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日本の代表的な建造物のひとつでもある「城」は、敵軍からの攻撃を防衛するために建てられたと言われています。敵軍が侵入しにくいように石垣を積み上げたり、様々な仕掛けを施したりするなど、城ごとに工夫を凝らして建造されました。
そんな古い歴史がたくさん詰まった城だからこそ、現代でも人々の城への関心は高く、各地の観光名所となっているケースも少なくありません。天守が街のシンボルとなっているところもあります。では、そんな城にはどのような歴史や種類があるのでしょうか。
「城とは」では、歴史・種類はもちろん、国宝5城・重文7城、城に関連する刀剣についてもご紹介していきます。
目次
日本で初めての城と言われているのは、664年、「天智天皇」(てんじてんのう)によって築きあげられた水城(現在の福岡県)。現在は残っていませんが、当時造られたのはいわば城柵(じょうさく:大和朝廷が本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設)でした。この時代には、同じような城が九州を中心に、いくつも築かれていたと言われています。
また、現存する日本最古の城郭がどれなのかは諸説あり、有力候補は「松本城」(長野県松本市)、「丸岡城」(福井県坂井市)などです。
実は、石垣は古代に登場しました。飛鳥時代になると、朝鮮半島・唐(7世紀初めから10世紀初めにかけての中国王朝)の侵略に備えて、西日本に「古代山城」(こだいさんじょう)が築かれるようになります。
この古代山城は土塁が中心でしたが、石垣も用いられていました。例えば「大野城」 (福岡県糟屋郡宇美町他)には、全長150m以上にもなる「百間石垣」(ひゃっけんいしがき)、高さ約6mの「大石垣」があります。
一方、7~11世紀頃にかけて、東日本には、中央政権に従わなかった「蝦夷」(えみし)に対する施設「城柵」(じょうさく)が築かれました。城柵は塀や土塁、柵で囲まれていて、軍事的・政治的な役割を担っていたとされています。
代表的な城柵は、724年(神亀元年)創建と言われる「多賀城」(宮城県多賀城市)。多賀城では、政務や儀式が行われた政庁跡、役所の建物跡、門や塀の跡などが確認されています。
平安時代になると武士が現れます。また、南北朝時代には武士が南朝と北朝に分かれて対立。土造りの簡単な城が築かれるようになりました。
これは自然の山・丘を活かした城。堀や柵、簡素な施設を設けただけで、日常的な住居ではありません。臨時的な城で、戦いが終われば使われませんでした。武士達は普段、山のふもとに造った館で過ごしていたとされています。
その後、室町時代の「応仁の乱」を迎えると、戦国の世がスタート。戦国時代にも山城が築かれますが、戦国時代の山城は様々な工夫がなされ、より本格的な軍事拠点となっています。
当時主流だった「土の城」を変えたのは、石垣・高層の天守・瓦葺きをかね備えた「織田信長」の「安土城」(滋賀県近江八幡市)だと言われていますが、実は「観音寺城」(滋賀県近江八幡市)にも石垣が作られていました。
また「多聞城」(奈良県奈良市)にも、のちの天守に相当するような櫓があったと伝わります。
なお、記録によると、安土城の天守は非常に豪華。5層7階の建物で、1~3層目は黒色、4層目が朱色、5層目が金色となっており、瓦は金色や赤色、青色が用いられていたと言います。さらに、安土城下には城下町が設けられました。
その後、天守や石垣、城下町を備えた城が広がっていきましたが、江戸時代に出された「一国一城令」「武家諸法度」により、城の発展は終わったのです。
多くの城は観光名所となっていて、間近で城を眺めたり、城の中に実際に入ったりできます。また、城の周りには様々な飲食店や土産屋などが立ち並んでいることも多く、城の周囲一帯が観光地になっているケースも珍しくありません。
日本には様々な城が各地に存在しますが、大きく分けると「山城」、「平山城」、「平城」、「水城」の4つに分類できます。
山城は、その名前の通り山に建てられた城のこと。山を削って土を盛ることで、石垣などを立てなくても天然の要塞を作ることができたため、多くの山城が建てられました。
日本には城跡が3万近くあると言われていますが、そのほとんどが山城とされています。現存している城が少ない理由は、山城には簡易的な木造建築の城が多く、耐久性が低かったためです。
