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柴田勲さん/読売ジャイアンツ

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「柴田勲」(しばたいさお)さんは、「読売ジャイアンツ」で活躍した野球選手です。高校時代から輝かしい成績を残し、投手としてプロ入りを果たしました。読売ジャイアンツ入団後は外野手に転向し、スイッチヒッター(左右両方の打席でヒッティングが行える選手)として初の2,000安打を達成します。また俊足を活かして盗塁記録も伸ばし、20年の現役生活の中で6度の盗塁王の座に輝いた選手です。現役引退後はコーチとなり、そのあとは野球解説者として活躍してきました。日本を代表するレジェンドプレイヤーのひとりである柴田勲さんはどのような選手なのでしょうか。柴田勲さんの特徴と経歴を紹介します。

読売ジャイアンツの柴田勲さんとは

柴田勲さん

柴田勲さんは、1944年(昭和19年)2月8日生まれ、神奈川県出身です。「法政大学第二高等学校」(神奈川県川崎市中原区)へ進学し、野球部のエースとして活躍。出場した、1960年(昭和35年)夏と1961年(昭和36年)春の甲子園では春夏連続優勝を果たし、甲子園優勝投手となりました。

高校時代から輝かしい成績を残した柴田勲さんは、卒業後1962年(昭和37年)に読売ジャイアンツに入団し、プロ野球選手としてデビューします。読売ジャイアンツには投手として入団しましたが、翌年には外野手に転向。

同時にスイッチヒッターとして、左打ちにも取り組みました。スイッチヒッターとしては未経験ながら結果を出し、レギュラーの座も手にします。1966年(昭和41年)には、初の盗塁王を獲り、同年の日本シリーズではMVP(最優秀選手賞)も獲得。翌1967年(昭和42年)に自己最高記録となる70盗塁を記録し、2年連続の盗塁王となったのです。

20年に及ぶ現役生活の中では通算579盗塁を記録し、6度の盗塁王に輝きました。1980年(昭和55年)に日本プロ野球史上13人目の2,000安打、同時に15人目の3,000塁打を達成。日本プロ野球名球会入りを果たしました。1981年(昭和56年)に現役を引退し、翌年からは読売ジャイアンツの守備走塁コーチに就任。コーチ引退後は野球解説者として活躍の場を広げています。

現役生活20年間の通算成績は、2,208試合、2,018安打、194本塁打、打率2割6分7厘、579盗塁。盗塁王6回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞(獲得当時はダイヤモンドグラブ賞)5回獲得など、素晴らしい成績を残しました。トレードマークである赤い手袋で球界を沸かせたスター選手であり、「王貞治」(おうさだはる)さん、「長嶋茂雄」(ながしましげお)さんらとともに、読売ジャイアンツの日本シリーズ9年連続優勝に貢献した立役者のひとりなのです。

柴田勲さんの特徴

スイッチヒッターのパイオニア

柴田勲さんは、スイッチヒッターの草分けと称される選手。柴田勲さんは、法政大学第二高等学校時代は投手として活躍し、読売ジャイアンツ入団後もすぐに投手として試合に出場します。しかし結果は振るわず、翌年には外野手に転向。

外野手への転向の際に、柴田勲さんはスイッチヒッターとなるよう、コーチから指示されます。当時の柴田勲さんは左打ちに関して未経験でしたが、持ち前の才能と努力が開花し、1963年(昭和38年)には1番打者としてスタメンに起用。翌1964年(昭和39年)には、15本塁打を達成しています。

1968年(昭和43年)に首脳陣の指示により、一時的に右打ちに専念しましたが、のちに再びスイッチヒッターとして活動するようになりました。1980年(昭和55年)にはスイッチヒッターとして初の2,000本安打を達成。2015年(平成27年)に「松井稼頭央」(まついかずお)さんが2,000本安打を達成するまで、唯一の存在として君臨しました。

盗塁王

柴田勲さんを語る上で欠かせないのが盗塁です。柴田勲さんは打者へと転向したのち、持ち前の俊足を活かして盗塁記録を更新していきます。1966年(昭和41年)に46盗塁を記録して、初の盗塁王となりました。続く1967年(昭和42年)には自己最多となる70盗塁を達成し、2年連続盗塁王に輝きます。

