「放送法案の策定作業始まる」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和22年) NHKでも、CCS(民間通信局)からの示唆を受けて帰るやいなや、すぐさま幹部会議が開かれた。 ファイスナー氏の説明によって「公共放送」としての日本放送協会の存続はハッキリしたが、他方では民間放送設立の道が開かれ、それも遠い将来ではないことが判明したとなれば、その対策も進めなければならない。 それよりも「法律」によってつくられる日本放送協会の骨格が、どのようにして組み立てられるかに多大の関心が集められた。 NHKも、CCSから「逓信省と同席」させられ、新しい放送の基本方針を示され、法案作りまで示唆されたということは、NHKも、その一役を担えといわれたに等しかった。 そこでNHKからも逓信省との連絡役を決めるべきだということになった。 「栃沢君が適任者と思いますが」と古垣専務に提言したのが金川義之庶務部長であった。また、それは衆目の一致するところでもあった。 栃沢助造氏は、戦後の一時、逓信省に在籍していたことがあるが、間もなくNHKに入り、秘書課を経て技術研究所庶務課長に、やがて技術局庶務課長を経て秘書課長、次いで庶務部長、経理局長、理事(松山、名古屋各中央放送局長)、専務理事となった人だ。 NHK退職後、しばらくして売春防止委員会委員などを務めた人で、緻密な上に剛気な気性から特に古垣さんには重用された人だった。だから金川庶務部長の推薦には古垣専務も小松繁理事も即座にこれを採用した。 金川さんという人は、もともとは「加入畑」の人だった。戦後NHKが受信料収入が意の如くならず、財政難にあえいでいたころの加入部長として辛酸をなめた人であるが、金川さんを心から応援されたのは、当時東京逓信局にいた公平信次電波課長らであった。 金川氏は麻雀の名人といわれた人であるが、その金川氏は秘書課長に栃沢氏を選んで、もっぱら逓信省の放送法案作成作業への連絡調整役としたのも奇縁である。 多少話が脇道に外れたが、前述のようなエピソードがあるなかで、逓信省の「電波三法」成案作業は苦難なうちにも順調に進められ、逓信省は最終的な「放送法案」を成案し、これをCCSに提出して総司令部の意向を打診(相談)した。 (第33回に続く)