自然保護の原点
尾瀬はその後も昭和30年代以降の利用者増加による植生破壊やゴミの放置、昭和40年代の道路開発計画などの新たな問題が生じました。しかし、熱心な自然保護活動や植生回復、ゴミ持ち帰り運動、マイカー規制などの取り組みが行われ、尾瀬の自然は守られてきました。こうした取り組みは、尾瀬ではじめて行われ、全国的に広まったものもあることから、尾瀬はわが国における「自然保護の原点」とも呼ばれるようになりました。
関東地方と東北地方の接点にもあたる尾瀬には、鎌倉時代から群馬県片品村から尾瀬を経て福島県檜枝岐村へ通ずる街道が通っており、尾瀬を挟んだ物資・文化の交流が行われていました。
沼田市と会津若松市を結ぶこの街道は、群馬側では会津街道、福島側では沼田街道と呼ばれ、沼田城から尾瀬沼を経て鶴ヶ城に至る全長約180kmに及ぶ重要な街道で、檜枝岐及び片品村戸倉には関所が設けられていました。また、幕末の戊辰戦争の際には大江湿原に会津軍が駐留し、戸倉で征討軍と会戦しており、大江湿原には当時築いた土塁が今でも残されています。当時の街道の面影を残すのは、七入から沼山峠、大江湿原、尾瀬沼、三平下を通って一の瀬に至る登山道の一部で、特に道行沢の渓谷沿いの道は新緑や紅葉の時期がお薦めです。
また、古くから独自の文化が形成されてきた地域でもあり、特に檜枝岐村で受け継がれる檜枝岐歌舞伎は260年以上の歴史を持つ農村歌舞伎で、その舞台は国の重要有形民俗文化財にも指定されています。