ふるさと発見 その6「もう一つの農産物(のうさんぶつ)-亜麻(あま)」
伊達市に住むわたしたちが知っていそうで知らない歴史(れきし)や裏話(うらばなし)を生涯(しょうがい)学習(がくしゅう)課(か)文化財(ぶんかざい)係(かかり)がシリーズで紹介(しょうかい)します。
もう一つの農産物(のうさんぶつ)-亜麻
温暖(おんだん)な気候(きこう)で肥沃(ひよく)な土地(とち)が広がる(ひろがる)伊達市では、明治(めいじ)時代(じだい)から農産物の生産(せいさん)が盛ん(さかん)に行われ(おこなわれ)ています。
最近(さいきん)では多様(たよう)な野菜(やさい)が生産(せいさん)され、市内(しない)はもちろん、道内外(どうないがい)の方にも喜ばれて(よろこばれて)います。
一方(いっぽう)、明治時代には工業(こうぎょう)製品(せいひん)としての農産物も作られていました。それが「麻(あさ)」の栽培(さいばい)です。
明治初期(しょき)には漁網(ぎょもう)を自作(じさく)するために大麻(たいま)を栽培していました。
また、開拓史(かいたくし)が換金(かんきん)作物として奨励(しょうれい)したこともあり、とても多く(おおく)生産されていたことが記録(きろく)に残って(のこって)います。
中でも栽培は長流川(おさるがわ)流域(りゅういき)で盛ん(さかん)に行われた(おこなわれた)ため、現在(げんざい)でも北海道(ほっかいどう)電力(でんりょく)伊達発電所(はつでんしょ)前の道路(どうろ)は「麻畠(あさはた)線(せん)」と呼ばれて(よばれて)います。
しかし、開拓史(かいたくし)が廃止(はいし)された明治15年以降(いこう)は、価格(かかく)の下落(げらく)が続き(つづき)、大麻の生産(せいさん)は一旦(いったん)終息(しゅうそく)を迎え(むかえ)ます。
その後(そのご)、明治20年に北海道製麻株式会社が設立(せつりつ)され、大麻に変わり「亜麻」の需要(じゅよう)が高まった(たかまった)ことで再び(ふたたび)生産されるようになり、明治26年頃から作付(さくつけ)面積(めんせき)は再び急増(きゅうぞう)します。
さらに日清(にっしん)戦争(せんそう)の戦需(せんじゅ)景気(けいき)も手伝って(てつだって)、主要(しゅよう)な農作物として台頭(たいとう)していきました。
女学生の戦時動員
写真(しゃしん)は明治時代の亜麻工場で働く人々の姿(すがた)を写した(うつした)ものです。山のように積み(つみ)重なった(かさなった)亜麻の出荷(しゅっか)風景(ふうけい)から、生産量が多かったことがうかがえます。
また戦時中(せんじちゅう)は女学生も亜麻工場に動員されました。
やがて、安価(あんか)で高機能(こうきのう)な化学(かがく)繊維(せんい)が世に出てくると、亜麻は一気(いっき)に需要(じゅよう)が落ち込んで(おちこんで)しまい、ついに昭和39年に伊達亜麻工場は閉鎖(へいさ)になりました。そしてこの地での亜麻生産はすっかり途絶える(とだえる)のでした。