宮腰光寛・少子化担当大臣が推進すると表明して最近話題になっている「子連れ出勤」を、先日体験する機会がありました。正確な子連れ出勤とはやや異なるのですが、体験をしてみて改めて感じたことは、この現代日本社会で子連れ出勤をするのはほぼ「無理ゲー」だということです。
子連れ出勤を体験して分かったその無理っぷり
まず、通勤では、満員電車の中で子供たちが「狭いよ」「痛いよ」と窮状を訴えます。こちらはなるべく接触しないように手でガードを作るものの、電車の揺れの前ではほぼ無意味。周りは気を配ってぶつからないようにするどころか、そこにまるで子供がいないかのように平気で押して来るし、「うぜぇ」「何で子供を連れてんだよ」という雰囲気全開です。
おそらく私が男性かつ茶髪だったからトラブルは無くやり過ごせたものの、これが女性であれば、「コイツは自分より下だ」と思い込んだロクでもない人たちからバッシングや嫌がらせを受ける確率も高いことでしょう。実際に、そういう声はたくさん耳にします。
次に、勤務中も地獄です。PCを触ろうものなら、好奇心旺盛な子は「自分もお仕事する!」と寄って来ます。まるで保育園にデスクがあるようです。イメージが湧かない人は動物園の猿山にデスクがあると思えば良いと思います。関心事が他に移っても、子供が触ると危険なものもあるので、目を離すわけにもいきません。色々と散らかすので、掃除にかなりの時間を取られます。
そのような環境では集中できるはずもなく、まともに稼働できた時間は1日でわずか30分のみ。「無理だ!今日の私の仕事は保育だ!」と仕事は諦めざるを得ませんでした。
全社的な子連れ出勤はモーハウスだからできる
宮腰大臣は授乳服メーカーの「モーハウス」を視察して、子連れ出勤推進を決心したそうですが、モーハウスの特殊性を理解していないと思います。
(1)モーハウスは子連れ出勤の代名詞のような会社として昔から有名なので、子供が泣き出すと労働生産性が著しく低下しまうタイプの人材はそもそも入社していない可能性が高く、利害調整や彼等に対するサポートがさほど大掛かりなものではなくとも問題が無い可能性が高い。子供がいると著しく生産性が落ちる人とさほど落ちない人の両方がいるのが通常の職場であり、生産性低下を防止するには空間をセパレートする等の対策が必要だが、セパレートしてもスムーズに業務をこなせるのは、仕事の属人性が低い大規模な職場のみ。
(2)大臣が視察したモーハウス本社の所在地は茨城県つくば市にあり、労働人口や雇用が集中する大都市圏における通勤地獄の洗礼を受けずに出社することが容易である可能性が高い。電車が比較的空いている始発に出社し、遅くとも17時には家に着くというスケジュールであれば大都市圏でも通勤地獄を回避できるかもしれないが、そのようなスタンダードから外れた生活リズムに同居している他の家族や職場が合わせられるとは限らない。
(3)子連れ出勤とそれに対応した物の配置により労働生産性低下が生じても、モーハウスは顧客ターゲット層が授乳中の母親なので、モニター代が節約できるという目に見える経費削減効果がある可能性が高い。
子連れ出勤推進は政府のすることではない
これらの他に、モーハウスは子連れ出勤の対象者を「歩けるようになるまで」と限定していることからも、彼等が実施しているような子連れ出勤の導入対象になる事例は、この現代日本社会においてほんの一握りだと考えられます。宮腰大臣は「これなら、どこでもできるのではないか」と述べたようですが、まず自分たちで体験してから述べて欲しいものです。
もちろん、熊本市議会のように子連れ出勤を完全に禁止することは時代に逆行しています。2018年9月、ニュージーランドのアーダーン首相が国連総会の関連会合に生後3カ月の長女と一緒に出席したニュースは日本でも話題になりましたが、子連れ出勤を選択肢の一つとして認めて行くのが世界の潮流です(※ただしこのケースはパートナーというサポート役が同席していたためにすんなりと実現できたという側面も見落としてはならない)。
また、「なるべくキャリアを断絶させたくないから育休を長くは取りたくない」と考えている親が、保育園を落ちてしまって長期の育休を取らざるを得ない場合に、子連れ出勤が一つの選択肢になることは絶対に必要なことです(※保育園を落ちた際に育休を取るのは本来父親も対象のはずだが、多くの日本の家庭では当たり前に母親が取るものとして認識されており、そのような女性差別問題があることも忘れてはならない)。
普段は保育園に通っているが、病気でお休みせざるを得ないのに病児保育が使えない場合たとえばサービス対象地域ではない場合、直前で予約が埋まっている場合、日給が保育料よりも低い場合等では、緊急的な措置としても有効でしょう(※ただし、病気の種類と症状によっては外に連れ出すこと自体が子供に良くない可能性もあることがあるので、本来は小児科医等に相談するのが適切だと思います)。
ですが、そのニーズに第一義的に応える方法は、既に多くの人が批判を展開しているように、保育園落選をゼロにする政策や、病児保育等の利便性を高める政策のはずです。
子育て政策が親のニーズに合わない背景にあるのは?