そのあと1969年(昭和44年)、1972年(昭和47年)、1977年(昭和52年)、1978年(昭和53年)にも盗塁王となり、通算6回もの盗塁王のタイトルを獲得。現役時代に記録した盗塁数は通算579回であり、2023年(令和5年)時点では日本プロ野球における歴代3位の記録です。なお、盗塁は、すべてサインによる指示の下で行っていたと語っています。

トレードマークの赤い手袋

柴田勲さんのトレードマークとなっていたのが赤い手袋。柴田勲さんが赤い手袋を着用し始めたきっかけは、1967年(昭和42年)に行ったアメリカフロリダ州ベロビーチでの春キャンプでした。外野手に転向した柴田勲さんは、現地でヘッドスライディングの練習に打ち込んでいた際、手に怪我を負ってしまいます。その際に、応急処置として着用したのが現地で買った赤い手袋。

その後、赤い手袋を着けて出た試合で好成績を残し、縁起が良いと感じて日本でも着用するようになりました。赤い手袋を着用して臨んだ1967年(昭和42年)は、自己ベストとなる70盗塁を記録。柴田勲さんは、その後も赤い手袋を着け続け、自身のトレードマークとして定着しました。

柴田勲さんの経歴

高校時代からプロ入りまで

柴田勲さんは、中学生の頃に王貞治さんに憧れて甲子園を目指すようになり、野球強豪校の法政大学第二高等学校に進学します。1960年(昭和35年)には、2年生エースとして甲子園に出場し、優勝。翌1961年(昭和36年)の春の選抜高等学校野球大会でもその実力を発揮し、2大会連覇を成し遂げます。

1962年(昭和37年)に高校を卒業した柴田勲さんは、読売ジャイアンツに入団。開幕第2戦の先発に抜擢されましたが、肩のコンディションが悪かったことも影響し結果が振るわず降板します。投手としてはその後も不振が続き、同年は6試合に登板したのみで、以降は打者へと転向。当時の「川上哲治」(かわかみてつはる)監督の意向によって、スイッチヒッターとしての道を歩むことになりました。

現役時代から引退後

外野手に転向した柴田勲さんは、入団2年目となる1963年(昭和38年)に、1番打者に定着し、規定打席にも到達する活躍ぶり。1966年(昭和41年)には、46盗塁で初の盗塁王に選出され、同年の日本シリーズではMVP選手となりました。1967年(昭和42年)のアメリカ・ベロビーチキャンプで盗塁技術に磨きをかけ、その年には70盗塁を記録。2年連続盗塁王に輝きます。

1965~1973年(昭和40~48年)には、所属する読売ジャイアンツが日本シリーズ9連覇を果たしました。この全期間において、柴田勲さんは野手としてレギュラーポジションを維持し、読売ジャイアンツのV9に大きく貢献したのです。ベテラン選手と呼ばれるようになってからも活躍を続け、1980年(昭和55年)には2,000本安打を達成します。1981年(昭和56年)には読売ジャイアンツが日本シリーズ覇者に返り咲きました。しかし、同年限りで現役を引退し、20年間のプロ野球選手生活にピリオドを打ったのです。

現役引退後は、読売ジャイアンツの守備走塁コーチとして活動したのち、1985年(昭和60年)に退任。その後は野球解説者として幅広く活躍します。一般社団法人日本プロ野球名球会の理事、巨人OB会の会長を務めるなど、現在も日本プロ野球界を支え続ける重鎮なのです。

まとめ

柴田勲さんはV9時代の読売ジャイアンツを支えた選手のひとり。高校時代からその才能を見せつけていた柴田勲さんは、読売ジャイアンツ入団後も、赤い手袋をトレードマークとして球場を沸かせ続けました。通算6度の盗塁王、スイッチヒッターのパイオニアとして大活躍し、現役引退から30年以上経ってもなおその記録は輝き続けています。現役引退後もプロ野球に携わる活動をしており、多方面から日本の野球界を支え続けているレジェンドプレイヤーです。