縄文文化
北黄金貝塚の竪穴住居
現在の伊達市にはいつ頃から人々が住み始めていたのでしょうか。
市内では縄文時代の遺跡が数多く発見されています。
最も古いもので6,000年から7,000年前の縄文時代初期の遺跡があるため、このころから縄文人が住んでいたことがわかります。
その中でも、史跡北黄金貝塚は7,000年から4,500年前の遺跡で、貝塚やお墓、水汲み場などが見つかっています。
貝塚やお墓から当時の生活の様子を探ると、縄文人が噴火湾(内浦湾)の豊かな海の幸と山の恵みに育まれた生活をしていたことがわかります。
当時の様子を再現している北黄金貝塚情報センターでは、発掘された土器や石器を見ながらより詳しく学ぶことができます。
北黄金貝塚情報センターの詳しい内容は、こちらをご覧ください。
アイヌ文化
刀の鞘に彫られたアイヌ文様
アイヌ文化は、今から800年ほど前には成立したと言われています。
伊達市内にもアイヌ民族の村(コタン)が多くあり、特に現在の有珠地区は大きなコタンだったことが古文書に記されていて、人々の生活は噴火湾でとれる海の幸に支えられていました。
やがて本州から来た和人との交易が盛んになると、「有珠会所」という交易のための施設が作られ、オットセイの皮や昆布、干し魚と交換に米や酒、漆器や金属器を手に入れていました。
一方で有珠地区は、1663年、1822年、1853年と有珠山の噴火に度々襲われ、火山灰が畑をすっかり埋めてしまうほどでした。
また、1640年には噴火湾対岸の駒ヶ岳が噴火、山が崩れたために津波が発生し、有珠地区のコタンにも大きな被害を与えたことが発掘調査でわかっています。
しかし、このように火山の影響を何度も受けつつも再び人々が戻って生活しています。
その理由は、温暖な気候風土と海の幸が豊かな有珠湾があったためと考えられています。
明治時代の開拓
だて歴史文化ミュージアム所蔵の雛人形
明治時代以降の急速な近代化に伴う北海道各地の開拓事業は、本州、四国から移住した多くの人々によって支えられてきました。
伊達市も例外ではなく、現在の宮城県南部に位置する亘理町からの集団移住によって開拓されたまちです。
この集団移住を指揮したのが亘理伊達家15代伊達邦成です。
亘理伊達家は戦国武将の伊達政宗と共に活躍した伊達成実が先祖です。
戊辰戦争が勃発すると、仙台藩主伊達慶邦は奥羽越列藩同盟の総督になりました。
しかし戦いに敗れ、その報復として、仙台藩は大幅に領地を没収されました。
これに伴い、亘理伊達家の家禄もほとんど失う事態に陥ってしまいました。
このままでは生活していくことができなくなり、伊達邦成は新天地を求め、北海道移住の許可と開拓地の割り当てを明治政府へ願い出ました。
そして、明治2年8月に胆振国有珠郡(現在の伊達市)の開拓が許可されることになりました。
しかし、明治政府から移住費用や開拓に要する費用の支援は一切なく、伊達家は先祖伝来の宝物や装飾、装身具の類まで売り払って移住費用を捻出しなければなりませんでした。
移住は明治3年から14年までの間に9回行われ、総勢約2,700人が移住しました。
伊達邦成は、既にアイヌの人々の集落がある有珠地区周辺ではなく、あえて未開拓の原野から開拓を始めました。
その際アイヌの人々に対して、常に礼節を重んじること、騙したり彼らの馬を無断で使用したりしないこと、そして住宅にみだりに立ち入ってはいけないという規則をつくり、家臣らも忠実にそれを守りました。
そのため、争いは一切なく、アイヌの人々も、親切に天候や土地の状態、山菜などの食べ物を教えたほか、常に開拓を手助けしてくれたのでした。
大滝区の開拓
大滝区は平成18年に伊達市と合併しました。
大滝区は海岸から内陸に30キロメートルほどに位置し、周囲を山に囲まれ、寒冷な気候で積雪が多く、国の特別豪雪地帯に指定されています。
まちの中央をほぼ南北に長流川が流れ、その流れは噴火湾に達し、河口は伊達市にあります。
噴火湾周辺ではアイヌの人々が集落を形成し、豊富な魚介類を得て生活していましたが、大滝区では1軒の住居跡と狩猟目的で一時的に夜露をしのいだ洞窟以外は定住生活の痕跡は見つかっていません。
そのため、明治27年(1894年)に永井五郎兵衛氏が初めて入植したのが村の開基とされています。
本格的な開拓は、明治30年に制定された北海道国有未開地処分法で詳細な地形図が作られ、分譲区画が整備されたことに始まります。
これは、開拓移住者は希望する区画の土地を無料で借り受け、定められた期限内に開墾が完了するとその土地を無償でもらえる制度のことで、個人の開拓者だけでなく企業による大規模な開墾事業を呼び込むことになりました。
その結果、徐々に本州からの開拓移住者が増え、明治末期から大正初期には学校や商店が建ち始めました。