、寛永寺は建物の大半を焼失しましたが、規模の小さな堂や霊廟などは焼かれずに残りました。そうして現存する建造物の多くは、国の重要文化財に指定されています。
そのひとつが、旧本坊表門(きゅうほんぼうおもてもん)です。
寛永年間(1624~1644年)の建築で、本坊入り口(現在の国立博物館入り口付近)に建てられていましたが、現在は葬祭場の輪王殿(りんのうでん)前に移築保存されています。
門柱や扉などに上野戦争の際に受けた銃弾や砲弾の痕が見られます。
寛永寺が徳川将軍家の菩提寺となっていたことを今に伝えるのが、徳川将軍家の墓地。寛永寺には、徳川4代将軍・家綱と5代・綱吉、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定の6人の将軍の墓所があります。
墓所は非公開で立ち入ることはできませんが、墓所の入り口である霊廟勅額門(れいびょうちょくがくもん)は厳有院(4代・家綱)と常憲院(5代・綱吉)、二人のものが残っており、近くで見学することができます。鮮やかな色彩や壮麗な装飾が印象的です。
上野の清水観音堂は、京都の清水寺と関係がある?
江戸時代の寛永寺には、京都や滋賀の名所に倣って建てた建物がいくつもありました。
徳川将軍家ゆかりの寺であっても境内を立ち入り禁止にするのではなく、庶民が気軽に遊びにこれるような開かれた寺にしたかったということでしょう。
また、江戸幕府の開府で新たに誕生した都である江戸が、京都のように栄え、京に代わって日本の中心都市になる、天海僧正はそうしたことも祈念したのだと思われます。
天海僧正が建てた、上野に現存する最古の建築が、清水観音堂(重要文化財)です。1631(寛永8)年に建てられ、1698(元禄11)年に現在の場所に移転しました。
京都の清水寺を模して建てた舞台造りのお堂で、本尊は京都の清水寺と同じ千手観音。懸造(舞台造)になっているのも清水寺と同じです。
かつての寛永寺には大仏もありました。豊臣秀吉が京都・方広寺(ほうこうじ)に造立した大仏に倣ったものですが、方広寺の大仏は火災に遭って現存していません。
一方、上野の大仏は、明治維新後も残されたものの、1923(大正12)年の関東大震災で首が落ちてしまいました。修復されないまま胴体部分が太平洋戦争の金属供出によって失われ、顔だけが残って今日の姿となりました。
一見すると、顔をはめこんだモニュメントのような状態ですが、顔だけでも人の背丈ほどあり、かなり大きな大仏であったことがうかがえます。
不忍池辯天堂も京都・滋賀の名所の写しです。寛永寺は比叡山延暦寺を見立てた東の叡山。
比叡山のふもとに琵琶湖があり、琵琶湖に竹生島(ちくぶしま)弁財天が鎮座していることから、上野の山のほとりの不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島に倣って中島を築き、辯天堂を造営したのです。なお、現在の辯天堂は1958(昭和33)年の再建です。
上野駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す上野にもある「東照宮」
東照宮といえば日光の東照宮を連想しますが、上野にもあります。というより、「東照宮」という神社は徳川家康(東照大権現)を祭神とする神社のことで、全国に70余りあり、日光東照宮も上野東照宮もそのひとつなのです。
上野東照宮は、この地に下屋敷を構えていた伊勢国(現在の三重県)初代津藩主・藤堂高虎が屋敷の中に設けたものがはじまりですが、寛永寺が建立されたのち、徳川家光が1651(慶安4)年に大改修。
透塀(すきべい)に囲まれた中に金箔をはりつめた壮麗な社殿を建立しました。この社殿は現存し、国の重要文化財に指定されています。
唐門(からもん)は、日光東照宮の陽明門のミニチュアともいわれ、上部には松竹梅の彫刻。
そして、門の左右には、伝説の彫刻職人といわれる左甚五郎(ひだりじんごろう)の作という昇り竜と下り龍の彫刻があります。社殿を囲む透塀には花鳥風月の彫刻が施されています。
上野動物園にある重要文化財の五重塔とは
上野動物園には、表門を入って正面にある総合案内所の左手に、五重塔があります。
これが重要文化財の旧東照宮五重塔。五重塔は本来、寺院に設けられるものですが、江戸時代は神仏混交だったので、神社である東照宮にも五重塔が存在しました。
1639(寛永16)年、下総国(現在の千葉県)古河藩主の土井利勝が、東照宮造営の際に寄進したもので、高さ約32m。現在は上野動物園内の施設として、東京都が管理しています。
上野駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す日本で唯一のル・コルビュジエ建築「国立西洋美術館」世界遺産のミュージアム
さて、明治維新期の上野戦争で焦土となった旧寛永寺跡地は、明治期に上野公園として整備されました。公園内には美術館や博物館が建てられ、日本でも有数の歴史を重ねてきました。
上野駅公園口からすぐのところにあるのが、国立西洋美術館(2022年春ごろまで、耐震工事のため閉館中)。モダニズム建築の巨匠として名を残す建築家、ル・コルビュジエの設計で知られる名建築です。
