2024年1月1日夕方。多くの人々が正月気分に浸るなか、能登半島に起こった大きな地震に日本中が驚き、被災者の皆さんの年始早々の避難生活に胸を痛めた。

しかし、人々の関心は徐々に薄れていってしまう。

そのこと自体は仕方のないことかもしれないが、それはあくまでもしかるべきスピードで街の再生が進んでいることが前提だ。

現地での復旧作業は粛々と実施されているものの、地震から半年以上経ったいまもなお、倒壊した建物の多くがそのまま残り、地震直後のような風景に大きな変化はないように感じる。

能登の復旧作業が十分でないことが明らかになるにつれ、どうにもやりきれない思いが募っていく。都会的な経済合理性と引き換えに、地方の人々の当たり前の暮らしが犠牲になっているような、そんな気持ちになったからだ。

日本の地方を取材しつづける『ジモコロ』のライターとして、また、いち編集者として、能登の現状を少しでも伝えたいと思い、夏目前の6月某日、編集長の友光だんごとともに能登半島に向かった。

今回の記事は、能登半島の先端にある珠洲市に住む、いや、住んでいた友人、志保石薫(しぼいしゆき)ちゃんのインタビューで構成されている。当事者である彼女の言葉に込められたものを、ストレートに感じてほしいと願う。

 

実はこの記事の公開準備をすすめていた2024年9月のこと。復旧にむけてようやくさまざまが前を向きつつあった能登半島を、凄まじい豪雨がおそった。その被害は甚大で、またしても尊い命を奪う自然の猛威に、一時は記事の公開を中止したものの、度重なる能登の被害に多くの人が胸を痛めているいまこそ届けなければと、公開に踏み切ることに。

志保石薫さん(写真右)と、珠洲の海岸にて

金沢市内の「みなし仮設」と呼ばれる賃貸型の応急住宅に避難している薫ちゃんと、金沢駅で待ち合わせをした僕たちは、レンタカーに乗って、彼女が住んでいた珠洲市まで向かった。その車内でゆるやかにインタビューはスタートした。

 

「この世が終わるかと思った」地震当日のこと

金沢から珠洲へ向かう道中には、地震の跡が色濃く残っていた

藤本「地震があったときはどうしてたの?」

ゆき「お正月でふつうに過ごしてたんですけど、最初の揺れで旦那と子どもだけ外に出て、『揺れたねえ』って近所の人たちとしゃべってて。そこに、津波の心配はありませんっていう放送が入ったので、わたしも合流して『津波大丈夫だって』って言ったとたんに、2回目の揺れがあったんです」

藤本「そこで本震が来たんだ」

ゆき「もう揺れすぎて地震だと思わなかったんですけど、お向かいのお家がプリンみたいに揺れて、ブロック塀とか燈篭が崩れてきて。何より足元が地割れしてきて、この世が終わるのかな、って思いました

藤本「こわい」

志保石さん宅の近くにあった、実際の地割れ

ゆき「昔、『ロング・ラブレター〜漂流教室〜』っていうドラマがあったんです。主人公の二人が大きな地割れで引き裂かれていくんですけど、まさにあれになるって思って。いま見ると地割れって言っても、ちょっとした隙間のようなものなんですけど、揺れてるときはもっと大きく見えていたので」

藤本「いやあ、それはこわい。でもその瞬間は家族3人一緒にいられたんだね」

ゆき「はい。これだけ揺れたら津波がくると思ったので、着の身着のまま、避難道を駆け上がりました」

藤本「実際に津波は?」

ゆき「こなかったというか、土地の隆起のせいで集落内には達しませんでした。でも、潮の引き方がとんでもなくて、さらに山のほうに行ったんです。車中泊で一晩過ごして、翌朝に降りてきて、荷物を準備して避難所へ行くっていう流れなんですけど。集落のみんなで一つになって動いていたので、かなり心強かったです。海のことをよく知っている人もいたので」

海に面した山沿いの集落にある、志保石さん宅

藤本「この土地に津波がきた歴史はあったの?」

ゆき「集落のおばあちゃんの話では、浜までは津波がきたことがあったそうです。でも、この土地自体がもともとは海で、2000年前とかの地震で隆起した砂浜の上に土が堆積しているところなんです」

