戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
(ユネスコ憲章「前文」より引用)
ユネスコ憲章 : http://www.mext.go.jp/unesco/horei/kensyo.htm
被爆国からのメッセージ「核なき世界へ」
あの日、広島でかろうじて命を取り留めた私は、軍医として被爆者の治療に当たりました。郊外に臨時につくられた治療所には血みどろの肉の塊が折り重なり、死んだ赤ん坊を抱えた母親たちに治療をせがまれました。
衝撃だったのは、肉親捜しや救援のため後から市内に入った人たちが突然高熱を出し、亡くなっていくことでした。
新婚の夫を捜しに1週間後に島根県から市内に入った女性は、夫が涙声で名を叫び続けるなか、抜けた黒髪を吐血でぬらして命を閉じました。
戦後、東京や埼玉で診療所を開いた私のもとには、広島・長崎で九死に一生を得た患者の訪問が相次ぎました。差別を恐れて被爆体験を封印し、「ぶらぶら病」と呼ばれる倦怠感と周囲の無理解に苦しんでいました。鶏小屋に放置され、亡くなる人もいました。
「内部被爆」。この言葉を知ったのは投下から約30年後、米国のある研究者と出会ったのがきっかけでした。原爆の爆発時、空気中に放出された放射性物質がほこりや水を通して体内に取り込まれ、組織に定着して低線量被爆を引き起こし続ける。閃光も爆風も浴びなかった人々を病に苦しめ、ゆっくりと命を奪っていく核兵器の残忍さの正体は放射線だったのです。
(朝日新聞2009年6月25日朝刊紙より抜粋 被爆医師 肥田舜太郎氏記)