全米メジャーリリースも実現、世界で活躍する日本人作曲家、ヒロイズムさんの足跡と次なる狙い | DTMステーション

全米メジャーリリースも実現、世界で活躍する日本人作曲家、ヒロイズムさんの足跡と次なる狙い

海外、とりわけアメリカのメジャーレーベルで自分の作品を発表するなんて、夢のまた夢。そんなことを実現するなど現実的な気がしないですよね。そんな中、今年1月、日本人の作曲家がその夢を果たしてくれました。これまでも国内でもNEWSMISIAJUJUMs.OOJAKis-My-Ft2AKB48乃木坂46……といったアーティストに提供し、それらの楽曲がオリコンチャート1位や百万ダウンロードを記録してきた実績を持つ、ヒロイズム(her0ism)さんです。

いま35歳のヒロイズムさんは、昨年、アメリカのロスアンゼルスに移住し、日本だけでなく、世界に向けた音楽制作活動を本格化させています。すでにギリシャ、韓国、ルーマニア、ドイツ、南アフリカなどでもヒット曲を次々と生み出し、各国で1位をとったり、YouTubeで1000万再生を実現するなど、着実に実績を出し、ついにアメリカでのメジャーデビューまでたどり着いたところです。先日も「低音が海外成功のカギ!?英語圏でヒット曲を飛ばす日本人、Ryosuke”Dr.R”Sakaiさんの挑戦」という記事で、海外で活躍するSakaiさんを紹介したばかりですが、日本人が着実に世界へと飛び出して行っているのです。そのメジャーデビューを果たしたヒロイズムさんと先日Skypeを使ってインタビューをしたので、どうやってここまで来たのか、この先どこへ向かっていくのか、そしてもちろんDTMとどう向き合ってきたのかなどを伺ったので、その内容をじっくり紹介していきたいと思います。

いまロスアンゼルス在住のヒロイズムさんにSkypeでインタビューした


--このたびはアメリカでのメジャーリリース、おめでとうございます。
ヒロイズム:ありがとうございます。今回プロデュースさせていただいたのは、State of Mindという4人組のアーティストの楽曲「How did we get here」です。The Voiceという全米でも放送されているヨーロッパのオーディション番組で誕生したベルギー出身のボーイズグループのシングルなのですが、よかったらぜひ聴いてみてください。

https://youtu.be/epX6XMJCcmY

--まずは、ヒロイズムさんの経歴的なところから伺いたいのですが、もともと音楽を始めたのはいつ頃からだったんですか?
ヒロイズム:幼稚園のころから小学校5年生までヤマハのピアノ教室で習っていましたが、自分でオリジナルを作るようになったのは高校に入ってからですね。中学時代は新曲が出るとワクワクして、お小遣いをためて買いに行っていたのに、そこまでして欲しい曲があまりなくなっちゃった。ないなら自分で作ってみようとはじめてみたんです。そのころちょうどDTMが話題になってきたころ。本当に高かったけど貯金すべてをはたいて、Mac Performer 5220というマシンを購入するとともに、カシオのキーボードとSinger Song WriterのMac版を購入して手探りで始めたのがスタートです。

--Singer Song Writerからのスタートだったんですね!今度、インターネットの村上社長に伝えておきます、きっと喜ぶと思いますよ(笑)。やっぱり独学で始めたわけですよね?
ヒロイズム:作り方もわからないし、教えてくれる人もいないから手探りでした。当時バンドもやっていたのですが、そこでオリジナルを歌うというのも、突拍子もない気がして、コピーバンドだったんですけどね。高校2年のとき、文化祭でのクラスでムーランの劇をやったんです。この劇、自分が主演だったんですが、普通ならディズニーの曲を使うところ、さりげなくバックにオリジナル曲を使ってみたんです。