平山城は、低い山や丘などと平地を利用して建てられた城のこと。日本で初めての平山城は、「織田信長」が築いた「安土城」(滋賀県近江八幡市)だと言われています。
当時、城は敵軍の攻撃を防ぐ以外に、政治や経済の拠点としての役割も担っていたため、防衛と利便性を兼ね備えた平山城が城造りの主流でした。他には、代表的な平山城として「津山城」(岡山県津山市)が挙げられます。
水城は、海城とも呼ばれ、海域の近くに建てられた城のこと。防衛面はもちろん、水運の搬送先としても水城が活用されていました。
当初は海域の近くに城を建てることは難しいとされていましたが、技術の発展とともに徐々に水城が増加していったのが特徴。代表的な水城は、「今治城」(愛媛県今治市)などです。
日本には、江戸時代までに建てられて今も残っている天守が12ヵ所あり、「現存12天守」と呼ばれています。そしてそのなかに「国宝」の現存天守を持つ城が5つ、「重要文化財」の現存天守を持つ城が7つ存在しているのです。
国宝は、日本にある重要文化財から「特に優れている」として指定されます。国宝5城は、以下の5つの城です。
重要文化財は、有形文化財のうち、特に重要だとされた文化財を指します。重要文化財7城(重文7城)は以下の通りです。
また、天守の他に「懐徳館」(かいとくかん)と呼ばれる本丸御殿も現存。天守・本丸御殿ともに現存している城は、高知城だけです。
「鯰尾藤四郎」(なまずおとうしろう)は、3つの城に関連しています。
鯰尾藤四郎は織田信長の息子で、「長島城」(三重県桑名市)を居城としていた「織田信雄」(おだのぶかつ)が所有していました。当時、織田信雄は敵対していた「豊臣秀吉」と通じたとして、家臣に家老を殺害させています。このときに使用されたのが、鯰尾藤四郎でした。
その後、豊臣秀吉を経てその息子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の手に渡った鯰尾藤四郎でしたが、「大坂夏の陣」で「大坂城」(大阪市中央区:現在の「大阪城」)とともに焼けてしまいます。
そして「徳川家康」の命令で打ち直しが行われ、のちに徳川家康の息子で尾張藩(現在の愛知県名古屋市)の初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)に受け継がれました。
「にっかり青江」(にっかりあおえ)は、「青江派」の刀工「青江貞次」(あおえさだつぐ)によって作刀されたと言われる日本刀。もとは大太刀でしたが、工程のなかで脇差となりました。
その名は、「ある武士がにっかり笑う女性の幽霊を斬り捨てた」という伝説に由来(諸説あり)。「柴田勝家」(しばたかついえ)が所有し、「丹羽長秀」(にわながひで)や豊臣秀頼らを経て、最後は大津藩(現在の滋賀県大津市)の京極家のもとに渡りました。
にっかり青江には、城に関連するこんなエピソードがあります。17世紀中頃、京極家は丸亀城の城主になりました。しかし丸亀城は城主となった家がお家断絶となるなど、呪われていると噂されていたのです。
そして京極家は、にっかり青江とともに入城。明治時代まで丸亀藩を治めることとなりました。にっかり青江が、丸亀城のたたりを収めたとも伝えられています。
現代も残り続ける城ですが、補修や修復などを繰り返し、できる限りありのままの城を保つように修繕が施されています。
どこの城においても、細かな修繕は定期的に実施。中でも話題になったのが2009年(平成21年)の「姫路城」(兵庫県姫路市)の大修理で行われた、城の全面を白く塗り直す「お色直し」でした。賛否両論はありましたが、今や多くの観光客が訪れる人気観光名所となっています。
2016年(平成28年)4月に熊本で起きた大地震によって、「熊本城」(熊本県熊本市)は大きく損壊し、見るも無残な姿になってしまいました。
そんな熊本城の修復は「復興のシンボル」として最優先で修復工事が進められ、2021年(令和3年)には天守閣や長塀の修復が完了。完全復活の目途は2037年と予定されていることから、今後も地域の復興の証として早期復旧の期待が寄せられています。
近年では、SNSで城の写真が話題となることも少なくありません。映える城の代表格が、雲に浮かんだような幻想的な景色が見られる「竹田城」(兵庫県朝来市)。
その他にも、夜になるとライトアップする城も多く、SNS映えするスポットとして人気です。
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