北海道の歴史 | 伊達市噴火湾文化研究所

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北海道の歴史

時代と文化の呼び方

文化と時代の区分表の画像
 
南北に長い日本列島の歴史では、列島全体が1つの文化でまとまっていた時代と地域ごとに異なっていた時代がありました。
旧石器時代から縄文時代までは北海道から沖縄までほぼ同じような文化の内容だったといえますが、約2,500年前にはじまった弥生時代からは、北海道の「北の文化」、本州・四国・九州の「中の文化」、そして琉球諸島の「南の文化」と3つに区分されるようになります。
例えば北海道は、弥生時代以降になると「続縄文文化」や「擦文(さつもん)文化」、「アイヌ文化」のように本州とは異なる文化の名前で呼ばれます。
これは本州・四国・九州が水稲農業を行い「農耕社会」になったのに対して、北海道は縄文時代と同じ「狩猟・漁ろう・採集」を行う生活を続けていて、それぞれ別の名前になるほど文化が違っていたからです。
また、北海道は日本列島の北端にあるため、より北方のサハリンや沿海州の人々とも交流がありました。例えば、北海道の東部には「オホーツク文化」と呼ばれる北方から来た人々が伝えた文化がありました。このような北からの影響はより一層本州との文化の差を際立たせるものでした。
しかし、文化が異なっていても、本州と北海道の人々が交流しなかったわけではなく、むしろ自分の文化にない物を他の地域から手に入れることをお互いにしていました。このように北海道では、生活の基本を「狩猟・漁ろう・採集」とし、文化的には周辺の人々との交流から影響を受けた結果、独自の文化が育まれていきました。

北海道の歴史の特徴

小野潭筆「有珠に到着」の画像
 
北海道の歴史の特徴の1つは、本州・四国・九州が農耕社会になった後も、狩猟・漁ろう・採集の暮らしが続いたことです。このことが、後の北海道の歴史を本州とは異なるものにしたといえます。
2つ目は、現代につながるアイヌ文化の歴史の存在です。アイヌ文化は、縄文文化が徐々に変化した続縄文文化や擦文文化の内容を受け継ぎつつ、交易や雑穀農耕など新たな要素を取り入れた文化です。
そして現代のアイヌ文化は、神様(カムイ)への祈りを捧げる儀式や、口伝えで残された物語で、アイヌ民族の思想や世界観を今に伝えています。
3つ目は、北海道開拓の歴史があることです。明治時代になると士族の集団移住や屯田兵の開拓が行われ、本州各地から北海道に人々が入ってきました。
それまで、本州から来た和人は、主要な村に商人や僧侶がいたほかは、渡島半島南部の和人地に住んでいました。つまり、北海道の大部分はアイヌ民族が住む土地でした。
北海道開拓の歴史の中では、和人とアイヌ民族の間のトラブルや、アイヌ民族への差別があったことは確かです。その一方で、亘理伊達家の開拓移住に際してはアイヌの人々の手助けがあったことや、当主であった伊達邦成が家臣に対して「アイヌの人々を尊重すべき」との内容の規則を作るなど、良好な関係を築いた地域もありました。
伊達市内の縄文時代から近代までの遺跡や出土品、だて歴史文化ミュージアムに展示している古文書や武具甲冑、美術工芸品などは、この北海道の歴史の特徴をすべて説明できる内容を含んでいます。
これらは単に地域の歴史に留まらず、北海道史や日本史の中に位置づけられる重要な意味を持っています。

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