L.A.にあるヒロイズムさんの自宅スタジオ
--Singer Song Writerとカシオのキーボードで作った曲?
ヒロイズム:そうです。それが自分にとって初のオリジナル曲発表だったんですが、オリジナル曲だったことを敢えて言わなかったら、みんなあまり気にもしなかったんですよ。逆にいうと、普通にディズニーの曲だと思ってくれたようで、自分では「いけるな!」と感じました。そこからがスタートでした。

--そのまま、音楽の世界へ行こうとは思わなかったんですか?
ヒロイズム:そこは、みんなと一緒に受験勉強して、慶応大学の商学部に入ったんですよね。ただ大学入ってすぐの夏休みに、結構運命的だと思うようなバンドを組むことができ、そこからはもうバンドだらけの毎日。学外の人たちと組んだいわゆるロックバンドで、月に1、2回のライブを行っていてメジャーからも声がかかるようになり、1年のときには、バンドで食べていくことを思い描いていました。いつかは東京ドームに立ちたい、なんて目標を立てつつ、3年生、4年生と活動を続けていったのですが、ここで限界を感じてしまったんです。どこかで爆発的なヒットでもあれば別だったんでしょうが、このままでは先が見えないと思って、ツアー中に浜松で突然解散(笑)。バンドではあったけど、曲を作って、スタジオやライブハウスを手配し、チケットもほとんど全部自分で売りさばいていて……、これじゃ限界だなってね。でも、それと同時に作曲家という道が見えたんですよ。バンドでは難しくても、作曲家としてなら東京ドームに立てるかも…って。

ヒロイズムさんの現在のL.A.の自宅スタジオ。外にはプールもある!
--それにしても、すごい目標を立てますよね。
ヒロイズム:その当時は、そんな大した曲が書けていたわけじゃないし、今じゃ恥ずかしくて誰にも聴かせられないレベルですけどね。でも、自分の中に眠っている何かがそう思わせてくれたんですよね。そこで作曲家志望として、MDにサビだけを10曲くらい録音したもの作家事務所など20社くらいに送ってみたんです。そうしたら10社から反応があって、呼び出されて行きました。でも、行ってみると、なんか説教ばかりされて……、「なんで呼び出したの?」「どうして電話かけてきたんだよ!」って思いましたね。今思えば、完成度は低いけど、ちょっと気にかけてくれたというところなんでしょう。結局、決定打は出せず、作家預かりみたいな形になってしまうため、これではすぐに食べていける状況ではありませんでした。なのど、一度就職してみようということになったんですよね。

--ヒロイズムさん、就職していたんですね。その間、作曲活動は?
ヒロイズム:某公益社団法人に就職し、サラリーマンとして結構ガッツリと働きましたよ。公益社団法人って、まあ準公務員ですから、当然副職は禁止。新曲を書くことは復職にあたりNG。でも今まで書いた曲が採用されるというのであれば、かなりグレーではあるけど、まあよしという感じでした。何度も人事に呼ばれては、いろいろと交渉はしましたけどね。そうした中、運よく世に曲が出ていくようになり、中島美嘉の「LIFE」が紅白にまで出ちゃったんで、さすがに目立ちすぎてマズイな…とも。それまで都内での勤務でしたが、4年目に名古屋に転勤という辞令が出たんです。正直なところ、もう音楽でやっていく決意はできてたんですが、転勤だから辞めるっていうのも逃げてるみたいでカッコ悪い。まずは家探しのための出張で名古屋に来て、不動産屋のクルマで、いろいろと回ったんです。そんな中、不動産屋の女性と話をしていたら、彼女、カラオケが好きで、いつも歌うのが「LIFE」だというんですよ。さらにJUJUに書いた「Wonderful Life」が名古屋で流れてきちゃったんですよ。以前、新宿の大ガードの五叉路でスーツ着て、「自分は何をやってるんだろう…」と思って書いた詞だったんですが、その言葉が自分に突き刺さって……。そこで覚悟を決めて自分の部署の部長に電話をし、「やっぱり曲を書きたいです」って言って、辞表を出しました。引き止めはあったけど、最後はこれからも応援してくれる、ということで握手して退職しました。当時はまだ3曲くらいしか決まってなかってなかったので、不安だらけではありましたが、これからは専念するぞって。

--それが10年前のことなんですね。ところで、その当時のソフトってどんなのを使っていたんですか?