藤本「なるほど。今は金沢に避難しているそうだけど、帰ってきたい気持ちと、怖い気持ちと、実際どんな思いなのかな」

ゆき「帰ってきたい気持ちのほうが大きいんですけど、土地が崩れたりして変わってしまったので、それなりに備えないと住めないなっていうのはありますし。山も今回の地震によって崩れやすくなってるので、何かしら対策をしないとねっていう話をしています」

 

珠洲は「初めて自分が見つけた素敵な場所」だった

藤本「ゆきちゃんはもともと能登の人ではないよね?」

ゆき「はい、地元は東京です。東京の大学に通っていたころ、ゼミの先生に『能登がおもしろいから行ってこい』って言われて。それが大学3年生のとき」

藤本「それが最初の珠洲?」

ゆき「そうです。当時の私には、珠洲に対して家族も知らない『初めて自分が見つけた素敵な場所』みたいな感覚があって」

藤本「素敵だ。家族旅行や、親戚の縁とかではない、自分が見つけた初めての場所っていう感覚か。確かにうれしいね。珠洲に住みはじめたのはいつ?」

ゆき「大学を卒業してすぐです。当時は数年東京に勤めて、何かしらのスキルを身につけたら行こうっていうビジョンがあったから、東京で就職することを決めていたんです。だけど卒業間近になって、毎日電車に乗って通勤する自分がイメージできなくなって。このまま珠洲と距離が開いて関わりがなくなるのかなって……」

藤本「急につらくなってきたんだ」

ゆき「そういうときに、行きたいなら行っちゃえばいいじゃん、みたいな感じで背中をグッと押してくれた人たちがいて

藤本「確かに、どこに行ってもスキルはつくし」

ゆき「それで、『千と千尋の神隠し』の千尋みたいに、『何か仕事はありませんか? ここで働かせてください』って能登の人に聞いたら、仕事を紹介してくれて、それがその年にオープン予定の木ノ浦ビレッジという宿泊施設で、正社員として雇ってくれることになりました」

藤本「働き口がある状態で珠洲に移住できたのはよかったね」

ゆき「そうなんです。すぐに空き家を探して、当時は移住者も少なかったので、すぐに見つかりました。最初は珠洲の町中、市役所まで歩いて10分くらいのところに家を借りて。ラッキーなことに、ご近所さんがめちゃくちゃいい人たちばかりで、そこに6年くらい住みました」

ゆき「仕事は、宿泊施設の管理運営、事務、お部屋の掃除、食事の準備、体験のインストラクターと、少ない人数で実験的に始めたので、正直、毎日大変でした。だけど、最初に面接してくれた方がずっと味方になってくれて」

藤本「それは心強いね」

ゆき「その人に『これからも珠洲で生きていきたいなら、3年は絶対にがんばれ。がんばらなかったら、ここに居づらくなるから』って言われてたのを思い出して、3年は絶対にがんばろうって。そしたら、3年目にすごく心強いスタッフの方が入ってくれて。わたしもちょうど、旦那と出会って結婚しようかな、みたいな時期でもあったので、結婚を機に辞めることにしたんです」

藤本「大学を卒業して、珠洲に移住して、働いて、3年後に結婚」

ゆき「それで、住むなら海辺に住みたいなと思っていて、川浦という集落に」

藤本「川浦を選んだのはどうして?」

ゆき「川浦って、集落総出で草刈りをするときも、開始時間がほかの集落に比べて遅くて、のんびりしてるんです。珠洲のひとは、のんびりのことを『じんのび』って言うんですけど、じんのびしてる

藤本「じんのび。いいなあ」

ゆき「だけどみんな、ほんとなんでもやります。山のことも海のことも。珠洲のおばあちゃんの言葉ですごく好きなのが、『海行って遊んできたさかい、これ食べさしや』って言って、貝とかを持ってきてくれるんです。『山行って遊んできたさかい、きのこ食べさし』とか。遊んできたって言うんですよ。そうやって野山で遊ぶことが、みんなの元気の秘訣なのかな」

藤本「わあ、いいなあ」

 

みなし仮設での暮らしと葛藤

立ち寄った珠洲市内の「いろは書店」で、お店の方々と久しぶりの再会。「無事かなって思っているだけで、本当に無事かどうか確認できない自分がいて。だから、お店が開いてくれたら、また会えたりするから、ほっとする」と志保石さん

藤本「金沢には、どのくらいいることになりそう?」

ゆき「いまは1年で珠洲に戻ろうと思ってます。1年で家が直らなかったら仮設でもいいので。木造の復興住宅で、環境もいいかなと思って。ただ、うちぐらいの損害状態の家でいまも生活している人がいっぱいいるので、わたしたちが仮設に入ってしまっていいのだろうか、みたいな葛藤も