それにしてもなぜ、日本政府の繰り出す子育て政策は毎度のことのようにニーズとはかけ離れた方向を向いたものばかりなのでしょうか? 一部のヨーロッパが実施したような「王道の少子化政策」をしないのでしょうか?
与党自民党が決して日本の伝統とは言えないような「伝統的な家族観」に固執して、それ以外を認めようとしないという側面以外に、しばしば政治家に女性が少ないことが原因としてあげられます。ですが、妊娠・出産・母乳による授乳以外の育児は、本来親の性別は問われません。たとえ政治家が男性ばかりでも、しっかりと育児をしていれば育児を邪魔する社会的障壁を体験し、それを政策に反映することは十分に可能です。
おそらく彼等は子がいるにもかかわらず、“伝統的な家族観”とやらに則って、育児をほとんどしていないのでしょう。問題は政治家に「男性ばかり」なことではなく、「子がいるのに育児をしていない人ばかり」なことです。良い所取りのイクメンではなく、生活管理やしつけ等も含めたトータル育児をしている人は特に少ない。もちろん女性政治家の増加は絶対に必要なことですが、子育て政策が進まない背景とは分けて考えるべきでしょう。
親でなければ育児を語る資格は無いのか
と述べておきながら、実はそれも間違いだと私は思います。というのも、たとえ子がいない議員でも、しっかりと子育てをしている人々のニーズをリサーチして、まっとうな子育て政策を打ち出すことは十分に可能だからです。むしろ、政治家が取り組む政策の多くが、自ら当事者として体験していない課題ばかりのはずであり、政治家本人が当事者である必要は一切ありません。
それにもかかわらず、なぜか子育ての話になると、「当事者でなければ語る資格無し」という社会の雰囲気を強く感じます。たとえば、夫婦の支配関係と育児分担の偏在を指摘した前回の記事をTwitterで告知した際にも、「あなたは子供がいるのですか!?」というセクハラ発言がいくつか届きました。
記事に関して重要なことは「書いてあることの正確性や論理性」であるはずなのに、おそらく育児に関する社会問題を客観的に捉えた経験が乏しいせいで論理的に否定することができず、「この記事を書いた人は本当に子持ちというステータスか」「子持ちでなければ信じるに値しない」と考えてしまうのでしょう。
また、子のいない保育士や教師や小児科医や教育学者は、それぞれの分野において親が持ち合わせていない様々なノウハウを有している人もたくさんいるでしょうし、親以上に子供とのコミュニケーションが上手い人もたくさんいるでしょう。それなのに、「先生はお子さんがいないから分からないんですよ!」と子供の親から言われたことのあるプロは本当にたくさんいます。
日本の子育ては当事者の経験に依拠し過ぎている
もちろん、既に子育てを経験した親がたくさんノウハウを持っているのは事実かもしれません。ですが、社会全体から見れば所詮は「N=1」です。
にもかかわらず、「親になったことで子育ての全てを把握した」のように捉えてしまったり、自分一人を主語にして「証明終了」としてしまう背景には、「子育てにおける多様性」や「子育てに関する様々な情報や知見」が社会にほとんど出回っていないために、「自分のやって来たこと=唯一の正解」に結びつきやすいという構造があるからのように思います。
高齢の政治家たちが時代は変わったのに子育てに関する知見やニーズをアップデートできない背景にも、子育てに関する知見が強烈に親という当事者と結び付けられて、その経験でしか語られない社会という側面が大きいように感じるのです。
逆に、子のいない人たちに「子育てにおける多様性」や「子育てに関する様々な知見」が共有されていないために、彼等が子育てを「ブラックボックス」のように感じ、必要以上に子を持つことの不安を大きくしてしまっていることもまた、少子化の要因の一つだと思われます。
また、子育てを親だけのブラックボックスにせず、開かれたものにするべき必要は少子化以外の面からも言えます。千葉県野田市で、10歳の少女が父親から虐待を受けて死亡する事件が発生して世間を震撼させていますが、このような虐待が止まないのも、「子育てにおいて親に頼り過ぎている社会の弊害」ではないかと思うのです。毒親問題等も同様でしょう。
私たちができる私たちの子育て政策
以上のことから、日本で真っ当な子育て政策を導入するためには、親以外も含めて、様々な人が子育てについて情報を集め、考え、発言し、議論すること、その土壌を作り出すること、ノウハウを社会の中でもっと可視化すること、様々なニーズがあることを顕在することや、多様性や世代間の違いに対する社会全体の理解を深めて行く必要があるでしょう。
確かにかなり遠回りになるかもしれないですが、この「親としての経験に極度に依存した日本的育児観」を打破しない限り、日本で子育て政策がぐんぐん進む事態がやって来るようには思えません。
そしてそれを打破するのは政治だけではなく、私たち個人一人ひとりです。
(勝部元気)