写真提供;東京ビッグサイト
国際見本市事始め
見本市というと、英語では、「フェア」、ドイツ語では、「メッセ」、フランス語では、「フォア」、イタリア語では、「フィエラ」、スペイン語では、「フェリア」と言います。
すべて「市」という意味から来ています。
そう言えば、日本でも、四日市、八日市、十日市などの名前が残っています。
政府主導で行った大規模展示会としては、明治政府がロンドンやパリ等で開催された万国博覧会に習って、国威発揚、技術紹介のために繰り返し行われた勧業博覧会があげられます。
「日本の展示会・見本市の簡単な歴史」
しかし、今日、私たちが考えるような近代的な展示会・見本市が日本で始まったのは、1950年代の前半と言えます。
ざっとどんな見本市が立ち上げられたのかを年次別に見てみましょう。
開催年 見本市・展示名
1949年 事務の機械展(後のビジネスショー)
1952年 全日本オーデイオ・フェア
1954年 日本国際見本市(大阪)
‘ 全日本自動車ショー(現東京モーターショー)
1956年 日本冷凍空調工業展(後に HVAC & RJAPAN に改称)
1960年 東京金物連合大見本市(後に東京金物グランドフェアに改称) メンテナンスショー
1961年 ジャパンウエルデイングショー(現国際ウエルデイングショー)
1962年 日本国際工作機械見本市(大阪)
‘ 東京ボートショー(その後東京国際ボートショーに改称)
‘ 運搬と荷役機械展(後に運搬包装機械展に改称)
‘ 日本電子工業展(後にエレクトロニクスショーと改称)
1964年 日本国際工作機械見本市(東京)
‘ 日本包装機械展(ジャパンパック)(後に日本国際包装機械展に改称)
1965年 1966年 東京国際グッドリビングショー
1968年 コインマシン・ショー(後にアミューズメント・ショーに改称)
まさに官民挙げての輸出振興の時代でした。
日本を代表する錚々たる産業の見本市で、伸び行く日本を象徴するイベントだったと言えます。
「大阪国際見本市」と「東京見本市」について
1954年4月には、大阪で「第1回日本国際見本市(大阪)」が開催されました。
これは、全業種をカバーする総合見本市(一般見本市)でした。翌1955年5月には、「第1回日本国際見本市(東京)」が開催されました。1960年からは、東京と大阪で交互に開催されるようになり、名称も「東京国際見本市」、「大阪国際見本市」となりました。
東京国際見本市は、第21回が行われた1995年で幕を閉じました。大阪国際見本市は、2002年の第25回で終了しました。もはや総合見本市の時代は終了したのです。
業種を特定する専門見本市も徐々に開催されるようになりました。
1962年には大阪で、「第1回国際工作機械見本市」が開催され、1964年には、東京でも同見本市が開催されました。大阪国際繊維機械ショーは、1976年に大阪で誕生しました。
現在では見本市都市としては、東京が圧倒的に優位に立っていますが、大阪は見本市発祥の地であったことを忘れるべきではありません。
「東京国際見本市協会」と「大阪国際見本市委員会」への協力
現在では、東京国際見本市協会は株式会社東京ビッグサイトに改組され、大阪国際見本市委員会は2010年前半に廃止されました。
政府の貿易振興機関であるジェトロは、長年に渡り、両組織の国際化に協力してきました。
日本で初めて本格的な国際見本市が開催されましたのは、前述のとおり、1954年4月、大阪でした。
見本市は、「第1回日本国際見本市」という名称で、多大なる成果をおさめました。
それに先立ち、1953年3月に日本国際見本市協会が任意法人として設立され、ジェトロも大阪府、大阪市、大阪商工会議所、(財)国際見本市協会とともに構成員となりました。ジェトロは、構成員の中でも、特に取引の斡旋、貿易相談の業務を担当しました。
翌年1955年5月に「日本国際見本市・東京」(第1回東京国際見本市)が開催されました。それに先立ち、1954年6月に、任意団体「東京国際見本市協会」が設立され、ジェトロは、東京都、東京商工会議所とともに構成員となりました。
ジェトロは、上記の業務に加え、海外においては、海外事務所を通じて見本市のPR・出展勧誘、訪日視察団のアテンド等を担当しました。その後56年3月には、東京国際見本市協会は、任意法人から社団法人となりました。