藤本「それはもちろんいいに決まってるけど、いろいろ言われたりするのかな」

ゆき「そういう気持ちから少しづつ抜け出せつつあるんですけど、2次避難してるときも、珠洲に残って頑張ってる同世代がいるなか、わたしたちは安全なところで過ごしているってことに、すごく後ろめたさを感じて。でも恐ろしくて珠洲には戻れない」

藤本「どちらの判断も尊いと僕は感じる」

ゆき「金沢でみなし仮設住宅を借りることにした一番の理由は、二次避難先にいると、【被災者のわたし】っていうところから24時間抜け出せなかったからなんです。なんとなく、きれいな服着たらダメかなとか、笑ったらおかしいかなとか、そんなことばかり考えてしまって。被災者としてではなく、一市民としてふつうに生活したいって思ったんですよね」

藤本「そうか。そうだよね。そんな思いになってしまうよね。ならば、金沢の街はとてもいいクッションになってる?」

ゆき「そうですね。ただ、仕事もしないでアパートにいるだけだと退屈だし、子どもも退屈そうだから、保育所に行ったほうがいいかも? と思うと働かなきゃいけない。でも、みんなボランティアとか一生懸命やってくれてるのに、自分だけがこのタイミングでお給料をもらって働いていいのかな、みたいな後ろめたさもあって

藤本「いいに決まってるのにね」

ゆき「思っちゃうんです。でも、自分たちが自分たちの本当は住みたい家に住めてないっていう時点で、やっぱり大丈夫ではないから。できるかぎり自分が大丈夫な状態に持っていくことに後ろめたさを感じるのはやめようっていうふうにも思います

藤本「うん。そうだね。でもそれが難しいのも伝わる」

「いろは書店」は仮店舗で営業再開中。「珠洲には本屋さんが一軒しかないんですけど、店舗1階部分がぺしゃんこになってしまって。でも、かなり早い段階に仮店舗で再開されて。こんなときに本屋さんが開いてる。それだけでわたしは、珠洲っていい町だなって思う」と志保石さん

 

避難所を出たかった理由

自宅の壁には、地震でできたひび割れが

ゆき「1日も早く避難所を出なきゃいけない、避難所になっていた旅館から出て普通の生活を取り戻さないといけないって思ったのは、子どもがいることも大きくて」

藤本それはやっぱり、子どものために?」

ゆき「子どもの1日、1か月、1年って大人のものとは比べ物にならないぐらい重たいので、子どもにまでよくわからない不安を引き継いでもいいのだろうかって。1年で珠洲に戻るっていう決断をしたのも、そうこうしている間に子どもは成長していくから

藤本「避難所にいるときのお子さんはどんな様子だった?」

ゆきうちの子どもの場合、いまも、めちゃくちゃ地震の話をするし、地震の映像も見たがるんです。保育園でも地震ごっこをやっていて。保育園の先生には、『ストレス発散のひとつだから止めないほうがいい。やめてって言わないで受け入れてあげてください』って言われたんです。いろんなストレスの表現方法があるなかで、うちの子の場合はそういう感じでした」

藤本「とんでもなく恐ろしい経験だったろうに、それをちゃんと発露して、えらいね」

ゆき「わたしも、この震災でもラッキーだったって思うことがたくさんあって、そう口に出したりするんです。だけど、もしかしたら、それはつらかった自分と向き合わないようにしているのかもしれない。被災してない人から、すごくかわいそうって思われることによって、自分はすごく大変だったのかって自覚したくないっていうか」

藤本「あぁ、たしかに。子どもの地震ごっこと一緒なのかもね。そうやって自分を守るって、すごく大事なことだし」

 

集約型のコンパクトシティではなく、分散した小さな単位で備える。

藤本「もう少し、避難所での生活のこと聞いていい?」

ゆき「はい。とにかくお正月だったので、用意していたお正月料理を避難所に持ち寄って、暗闇の中、みんなでおいしいものを数日間は食べることができました」

藤本「たしかにお節料理って、つくりおきできる料理だもんね。数日でもおいしいものがあると救われるね」

ゆき「今回の避難生活は、集落の人だけで避難所で過ごすことができたのがすごく良かったんです。ちっちゃな家族みたいな感じで、みんなで力を合わせて、家にある備えを持ち寄って生活できていたので」

