どうして北海道に?
1868年は日本の国が大きく変わった年でした。これまで、徳川幕府を頂点とする武士が日本を治めていましたが、これからは政府が日本を治めることになったのです。
しかし、何百年も武士が治めていた社会でしたので、それに反対するグループと賛成するグループとで大きな戦争が起きました。
この戦争では、仙台藩の伊達家は徳川家を中心とする幕府軍に仕え、政府による政治を進める政府軍と戦うことになりました。この戦争は「戊辰戦争」と呼ばれています。
この戦争は、結果として政府軍の勝利に終わり、幕府軍は負けてしまいました。
早速、政府は旧幕府勢力の解体に乗り出します。まず敗戦側の藩の領地を取り上げたり、石高(藩のお金や財産)を取り上げたりしました。
仙台藩は六十二万石から二十八万石に減らされてしまい、藩主慶邦は隠居として東京に住むことになり、仙台藩は亀三郎(三歳)が跡を継ぐことになりました。
領主邦成公の決断
伊達の地に初めて開拓の鍬を入れた伊達邦成公は、伊達政宗の大叔父伊達実元を始祖とする仙台藩一門、亘理伊達家の十五代目当主です。
北海道に渡ってくる前は、今の宮城県亘理町の一帯を治めていました。
ではなぜ北海道に渡ってきたのでしょうか?
戊辰戦争に負けた仙台藩は、その家禄を六十二万石から二十八万石に削封されましたが、亘理伊達家も同様に二万四千石余からわずか五十八石に減らされてしまい、領地は南部藩の支配となりました。
もし、このまま亘理の地に住み続けるには南部藩の農民となるしか方法がないという厳しい状況に追い込まれてしまいます。
悩む邦成に、家老の常盤新九郎(後の田村顕允)は、「このままこの地にとどまり祖先の名を汚すより、みんなで蝦夷地に移住し、新しい町を作りましょう」といいました。
邦成は、問題がたくさんあるけれど、蝦夷地への移住を決意したのです。
有珠郡支配の命を受ける
早速、常盤新九郎は明治2年8月、上京して亘理伊達家が自費で蝦夷地に移住して開拓することを政府にお願いしました。
政府も、早く蝦夷地を開拓することが必要だと考えていたので、賛成してくれました。
そうして邦成は新しく胆振国有珠郡の一帯の土地をもらい受け、本格的な移住開拓に乗り出すことができました。
移住を決める
9月18日、邦成は亘理伊達家の菩提寺である大雄寺に家臣を集め、有珠郡一帯の開拓許可を国から受けたことと、それにむけての決意を発表しました。
家臣は、涙を流して二度とこの土地へ帰らないと覚悟したと伝えられています。
伊達市では、開拓の許可が出た明治2年8月23日を開基の日と定めて、毎年この日を開基記念日としています。
再興の夢を託して
10月、邦成は実際に移住先の土地を見るため有珠郡を訪れました。
海に面していて、木がよく生い茂るこの土地が豊かであると考え、ここを開拓の中心地にすることを決めました。
住み慣れた亘理と同じくらい良い町をもう一度作るという大きな夢をもって、明治3年から武士の集団移住は始まりました。