ヒロイズム:Singer Song Writerの後にDigital Performerに乗り換えて4.x~6.xくらいまで使っていました。そのころはピッチ修正がDP内でMelodyneを使ってできるというのが大きなポイントだったんですが、その後LogicでもFlex Audioを使ってできるようになってきました。それで、当初はDPとLogicを併用していたんですが、徐々にLogicへとシフトしていきましたね。いまもLogicが中心で、ProToolsと併用している感じですよ。


ヒロイズムさんのDAWはSinger Song WriterからDigital Performerを経て、Logic/ProToolsへ

--すみません、話が脱線してしまいましたが、会社を辞めてからどうなったんでしょう?
ヒロイズム:正式には3月31日付での退職となるわけですが、そのタイミングで社宅も追い出されるわけです。そこでハードルを上げて自分にプレッシャーをかけようと、思い切り家賃の高い家を借りてみたんです。20万円くらいですね。でも4月1日になって、自分のやらかしてしまったことの重大さに絶望しましたよ。手元にほとんどお金なんかないんで、これで家賃払えなくなったらどうするんだ……ってね。そしたら、翌日の4月2日にTOKIOの「あきれるくらい 僕らは願おう」という曲が決まったんですよ。まさにジェットコースターみたいな気分ですよね。

--ちなみに、曲が決まるという場合、どこまでが、どう決まるんですか?つまり、メロディーだけが決まるとか、出したトラックそのものが採用され、あとはボーカル録りだけとか……
ヒロイズム:作ったトラックがそのまま使われるかどうかは、時と場合によります。そのときはほかのアレンジャーをつけることになり、僕は作詞・作曲でした。最近は作詞・作曲・編曲そのままの形で世に出るケースが一番多いです。

--そこからは、がんがん仕事が決まっていくわけですね。
ヒロイズム:それが、そうでもないんですよ(苦笑)。国分寺にスローカフェというのがあって、そこのカフェのオーナーの考え方に共感しちゃって、半年ぐらいそこでバイトしたんですよ。時給700円くらいで(笑)。ただ、バイトをはじめたら、休憩中とかにマネージャーからどんどん電話がかかってくるようになり、次々と曲が決まっていき、忙しすぎて半年で辞めたというのが正しい表現でしょうか…(笑)。

--つまり、バイトしながら、どんどん曲を作っていたわけですよね。

ヒロイズム:そうですね。まあ、コンペへの参加が中心だったので、メールで連絡をもらったら、ひたすらパソコンと向かい合って曲を作っていました。2日に1曲くらいのペースですかね。でも決まらないときは全然ダメ。結構つらかったですよ。20万円の家賃もありますしね。で、そのうち20万円の家賃を払い続けるのはバカバカしいんじゃないかと思うようになり、2年後に思い切ってスタジオも兼ねる家を買っちゃいました!それも自分にはっぱをかける意味もあって、やる気にはなりますよね。

--それだけ売れっ子作家になれば、もう十分のような気もしますが……。
ヒロイズム:でも、その時、その時で、めちゃくちゃ必死、常にギリギリで生きてきた感覚です。といっても首を絞められているようなギリギリではなく、自分がのぞんでいるもの、その位置に手が届いていない、だからどうにか食らいつきたい。そんな思いでした。それは今も同じ気持ちなんですけどね。だからいつも「次にこれが決まらんかったらヤバイ」そんな風にいつも思ってましたね。大学時代、絶対東京ドームで……という夢を持っていたわけで、それは常に脳裏にあったんですが、その夢がNEWSの「color」というアルバムのツアーでついにかなえることができたんです。そのツアーの東京ドームでのライブに招待してもらったんですが、そこでの最後の曲に「FLY AGAIN」を歌ってくれて……。そのときは、本当に涙が止まらなかったですよ。ついに夢がかなった、ってね。

