第3章戦前の「商工会議所法」に基づく商工会議所に移行
~激動する経済界の指導的枢軸として~〔昭和2年4月5日法律第49号公布・昭和3年1月1日施行〕
我が国経済の発展、企業の勃興は、日露戦争、第1次世界大戦をはさんで誠に目覚しいものがあったが、その後の反動的不況に加えて大震災を経験し、それらの傷跡が潜在して金融大恐慌へとつながり、当面する問題も多元的であった。
大企業の合同、中小企業問題、特に中小企業金融問題、貿易赤字問題等が深刻化するに及んで、商工業者の協力組織である商業会議所の任務はますます重きを加え、会議所の一層強力な活動が要請されるに至った。
もはや、制定以来26年を経た旧来の機構制度をもってしてはこれに対応することが困難となり、選挙制度に伴なう弱点を補い、その長所を全うするためにも商業会議所制度を見直し、会議所をさらに強化し、経済界の指導的枢軸として自主的な立場から対局に対応する体制の整備を迫られた。
全国商業会議所連合会では、商業会議所の名称を商工会議所と改め、商工会議所が名実ともに商工業の全般を代表する総合経済団体となるよう、組織及び機能の整備充実について検討すること数年、再三の建議の結果、「商工会議所法」の名のもとに、昭和2年4月5日、法律第49号をもって公布、翌昭和3年1月1日施行され、仏独系統の公法人としての商工会議所の性格は大成したが、奇しくも翌昭和3年は商法会議所発足以来50年に当る節目の年であった。
かくして、商工会議所に対する社会の認識も一段と改まり、維持運営に対する政府の保護助長策も強化されるに及び、全国各地で新しく商工会議所の設立が相次いだ。
また、「商業会議所条例」「商業会議所法」を通し、これまで任意組織であった会議所の全国組織は、「商工会議所法」において法定され、新たに法律に基づく「日本商工会議所」を設立することができることになり、昭和3年5月24日商工大臣の認可を受け創立した。
北海道においても、この「商工会議所法」に基づいて、昭和14年10月10日帯広、昭和15年11月19日北見に夫々戦前最後の商工会議所が設立した。この「商工会議所法」の大きな基本的な特徴は、次の通りであった。
- (1)名称を「商工会議所」と改めた。
- (2)初めて商工会議所の目的事項を掲げ「商工会議所ハ商工業ノ改善発達ヲ図ルヲ以テ目的トス」とうたった。
- (3)議員総会と部会の設置を初めて法定した。
- (4)全国組織として「日本商工会議所」を法定した。
また、既存の商業会議所はそのまま商工会議所に移行し、大正14年に「商工省」設立とともに、商工会議所の所管は「農商務省」から「商工省」に移管された。