城情報
高天神城の歴史と特徴/ホームメイト
現在の静岡県掛川市上土方・下土方に位置した「高天神城」(たかてんじんじょう:別称「鶴舞城」[つるまいじょう])は、駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)の守護大名であった「今川氏」が、室町時代に遠江国(現在の静岡県西部)侵攻の拠点とするべく築いたと伝わる山城です。
非常に防御力の高い「難攻不落の城」であった高天神城を我が物にするために様々な武将達が争い、戦国時代末期には駿河と遠江を巡る「徳川氏」と「武田氏」が、同城を舞台に激しい攻防戦を繰り広げました。
武将達による高天神城の争奪戦について振り返りながら同城の歴史を紐解くと共に、高天神城の特徴から分かるその魅力についてもご説明します。
高天神城の歴史
今川氏の滅亡まで
高天神城の築城年代には諸説あり、「源平合戦」(別称「治承・寿永の乱」[じしょう・じゅうえいのらん])の時に造られたとする伝承はありますが、それが認められる文献などは見つかっていません。確実な文献としては16世紀初頭頃、「今川氏」の家臣「福島助春」(ふくしますけはる)が土方(高天神城があった場所の地名)の城へ、城代(じょうだい:城主の代わりに城を守る者)として入ったとの記述が初見であったと推測されています。
その後、1536年(天文5年)の「花倉の乱」(はなくらのらん)によって福島氏が没落。福島氏に代わり、今川氏に従属するようになった国衆(くにしゅう)の「小笠原氏」(おがさわらし)が高天神城の城代を務めることに。これ以降、高天神城は、今川氏による遠江進出の拠点として用いられたのです。
しかし1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」で今川氏11代当主「今川義元」(いまがわよしもと)が敗死。1569年(永禄12年)には甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が今川氏との同盟関係を解消し、三河国(現在の愛知県東部)の「徳川家康」と手を組んで駿河侵攻を開始します。これによって今川氏が滅亡すると、当時の高天神城主「小笠原長忠」(おがさわらながただ:別称「小笠原信興」[おがさわらのぶおき])とその父は、徳川氏に臣従する道を選んだのです。
ところが徳川氏と武田氏は、間もなく敵対関係に。駿河と遠江の国境付近にあった高天神城は、両氏の争いにおける最前線の様相を呈していくようになります。
武田氏と徳川氏、高天神城を手にしたのは?
1571年(元亀2年)、武田信玄が2万5,000人の兵を率いて徳川方となっていた高天神城を攻撃するも、小笠原氏側がたった2,000人の兵で籠城して撃退。大規模な戦闘には発展しませんでした。そして1574年(天正2年)5月には、武田信玄の跡を継いだ「武田勝頼」(たけだかつより)が攻め寄せ、父・武田信玄が叶えられなかった高天神城の攻略を成功させたのです(第一次高天神城の戦い)。
こうして高天神城をその手中に収めた武田勝頼は、さらなる遠江侵攻の拠点として、作戦行動などの際に同城を大いに活用。その一方で高天神城は、徳川家康からの攻撃を繰り返し受け、1580年(天正8年)には徳川家康が5,000人の兵を引き連れて同城を包囲します(第二次高天神城の戦い)。そして、徳川軍による兵糧攻めと激しい猛攻に耐えかねた武田軍の城兵達は、翌1581年(天正9年)、城外へ討って出て玉砕。徳川方によって落城した高天神城は、このあとすぐに廃城となりました。
高天神城の現在
高天神城は廃城後、長い間城郭の整備は行われていませんでしたが、1934年(昭和9年)、築城当時には天守がなかった高天神城の「本丸」に「模擬天守」が建設されます。これは地元の有志達によって実現され、模擬天守は高天神城の「西の丸」があった場所に鎮座する現在の「高天神社」と共に地域のシンボルとなりました。
その後、「高天神城跡」は1975年(昭和50年)に国指定の史跡となり、2017年(平成29年)には「日本100名城」のひとつに選ばれています。
また現在の高天神城は、城跡そのものはもちろん、ブームになりつつある「御城印」(ごじょういん)があることでも人気。「掛川観光協会」では以前より、①高天神城の他、②「横須賀城」(よこすかじょう:掛川市西大渕)、③「掛川城」(かけがわじょう:掛川市掛川)という3つの城にまつわる歴史を表現した「掛川三条物語 御城印」を頒布(はんぷ)していましたが、2023年(令和5年)には、同年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の放送開始に合わせて、同御城印の特別デザインバージョンを数量限定で販売。この御城印は、お城好きや歴史好きのみならず、徳川家康ファンや大河ドラマファンからも注目を集めています。
高天神城の特徴
高天神城の最大の特徴は、「鶴翁山」(かくおうざん)の入り組んだ地形を巧みに活かした場所に建てられていたこと。鶴翁山は標高132m、周囲との比高も約100mとそれほど大きくはありません。しかし山自体が急斜面となっており、三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという非常に複雑な地形となっていたのです。
高天神城は、この鶴翁山が「曲輪」(くるわ:別称「郭」)を取り囲み、「掘切」(ほりきり:別称「堀割」[ほりわり])も設けられていました。
さらに特筆すべき高天神城の特徴は、「一城別郭」(いちじょうべっかく)であったこと。これは、ひとつの曲輪のように見せながら、実は同じ敷地内に2つの曲輪が存在するお城の構造を指します。一城別郭の様式を採っておけば、例え敵に攻め込まれて片方の曲輪が失われたとしても、残された曲輪を中核として戦い続けることが可能になるのです。
高天神城の場合は尾根に築いた「井戸曲輪」を境として、東峰と西峰が独立。それぞれ東峰には本丸、西峰には西の丸(別称「丹波曲輪」[たんばくるわ])を設置していました。
なお、当時の高天神城では、主に東峰を居住空間、西峰を戦闘空間として用いていたと推測されています。
このような構造の高天神城がどれほど実戦で有利な堅城であったのかは、第一次高天神城の戦い以前の1571年(元亀2年)に、一度武田信玄が同城の「追手門」(おうてもん:別称「大手門」[おおてもん])まで軍勢と共に押し寄せるも、即引き返した逸話があることからも窺えるのです。
現在の高天神城跡における遺構としては、本丸や「二の丸」(にのまる)の他に「空堀」(からほり)や「土塁」(どるい)などの跡がありますが、「石垣」については確認されていません。
なお、高天神城跡のある掛川市では往時の城郭などを体感してもらうため、廃城から440年以上が経過した2023年(令和5年)3月に、高天神城のAR(拡張現実)・VR(仮想現実)アプリ「バーチャル攻略 高天神城」を公開しています。高天神城跡の本丸など9ヵ所に設けられたマーカーをスマートフォンなどにダウンロードした本アプリで読み込むと、当時を再現した構造物や地形などを観ることが可能。
高天神城のマップやお城の各所で楽しめるクイズやゲーム機能も搭載されているので、このアプリと共にハイキングコースを散策しながら、戦国時代の高天神城の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。