--ついに大学時代に思い描いた夢がかなったわけですよね。普通なら、もうそれで十分だと思ってしまいますが……。
ヒロイズム:何でですかね……、現実的な話をすると、その夢がかないそうであることが分かってくると、次のことを考えちゃうんですよ。東京ドームの次の目標として、作詞、作曲、編曲すべてを自分らしく表現した作品で1位を取ってみたいという夢が頭に浮かんできたんですよね。何かに迎合するんじゃなく、と。でもその夢は翌年、2010年3月にNEWSの「さくらガール」という曲が叶えてくれました。もちろん、目標を達成できることは、すごく嬉しいのですが、達成するときには、すでに次の目標に向かってしまっているんですよね。そのころから海外を意識するようになってきました。NEWSのプロデューサーでもあった伊藤涼さんから、海外の話を聞いたりして……。

--海外への進出はそのころから考えだしていたんですね!
ヒロイズム:もちろん、ただ海外に行っても相手にされないだろうから手土産が欲しいなと思っていたんです。日本で1位をとっていれば、向こうも多少は時間を取ってくれるだろうという思いもあったのですが、「さくらガール」でそれが実現できたので、いよいよということになってきました。そんな中、本当にたまたまだったのですが、ドイツでライティングキャンプというのがあるから、行ってみないかという話がきたんです。もともと別の日本人作家が行く予定だったんですが、体調不良でドタキャンになり、僕に白羽の矢が。急にドイツなんて言われてどうしよう……とも思ったのですが、これはチャンスだと思い、行く決意をしました。ちょうど海外の人が日本でコーライト(共同制作)で日本の曲を書く時代に入ってきており、伊藤さんからもスウェーデン人とコーライトした…なんてことを聞いてはいたんでね。ドイツのハンブルグにあるレーパーバーンというところだったんですが、行ってみるとアメリカやイギリスから有名なライター、出版社、韓国のソニーミュージックなどもパブリッシャーも扱っている中、ただ一人、日本人として参加しました。お題が与えられて、何人かでチームになって曲を作っていくんです。このレーパーバーンはビートルズが初めてドイツでライブを行ったところなんですが、このときのキャンプはレーパーバーンフェスというお祭りの一環で、ここで作った曲を最終日にライブで披露しちゃうんです。みんな楽器も弾けちゃうから、できるのですが、本当に楽しかったですね。

--以前、Sakaiさんに話を聞いたときも、海外ではライティングキャンプで、数人で共同で制作するのが一般的だと聞きましたが、やっぱりそうなんですね。
ヒロイズム:そうですが、ヨーロッパでもアメリカでも、オーストラリアやカナダでも、ライティングキャンプでの曲作りは一般的です。もちろん、もっと小規模で作るケースもありますが、コーライトという作り方がほとんどだと言っていいんじゃないでしょうか。
 
--実際、そのときのドイツでの成果はどうだったんですか?

ヒロイズム:キャンプで作った曲は何曲かがホールドにはなったものの、残念ながら本採用には至りませんでした。ただ、そのときにいろいろな人たちと出会うことができ人脈ができたのは大きかったですね。そのライティングキャンプの後に、親友のアレックスというドイツ人のスタジオで何曲か一緒に作ったんです。その中の1曲がドイツのテレビドラマに採用されることになり、僕にとっての初のヨーロッパリリース作品になりました。