ゆき「いまはコンパクトシティみたいな考え方とか、インフラも集約していって効率的に行政を運営しようみたいな時代の流れですよね。だけど、逆に分散してるところのほうが、非常事態は絶対に強いなって思いました」

藤本「なるほど。ほんとそうだ」

ゆき「年始の地震直後、水の復旧も、この辺鄙な半島の先っぽなのに早かったんです。それは水道が独立してるから。それに湧水もいっぱいあるから水にそんなに困らなかった。分散して、すごく小さい単位で備えていくっていうのが、防災の向かっていく姿のような気がします」

藤本「それってとても大切な視点だね」

 

復旧をめぐる状況へ感じる、もどかしさ

藤本「そう言えば最近(取材は6月上旬)、水道が復旧したニュースがあったよね?」

ゆき「あの報道に珠洲の人はみんな怒ってたんです。うちの場合、上水は出るんですけど、下水がダメなので、基本流せないんですね。だからお風呂に入れないし、トイレも使えない。そういう家がほとんどなのに、『水道が復旧しました』ってデカデカと報道されてしまうと……」

藤本「上水と下水、全部が復旧したニュースじゃなかったんだ! 報道を見て勘違いしてた」

ゆき「公共施設としては上水が復旧したけれども、その水を家につなぐための配管がみんなダメになってるから、家で蛇口をひねって水が使えるわけではないんです。なのに、あの報道を見たら、珠洲は水が使えるようになったんだなって思われてしまう」

※9月の豪雨災害により、珠洲市や輪島市では再び大規模な断水が発生。10月中旬現在、復旧工事が進んでいるものの、未だ断水が続く地域も多い(編集部注)

藤本「少なからずメディアに携わる人間として、どうしてそんな報道をしちゃうんだろうと不思議に思うし、怒りを覚えるよね。復旧が遅れている現実に対する、アピールのようにも感じる」

ゆき「まさにそうかもしれないですね」

藤本「仮に水道が復旧したとしても、相当遅い印象だけど。なんでこうも復旧が進まないんだろうか」

ゆき「原発の事故があって福島から金沢に避難をして、そのまま定住しているご夫婦にお会いしたんですけど、動きの遅さにびっくりしていました。東北のときは1〜2か月であっという間に更地になったのに、珠洲はまだ道路に倒れ込んだガレキとかがそのままなので」

藤本「本当に。僕は関西出身で阪神大震災のとき兵庫にいたし、3.11のときも東北へ何度も行ったんだけど、どちらもこんなに復旧が遅くなかったのにって思う」

ゆき「家にしても、珠洲市は住民票ベースで人口が1万2000人、7000棟が公費解体の対象なので、ほとんどが倒壊しているんです。だけど、いまのオペレーションでは毎日60か所で解体が進んで、来月、再来月には60が100になるらしいんですけど」

ゆき「解体には早いところで3日、遅いところで10日くらいの日数がかかるっていわれているので、7000軒を解体するのにいったい何年かかるんだろう」

藤本「ほんとにね」

ゆき「この間、住民向けの意見交換会があったんですけど、その時間設定も、世の主婦が一番家を出られない時間帯で。ましてや子どものいる世帯なんて、出るのがかなり難しくて、なんだかなあって」

藤本「本当に話を聞くべきは、そういう人たちのはずだよね」

ゆき「やっぱり、これからこの町をつくっていく世代の人たちが来やすい時間であってほしいと思うんです。代わりに参加できない人からはネットで意見を募集してますっていうのも、そういうことじゃないよねって思うし」

藤本「本来、公平っていうのは、声の小さい人に合わせることだよね。数が少ない側に合わせるくらいのほうが、公平性を保てると思うけれど、いまの世の中は、経済合理性が正義みたいになってるから、まったくそうならないよね」

 

「小さな暮らし」に、能登の未来を思う

珠洲の銭湯「あみだ湯」のしんけんさんと、志保石さんは移住者仲間。同世代で、同じ時期に珠洲へ移住して、今も交流が続いている

藤本「僕個人としては『復興』という言葉はあまり好きではなくて、それより、新しい未来を創造するのがいいんじゃないかって思うんだけど、ゆきちゃんはそういう視点で能登の未来をどう考える?」