2016年、「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」として、フランスやスイス、ドイツ、ベルギーなど7ヶ国に現存する17作品のひとつとして世界文化遺産に登録されました。
ル・コルビュジエが日本で建てた唯一の建造物であり、日本で初めての国境をまたいだ世界遺産となっています。
上野のアートスポットの聖地、東京国立博物館
上野公園の中央に位置する東京国立博物館。1872(明治5)年に開館した日本最古の博物館で、数多くの国宝や重要文化財を収蔵展示する国内最大規模の博物館ですが、その建物のなかには国の重要文化財に指定されたものがあります。
重要文化財建築のひとつは、関東大震災で被災した後に再建された本館。昭和初期の建築モダニズムに見られる帝冠(ていかん)様式を採用し、鉄筋コンクリート造の和洋折衷を思わせる建物に、和風の瓦屋根をのせた独特の意匠となっています。
エントランスの階段ホールは、『半沢直樹』をはじめ、ドラマなどのロケに使用されて知られるようになりました。文化財としての名称は、「旧東京帝室博物館本館」となっています。
東京国立博物館のもう一つの重要文化財建築は表慶館(ひょうけいかん)。
明治末期の洋風建築で、宮廷建築家の片山東熊(かたやまとうくま)の設計。外観は石造りで、外壁の白色に対しイスラム風の緑のドーム屋根が印象的。
コリント式オーダーとトスカナ式オーダーの柱列、ローマ風の飾り破風、外壁上部に施された工具、楽器などのレリーフなどが、いかにもネオ・バロックという印象です。
展示館ではなく屋外展示ですが、江戸時代の鳥取藩・池田家江戸上屋敷の表門があります。屋敷は現在の丸の内付近にありましたが、門のみが移築されて保存されました。
独立した門番小屋を2棟備えた10万石以上の格式を伝える大名屋敷表門「旧因州池田家屋敷表門」として、重要文化財に指定されています。
上野駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す入谷口の近くにある日本唯一の地下鉄踏切
上野駅入谷口を出て東へ進み、昭和通りを越えた先で左へ折れると、小さな踏切が見つかります。これは、日本で唯一の「地下鉄の踏切」。
すぐ脇に東京メトロ銀座線の上野検車区があります。検車区とは、車両基地(車庫)であり、車両点検所。20編成120両の車両を留め置きするスペースがあります。ここへの地下鉄車両の出入りの際に通過する道路に設置されたのがこの踏切です。
都内の多くの踏切とは異なり、監視員が常駐して手動で開閉するシステムです。その理由は、線路に高圧電流が流れているため。
一般的に、電車は、線路上空に設置された架線と、車両の屋根の上にあるパンタグラフを接触させることで、車両を動かすための電力を得ています。しかし、初期開通の地下鉄である銀座線と丸ノ内線では、線路のレールから電力を得る方式を採用しています。
パンタグラフと架線のスペースを減らし、トンネルの直径を小さくすることで、工事費用を少なくすることができるということでこの方法になりました。
この踏切では、安全のため、道路と交差する線路には電流は流れていない絶縁区間となっていますが、それ以外の部分では線路に電車を動かすための電流が流れています。
ですから、銀座線と丸ノ内線の車両は、パンタグラフがありません。またこの両線が、他社線との相互乗り入れしないのも、車両への電力供給方式が一般的な電車と異なること、それが最大の理由です。
電車がいつ検車区へ入るか、いつ検車区から出ていくかは決まっていません。つまり、この踏切にいつ電車が通過するのかは、調べようがないのです。その意味では、踏切を車両が通過する様子を目撃できることがあれば、それは、この上なくラッキーなこと、と思って間違いないでしょう。
上野駅東側エリアには戦前の建物や古社・古寺が点在
上野駅の東側、台東区東上野、松が谷、元浅草周辺はかつて「浅草新寺町」と呼ばれた一帯です。
17世紀半ばから浅草三十三間堂の建立など開発が始まりました。しかし、1698(元禄11)年の大火で被災し、大火の後に周辺地などから寺院が移転してきて造られた町です。
江戸切絵図で中央やや右を上下に通る道が「浅草新寺町通り」。道沿いに池があり、その下に妙音寺、左上に源空寺と書かれています。
このあたりは第二次世界大戦による戦災をさほど受けておらず、昭和初期以前の建造物がところどころに残っています。昭和初期の看板建築や長屋建築なども少なからず見かけられるので、建物散歩を楽しめるエリアともいえるでしょう。
下谷神社
歴史のある神社としては、730(天平2)年創建の下谷(したや)神社があります。
関東大震災で被災し、現在の場所には1928(昭和3)年に移転。社殿には近代日本画壇の巨匠・横山大観による巨大な墨絵雲竜図が天井画として掲げられています。
妙音寺
先ほど紹介した、江戸切絵図で池の南側にあるのは妙音寺。現在は山門左手に妙音弁財天を祀る妙音堂があり、周囲に弁天池があります。
源空寺
妙音寺の北側にある源空寺には、徳川家光の要請を受けて鋳造された銅鐘が残り、「家光」の銘が刻まれています。
道路を挟んだ墓地には、江戸時代の測量家である伊能忠敬の墓と、忠敬の師・高橋至時(よしとき)の墓があります。
4回の記事に分けて上野駅と街の魅力をお伝えしましたが、いかがでしたでしょうか。上野散策の参考にしていただければ幸いです。
更新日: / 公開日:2021.07.19