海外で積極的に音楽活動をするヒロイズムさん 

--ええ!? そんなにトントン拍子で進んじゃったんですか?
ヒロイズム:海外で日本人の曲が採用されるのは難しいといわれていました。また、みんなが口を揃えて「やめたほうがいいよ」と言っていたし、日本の音楽業界では、それは無理だというのが常識にようになっていました。一方で、ヨーロッパに行くと、彼らも「日本のほうがCD市場が大きいんだから日本でやっていたほうがいい、ヨーロッパで活動するなんて理解できない」というようにも言われました。でも、自分としては、1枚も売れなくてもいいからヨーロッパのアーティストに曲を書きたい、海外で戦ってみたいと思ったんですよ。最初はテレビドラマの曲でしたが、その後Queensberryという女の子3人組のガールズバンドで採用されて、リリースされました。さらに、フィンランドで書いた曲がギリシャで決まった。これはHelena Paparizouという女性アーティストだったんですが、実はこれなんか、リリースされたことも知らなくて、Facebook経由でギリシャのオリコンみたいなので1位を取ったことを教えてもらったんですよ(苦笑)。そのほかにも南アフリカでHeuningというアーティストで曲が採用されたり……とだんだん決まるようになってきました。

--じゃあ、最初のドイツでのライティングキャンプの後も何度かヨーロッパに行っていたんですね。
ヒロイズム:やはり最初に行ったときに人脈ができたのが大きかったですね。いろんな知り合いができたことで、呼んでもらえるようになりました。でも、ヨーロッパに行くとみんなロスアンゼルスの話をしているんですよ。デンマークでライター仲間の家に泊まったときも、一緒に飲みに出かけたりするのですが、L.A.に行っても曲を書かせてもらえず、パーティーばかりやって終わっちゃうという都市伝説みたいな話が出てくるんです。そして、みんなL.A.行くなんて無理だよ、それが現実なんだって。そんな話ばかり出てくるので、そのころからひそかにL.A.で勝負してみたい……と思うようになったんです。

--ヒロイズムさんは、どこまでも上昇志向なんですね。普通の人とは規模とか目標の位置が違いすぎますが(笑)。

ヒロイズム:最初のヨーロッパでのリリースから、アレックスには本当に助けてもらったんで、いつか音楽で恩返しをしたいと強く思っていました。そうした中、自分でも絶対的に自信のある曲ができ、ヒットの可能性は高いはず、という読みがありました。そこで、あえてアレンジはバラして、アレックスに参加してもらって一緒に作ったんです。それがMs.OOJAの「Be…」でした。これがテレビドラマ「恋愛ニート ~忘れた恋のはじめ方~」の主題歌に採用されたこともあってヒットしたことで、アレックスもすごく喜んでくれました。実はそのアレックスが先にドイツからL.A.に移住していて、Facebook経由で「いつ来るんだ?」って。

Ms.OOJAの「Be…」が大ヒットに

--それでロスアンゼルスに行っちゃった?

ヒロイズム:すぐ行くよ!」といって数週間後に行ってみたんです。そのときは2週間の滞在でしたが、アレックスのマネージャーがBMGの偉い人だったので、その人に連れまわされる感じで、L.A.で成功した伝説的な人の豪邸などをいろいろ回って見学してきました。これを見てヨーロッパでみんなが言っていた都市伝説的なことがわかりました。すごすぎて圧倒されちゃうんですよね。でも、そのときに紹介してもらった人たちは今でも繋がっていて、僕にとっては重要な人脈になっているんです。それが2012年ですね。それから日本とL.A.を行ったり来たりするようになりました。

--ヒロイズムさんが移住したのは昨年でしたが、もうそのころから行き来していたんですね。
ヒロイズム:行ったり来たりするというのはメリットもデメリットもあります。いいのは、長期間行くので行く前までに絶対仕事を終えるという形をとるため、仕事のけじめがつけやすい点です。でも日本に帰ってくるとJ-POPがよくわからなくなっちゃう。

--L.A.においても、やはりコーライトをしていくわけですか?

