節分行事は、古くは中国でおこなわれていたものであり、伝来した当初は「大儺(たいな)」と呼ばれていました。
文武天皇の御代(七〇六)に、全国で疫病が蔓延したため、宮中において初めて大儺が執行され、その後、疫病の原因と考えられた鬼(陰)を追い払うために、暦月による十二月晦日におこなわれました。
*大宝八幡宮の御創建は大宝元年(七〇一)で文武天皇の御代、同時期となります。
当時の大儺は、儺人(なひと)と呼ばれる役目の者が、方相氏(ほうそうし)の仮面を付け、桃の弓・葦の矢・戈(ほこ)といった武具を持ち、「鬼やろう」と歓呼しながら目に見えぬ鬼を追うものでした。
やがて大儺から追儺(ついな)へと名称が変わるにつれて、本来鬼を追う儺人が、鬼のような仮面を付けていたため、目に見える鬼として逆に追われるようになりました。
室町時代以降、神社や民間でもこれに倣い、現在のように節分の日に定めて、豆を撒きながら鬼を払い、福を迎える祭事としておこなわれ、今日に伝えられています。
一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べ厄除をおこないます。撒かれた豆を食べると、体が丈夫になり風邪をひかないという習わしがあるところもあります。また、邪気除けの柊鰯(ひいらぎいわし)などを飾ります。これらは、地方や神社などによって異なります。豆は、「穀物には生命力と魔除の呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」とするそうです。年男・年女が豆まきを担当することが多いです。年男・年女とは、生まれた十二支の年を迎えた男女です。年男・年女は、満年齢で数えるので12歳で初めての年男・年女を迎え、その後も十二年に一度廻ってきます。年男・年女は、年神様のご加護をより多く受けることが出来るとされ、縁起の良い年となります。年男・年女と厄年が同時期(男性の24歳や還暦)になることがあり、混同されることがありますが、厄年は数え年であり別物です。数え年は、生まれた時が1歳で、年が明けたら年齢をひとつ重ねる数え方です。2017年10月に生まれた赤ちゃんは、その時点で1歳。そして2018年元日にひとつ歳を重ねて2歳です。生後2、3ヵ月で2歳となります。
節分の日(ほぼ2月3日固定)に昼の部と夜の部の2回おこないます。昼の部は、14時から拝殿にて神事がはじまり、最後に神楽殿より撒豆行事をおこないます。豆の他紅白餅や菓子・即席麵などが撒かれます。夜の部は19時からとなります。夜の部では、大相撲高砂部屋の高砂親方も撒豆行事司を努めます。
※令和3年の撒豆行事は中止。拝殿での神事のみ斎行。
恵方巻、恵方巻き(えほうまき)とは、節分に恵方を向いて無言で食すると縁起が良いとされる巻寿司のことです。恵方は毎年変わるのでご確認ください。大阪発祥の風習といわれていますが、1980年代まで大阪市内でも知名度は無くその起源の定説は未だ存在しないようです。「恵方巻」という名称は、大手コンビニエンスストアが仕掛けたといわれ、現在は関東でもコンビニやスーパーなどで広く販売されています。「幸運巻寿司」「恵方寿司」「招福巻」などとも呼ばれます。
一年を二十四に分ける節気のうち四季の節目を指す立春・立夏・立秋・立冬のうち、特に冬(陰)から春(陽)に移り変わる立春が、節気による正月節として重視されたため、一般的には立春の前日を節分と呼んでいます。節気と旧の暦月では差異があり、旧暦でみると、十二月中旬から一月中旬までの時期に節分が廻ってきます。また現行暦によると二月三日、四日がこれに当たり、全国的にこの日に一年間の無病息災を祈る節分行事がおこなわれます。