明治時代の髪型2<br>前髪の変化、廂髪の登場と二百三高地髷 | ポーラ文化研究所
ポーラ文化研究所ポーラ文化研究所
ポーラ/オルビス ホールディングス
JP|EN
JP|EN
Search
Close
化粧文化 COSMETIC CULTURE
お化粧ヒストリー

明治時代の髪型2<br>前髪の変化、廂髪の登場と二百三高地髷

027

明治時代の髪型2
前髪の変化、廂髪の登場と二百三高地髷

2021.10.14

明治18年に提案された新しい髪型「束髪」。日本髪と共存しながら、流行のスタイルが次々と登場し、昭和初期頃まで日本中の女性に親しまれていきます。

束髪の一種で明治35年頃に流行したのが、前髪が特徴的な「廂髪(ひさしがみ)」。その名の通り、前髪が建物の廂のように大きく張り出しています!入れ毛や芯を入れてボリュームを持たせるこの髪型は、まず明治35~36年頃に女学生の間で流行しました。

明治37年には日露戦争が勃発。激戦地であった二百三高地を奪取した同年12月と廂髪の流行が重なったことから、この時期には髷を頭頂部で高く結い上げ、前髪を廂髪にする髪型が「二百三高地髷」と呼ばれるようになります。二百三高地髷は和装にも洋装にも似合うとして夜会などでドレスを着る必要があった裕福な妻女をはじめ、女中や子守の女性たちにも広がりました。

日本髪よりも簡易に結えて軽快、衛生的で経済的であることが特徴だった束髪ですが、廂髪のように技巧的で大ボリュームの髪型が登場。日本髪と同じようなお手入れが必要、頻繁な結い直しも難しいということで、当初の束髪の条件として掲げられた「衛生的で経済的である」髪型とはかけ離れてしまいました。当時の雑誌では「実用を無視、美観に重きを置いている」とも評された廂髪は、大正時代まで結われ続けます。

新橋・菊三升の栄龍 明治時代新橋・菊三升の栄龍 明治時代

  一覧へ戻る  

この記事のタグから他の記事を検索できます

最新の記事

上へ