ヒロイズム:そうですね、いわゆるキャンプという形ではないけれど、気の合うライターのところで一緒に曲作りをする。そのころは、アメリカに向けて曲を書くことに加え日本用の曲もよくコーライトしていました。そんなとき日本からアーティストも参加してくれると、みんなテンションも上がります。たとえばDa-iCEWHITE JAMの楽曲にはアーティストも参加してL.A.でコライトした曲がいくつかあります。

約1300万PVを達成したヒロイズムさんの作品。Sandra N feat. Blazon – Tu esti norocul 

--そういう場合、どこかのスタジオを借りるわけですか?

ヒロイズム:みんなそれぞれの家に立派なスタジオがあり、機材も豊富にそろっているので、誰かの家に行ってやるわけです。みんな広い家なんで、何人入っても大丈夫という感じですね。10回以上、往復を繰り返していましたが、やはりじわじわとL.A.への移住を決意するようになっていきました。そのときは、人の家に行っていたわけですが、やはり自分でスタジオを持たないとできないこともいろいろあります。何度かやっているうちに、後一歩でアメリカで曲が決まる、というところまでは行くようになったんですが……。やはり、行ったり来たりの中途半端な形では、自分でまだトライできていない何かがあると思うようになってきたんですね。だったら、L.A.に自分のスタジオを構えて勝負してやろうと昨年こっちに来たわけです。その結果、ようやく今回の全米リリースへと漕ぎつけました。かつての自分がそうだったように、いま僕のスタジオには、いろんな人たちがやってくるんですよ。今日もカナダとイギリスから二人来ていて、彼らと一緒にさっきまでアメリカのアーティスト向けの曲を作っていました。こういうのは、やはりこっちに自分のスタジオができないとできません。でも、ホントにみんなやってくるんだな、って(笑)。いろんなことが人間関係で成り立っているんですよね。今回リリースされた曲がどこまで売れるかは、アーティストの展開次第。全米リリースだけでなく、オーストラリアをはじめ世界的にリリースされるので、ある程度の数にはなってくれるはずと期待しているところです。一方で先日ルーマニアでも1曲決まって、YouTubeで1200万PVを達成するなど、少しずつ実績も出てきました。こうしたことは、L.A.にときどき来て作業するのではできなかったことだと思います。トラックづくりそのものに大きな変化があったわけではないけれど、明らかに音が変わったという実感はありますね。

L.A.にて、ヒロイズムさん(左)、Ms.OOJAさん(中)、伊藤涼さん(右) 

--以前、Sakaiさんにインタビューしたときも、低音がまったく違うというように話していましたが……。

ヒロイズム:そうですね。聴こえない音はどうすることもできないけど、ローカットの仕方にはいろいろ違いがありそうです。もちろん音量バランスというのもあるほか、環境の違いというのもあると思います。実際、トラックを作っていても後ろで座ってる彼らの反応を見れば、クールなのかクールじゃないのかというのがすぐにわかりますね。


日本から持って行ったのは数本のギターやベースくらい

--ところで、いまヒロイズムさんは、LogicとPro Toolsを使っているとのことですが、音源・楽器はどうされているですか?

ヒロイズム:こちらに来るときに楽器類は最小限にしたので、エレキギターとアコギ、ベースが1本ずつあるくらいで、あとはほとんどソフト音源です。片っ端から買うので、いろいろありますが、L.A.でのライターってみんな入手がすごく早いんですよ。また日本人が使うのとちょっと違うのも面白いところです。一回流行りが終わって廃れたものを、またちょっとしてから使ったりしていて、その周期が結構早いんですよ。最近はSonic AcademyANAというのが好きでよく使っています。それからUAD全般、またNative InstrumentsKONTAKTは昔から今でもずっと使ってますけどね。シェイカーを振ったり、ギターのボディーを叩いてパーカッションにしたりということは、よくやります。こうしたグルーブは生でとったほうがいい感じになり、ソフトシンセでは出せない雰囲気なんですよね。またギターやベースは録ったあとに、UADのプラグインでリアンプして音を詰めることが多いですね。