当時、大阪も東京もそれぞれが「日本国際見本市」と呼んでいましたが、1960年の第4回大阪国際見本市から、日本という名称がとられ、大阪国際見本市、東京国際見本市という名称になりました。
「ジェトロの見本市国際化のための支援」
ジェトロが、日本国際見本市発展途上国参加協力事業費という名称で、東京国際見本市と大阪国際見本市に財政的にどのように関わってきたかをみてみます。
昭和39年度(1964年度)には、大阪国際見本市委員会に会場借上げ費として、1、400万円強、東京国際見本市協会には、海外出展宣伝費として、460万円が国庫補助金として査定されています。
東京と大阪は歴史的な経緯もあり、隔年で国際見本市が実施されていました。その結果、見本市が実施される年には、会場借上げ費が、実施されない年には、海外出展宣伝費が補助されていました。
具体的に説明しますと、1965年の第6回東京国際見本市の際は、東京国際見本市協会に対し、会場借上げ費として、1、400万円強を上限として補助し、大阪見本市委員会には、翌年度の開催に向けて、出展勧誘のため、発展途上国に出張する予算として、海外出展宣伝費を460万円を補助するというものでした。
その後、昭和49年度(1974年度)からは、参加国の増加に伴い、予算が大幅に拡充され、発展途上国25カ国を対象に、各国につき5小間までのスペース料、基本装飾費を負担できることになりました。
さらに発展途上国の出展者を対象に、いくつかの業種に絞って、業者懇談会を実施したり、コンサルテイングを行う予算や参加した発展途上国の国情を紹介するパンフレットを作成する経費も査定されました。これに伴い、実施見本市組織には、合計3、400万円が補助されることになりました。
さらにその後徐々に参加国が増加し、昭和55年度(1980年度)には、25カ国、6小間、昭和57年度(1982年度)には、28カ国、6小間、昭和58年度(1983年度)には、30カ国、6小間までの支援となりました。
最後の見本市になった平成10年度の第22回東京国際見本市には、ジェトロは、60,585千円を補助しました。これらを合計すると、両組織に対し、それぞれ10億円を上回る補助金を交付したことになります。
「東京国際見本市の思い出」
東京国際見本市の歴史を振り返ってみますと、いろいろことが思い出されます。
私がジェトロに入会した1967年には、第7回東京国際見本市が開催され、見学に出かけたことがありました。当時はまだ総合見本市が全盛で、会期も、長い時は、20日間と信じられない長さでありました。
それでも当時は、現在のような各種アミューズメントもないし、娯楽に選択の余地が少なかったこともあり、東京国際見本市は、本当にエキサイテイングなイベントでした。来場者も多い時は、記録によりますと、280万人と信じられない数字で、外国の出展者も結構多いものでした。
まさに都民や隣接県民にとっては、2年に一度の国際見本市は、見知らぬ外国の雰囲気も味わえ、舶来品や国産品を購入できる楽しみの場でした。会場で配られる紙袋やサンプルは、人気絶頂でまさに引ったくり合いの感がありました。また天皇陛下も通常、ご臨席されるくらい格の高いイベントでした。
実際に、私が、東京国際見本市内で仕事をしたのは、1979年の第13回見本市でした。
その時には、加工食品やギフト等雑貨品の専門家をリテインし、発展途上国の出展者に日本への売り込みのノウハウを提供するためのコンサルテイング・ミーテイングを組織したり、発展途上国の商品を紹介するパンフレット等を作成・配布しました。
その当時は、発展途上国の製品の品質は、お世辞にも良いものとは言えず、こんな製品は決して売れないだろうなと思いながらコンサルテイングを手伝ったことを思い出します。例えば、魚の缶詰のラベルを見ても、日本の消費者の購買意欲を減退させるようなものが多いものでした。今では、それら発展途上国からの製品の質が飛躍的に向上し、購買欲のそそるものに変貌したことは本当にうれしいことです。
当時は、輸出振興の全盛期で、日本政府も見本市の位置付けや役割を十分に理解していました。見本市の国際化こそ最重要の課題と考え、予算も最大限査定し、大いに尽力したことが理解できます。
現在でも見本市・展示会が持つ経済的波及効果を考えると、政府の役割がますます重要になってきています。
文:桜井悌司(日本貿易振興機構 元監事・展示事業部長) 2019年6月