ゆき「夢のまた夢なんですけど、地区ごととか集落ごとに、ある程度のエネルギーや水を自活していけたらいいなって。楽しく生活して、かつ、非常時にも備えられてるような日々をつくるには、インフラが自分たちで賄えていて、非常時でもつながるとすごく心強いから」

藤本「たしかに。それに近いものを今回経験したわけだしね」

ゆき「珠洲はそれぞれの集落のつながりがすごく強いから、できると思うんです。私の住んでいる川浦は小さな川がいっぱいあるから小水力発電もできるだろうし。そういえば被災地では災害ごみが大量に出るんですけど、災害ごみって津波をかぶったら燃やせないんですよ

藤本「そうなんだ。それは単純に湿ってるから?」

ゆき「それもあるし、塩水を浴びたごみは燃やすと大量のダイオキシンが出るので、高性能の焼却炉じゃないと燃やせないそうなんです。だけどいま、それを燃やせるように下処理できる機能を備えた焼却炉がトラック1台くらいにおさまって、災害ごみを燃やしたエネルギーで電気と水が賄えるっていうすごい装置をつくってる会社があって」

藤本「それはなんで知ったの?」

ゆき「珠洲って、とんでもない量の海洋ごみが流れ着くんですけど、海洋ごみは拾っても拾っても、山の最終処分場に埋め立てるだけなんです。それで、ごみのことを調べていたときに見つけたんです」

藤本「へえー」

ゆき「だからあの焼却炉があれば、ごみを拾えばどんどん電気が賄えて、水も自給できる。そういう町になったらいいなって勝手に思ってるんです」

藤本「ビジョンと情熱を持ったひとが動けば、その夢はきっと現実になるよ」

ゆき「ただ、珠洲市は去年ごみ処理施設が新しくなって、ちょっとコンパクトな焼却炉になったんです。でも市民が少なすぎて、ごみが足りない状況で」

藤本「あ〜それ、全国で起こってる問題。世界中でもここまでゴミを燃やし続けてるのは日本だけだからね。矛盾してるよね」

ゆき「珠洲って本州の市を名乗る自治体のなかで一番人口が少ないんです。だから、どんな会議に出ても、まずは人口減少・高齢化をなんとかせにゃならん、みたいな話になるんですけど、そこにわたしはずっと疑問を感じていて。少ないからこそ良いって思える気がするし、もうちょっとでそういう未来を描ける気がする」

ゆき小さく、少なく暮らしていることが、わたしは強さでもあると思うし、強さにできると思うんですよね

藤本「小さいゆえの強さか」

ゆき「今回も川浦地区が20世帯50人っていうのが程よかったのと一緒で、小さいからこそ安心できて、みんなで一つになれるっていうことがあると思うんです」

藤本「たしかに今回のことで感じたのは、日々収めている税金が、こういうときにこそ、何よりも優先されて使われるのではないということ。だったら、自分たちで小さかろうと安心感をもって生きていくために、仲間とかコミュニティに気持ちを向けざるを得ない。それを突きつけられた感じがする」

ゆき「珠洲市っていう単位で考えたら、人口が減ってるとか高齢化してるって怖いけど、もうちょっと小さい集落みたいな単位で考えたら、何人ぐらいのひとがいればこの集落を維持できるのかが明確にわかると思うんです。ほどよく豊かに暮らせる数ってあると思うんですよね

藤本「そういう実感値が大事だよね」

ゆき「わたしたちのいる川浦集落はいま、小学生がいる世帯がすっぽ抜けちゃったので、若い世帯が減っちゃうんです。ほかに仲間がほしいし、あと2世帯くらい若い世帯がいてくれたら、祭りもできるし、集落の草刈りとかも維持できそうだから、あと2世帯くらい住んでくれたらいいなあって思ってるんです」

藤本「一番の防災はコミュニティだもんね」

ゆき「それです。本当に」

珠洲取材の最後に訪れた「見附島」。「マンホールの絵にあるような島の形とはまったく違うものになっちゃいましたけど、避難する道中で見附島が見えたとき、愛おしく思いました。がんばって耐えて、ちゃんと残ったんだって」と、志保石さん

 


令和6年1月1日に発生した能登半島地震ならびに9月21日から能登半島を中心に発生した豪雨により、犠牲となられた方々におくやみを申し上げます。また、被災されたすべての方々に心よりお見舞い申し上げます。
今後も、ジモコロでは能登地方への継続的な取材を続けていきます。(ジモコロ編集長・友光だんご)