ヒロイズムさんのDTM環境。オーディオIFにapollo twinが置かれ、Logic上に多くの音源が立ち上がってる 

 
--それにしても、写真を見る限り、大きくてカッコいいスタジオですよね。
ヒロイズム:ここのスタジオのデザインはWestlake Proというところにお願いして設計・デザインしてもらいました。ここはスヌープドッグやWAVESのプラグインで有名なDave Persadoのスタジオとかの設計も手がけているところなんですよ。

--ところでヒロイズムさんはSakaiさんとも、やりとりがあるんですよね?

ヒロイズム:名前はお互い知っていましたが、もともと日本にいたときは直接的な接点はなく、3年前に初めてお会いしたんですよ。やはりSakaiさんもオーストラリアなど、海外での活動をされていて、共通の知人も多く、お互いに日本人として共通の思いを持っている点も多い。やはりうれしかったのは、自分と同じような考えをもって海外に目を向けている人がいるということ。Sakaiさんが来てくれたおかげで、後輩も少しずつ増えていく。そのSakaiさんとは、LATKO.というL.A.と東京の音楽をつなぐクリエイターチームを組んでいます。ここには、先ほどの伊藤涼さんもディレクター兼エージェントとして入ってもらっているんです。お互い、影響しあいながら、カッコいいものを発信していく。そんな活動をしていければと思っているところです。


LATKO.のウェブサイト 

--これまで、次々と新しい目標を立てて、それを勝ち取ってきたヒロイズムさんだから、すでに次の目標があるんだと思うのですが……。
ヒロイズム:今35歳なので40歳までにはグラミー賞を獲りたいですね。すでに周りの仲間たちはみんなとっていて、今回も友達6人くらいが受賞しているんで、夢物語というわけではないような気がしているんです。もちろん、これから必死でやっていかなくてはいけないのは言うまでもありませんが。まずはその前に、ビルボードでのトップ40に名前が入るようにしたいですね。ソングライター、プロデューサーとして。できれば、これを年内に実現したいと思っているところです。

--そうなると、ヒロイズムさんは日本人でありつつも、すでにアメリカの人となっていくわけですよね……。
ヒロイズム:僕を育ててくれたのは日本の音楽業界です。またこちらに永住するのではなく、最終的には日本に戻るつもりです。そして、僕は日本の音楽業界ですべきことがあると思っているんです。今の世界にある仕組みを日本の音楽業界へ持っていって「今までに無かった何か」を起こしたいな、と。でも、そのためにはブッチギリの結果を出さないと何もできないでしょう。世界で誰もが知るヒット曲を書いて、日本に戻れたら最高かなと思っています。

--これからの活躍、期待しています。頑張ってください。ありがとうございました。
【関連リンク】
ヒロイズム Official Website – ever.y
LATKO.ウェブサイト

(Photography by Jukka Montonen.) 

Commentsこの記事についたコメント

3件のコメント
  • dreamer

    アメリカで音楽活動したい人は山ほどいると思います、トランプになってビザが厳しくなりそうで、夢が遠くなりそうですね、観光ビザでのオーバーステイはもってのほかですが。

    2017年1月31日 8:50 PM
  • 藤本健

    dreamerさん
    ヒロイズムさんに聞いたら、アーティストビザで入っているそうです。そもそも、そんなビザを入手することが難しいとは思うのですが…。

    2017年1月31日 9:52 PM
  • dreamer

    藤本さん、情報ありがとうございます、
    やはりヒロイズムさんほどの実績がないとアーティストビザは下りないでしょうねー、私自身米国に住んでいた頃、実績がないままアメリカに渡って一旗揚げようとする日本人を何人も見てきましたが、ほとんど帰国するか日本食レストランのシェフになるかです、とても壁は高いと思いますが日本で実績を積むのが近道かもしれません。

    2017年2月1日 12:07 AM

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