高速道路IC/SA・PA情報
高速道路の構想を打ち立てた菅原通済とは/ホームメイト
ここでは、日本国内で初めて高速道路の構想を練った人物である菅原通済(すがわらつうさい)さんについて説明します。
やんちゃ盛りの少年期
通済さんは1894年2月16日に東京都千代田区麹町に生まれました。父は鉄道建設業界の大立者であると言われる菅原恒覧(すがわらつねみ)さんです。通済さんは毎日けんかやイタズラに明け暮れるなど、とてもやんちゃな少年時代を過ごしており、現在の高等学校にあたる旧制中学校を退学処分となる程、まさに「悪童」と呼ばれるような人物でした。
悪童から実業家へ
18歳となった1912年、通済さんはこれまでの行動から一念発起し、海外へ進出します。そしてマレーシアでゴム農園を立ち上げ、成功を収めました。これが実業家への第一歩でした。その後、アフリカやヨーロッパ、アメリカを見て回り、1920年に帰国します。
日本での活動
通済さんが日本で行なった活動を紹介します。
関東大震災での震災特需
通済さんは帰国後、米相場に手を出すも失敗し、多くの借金を抱えました。しかし、関東大震災の復興事業を機に、莫大な利益を得ることに成功します。このことをきっかけに「実業家、菅原通済」の名前が日本に知れ渡ることになりました。
日本初の高速道路構想
すでに高速道路が開通していたアメリカやドイツに習い、通済さんは1929年に高速道路構想を発表します。内容は、東京―大阪間に高速道路を設けて、国内の利便化を図ろうというものでした。しかし、当時の日本には車文化が浸透していなかったことや、戦争の局面に変化があったため、この計画は頓挫してしまいました。
三悪追放キャンペーン
実業家であった通済さんには、こんな一面もありました。戦後、「売春・麻薬・性病」を「三悪」として、「三悪追放キャンペーン」を主張したのです。このキャンペーンは、三悪すべてを自身が若年期に体験したことから発案されたのではないかとも言われており、その中でも麻薬追放に関しては「麻薬追放国土浄化同盟」を結成するなど、特に力をいれていました。
映画出演
通済さんは映画監督の小津安二郎さんと親交がありました。実業家として有名な通済さんですが、いずれも脇役ながら、小津さんの映画に7本程出演しています。また、小津さんの映画の他に『麻薬売春Gメン』『東京―ソウル―バンコック 実録麻薬地帯』といった映画にも出演しています。
晩年期の通済さん
実業家としての活動以外に、映画出演や本の執筆、三悪追放キャンペーンなど、様々なことに挑戦しました。また、晩年期には、新興宗教への投資を積極的に行なうなどの活動を行なっています。波瀾万丈な人生をおくってきた通済さんでしたが、1981年に肝硬変が原因で亡くなりました。享年は87歳でした。