映画には清水尋也、間宮祥太郎、板垣瑞生の三人のハンサムな俳優が出演し、主人公は原作少女漫画の物語をなぞりその三人の間を揺れ動くのだけど、でもこれはスクリーンには一度も登場しない、山戸結希監督と堀未央奈の二人きりの相棒映画、バディフィルムなんだと思う。豊洲の公団住宅周辺の風景から始まり、関東から出ることなく公団住宅で終わっていくこの映画をロードムービーと呼ぶのは映画の定義上たぶん間違っているんだろう。でも堀未央奈が演じる成田初は、映画の中で長い長い心の距離を旅する。これは移動の映画である。
相原実貴による原作少女漫画『ホットギミック』は2000-2005の間に連載され、累計450万部を売り上げた大ヒット作である。王子系、ドS系、呼び方はともかく、「お前、おれの奴隷になれ」という橘亮輝:清水尋也のセリフが象徴するように、内向的で自己肯定感の薄い少女が華やかで横暴で美しい少年たちに欲望される、少女漫画のひとつの潮流となるジェンダーロールをそのエンジンに持っている。
上智大学文学部哲学科を卒業した弱冠30歳の山戸結希監督は、明らかにフェミニズムの要素をその作品の中に常に持っている。インタビューで「まなざすものとまなざされるもの」について語る、きわめて作家性の強い映画監督の一人である。
フェミニスト映画監督がジェンダーロール的少女漫画を脱構築する、というわかりやすいラインでこの映画を撮影すれば、批評家受けはしやすかったと思う。秋元康の下で乃木坂46の人気メンバーをつとめる堀未央奈に、原作の少女漫画とアイドル幻想をバッサリ切るようなセリフを割り振ることは山戸結希監督の素養からして難しくはなかったはずだし、秋元康というプロデューサーはそういう自作自演的な批判的演出をむしろ好む。新進気鋭のフェミニスト監督として山戸結希監督の名もさらに上がっただろう。そうすることはたやすかったはずである。プロデューサーと映画監督のWIN-WINのゲームに消費され取り残され、これからもアイドルを続ける堀未央奈のことさえ考えなければ。でも山戸結希監督は、この映画をそのようには撮らなかった。
今年、山戸結希監督は『21世紀の女の子』という短編映画オムニバス企画を自らプロデュースして成功させている。山戸結希監督自身を含む15人の若手女性映画監督に「ジェンダーの揺らぎ」というテーマを与えたこのオムニバスには、言うまでもなく『ミューズ』のようなフェミニズムをバックボーンにした作品がいくつもある。しかし同時に、『I Wanna Be Your Cat』のような非フェミニズム的作品、場合によってはアカデミックな意味でのフェミニズムの定義と真っ向からぶつかる作品も内包されている。
山戸結希監督は『21世紀の女の子』のプロデューサーとして、フェミニズム的な感性と非フェミニズム的な感性を「ともに女の子のもの」として包摂しているわけだけど、『ホットギミック ガールミーツボーイ』(原作にはないガールミーツボーイというフレーズは、タイトルバックでボーイミーツガールから主語が入れ替わるホットなギミックで表示される)という映画の中で、山戸結希監督はいわば一人で『21世紀の女の子』の矛盾、フェミニズムと非フェミニズムを一作の中に投入している。それは「非フェミニズム的な恋愛女子がフェミニズムに触れて正しい女性になる」という啓蒙的な物語の形式をとらない。哲学科出身のフェミニスト映画監督がものを知らない主体性なく消費されるアイドルに正しいフェミニズムを教えてあげる、という主従の関係を取らない。映画の中で山戸結希監督はある時は堀未央奈に教え、ある時は堀未央奈に学ぶ。ある時は「私の話を聞いてほしい」と堀未央奈にささやき、ある時は「あなたの話を聞かせてほしい」と堀未央奈につぶやく。『48時間』や『ズートピア』がそうであるように、これはフェミニスト映画監督とアイドル女優という相反する価値観の中に生きる二人が120分間映画という手錠につながれ、閉ざされた場所からの脱出を試みる映画、バディフィルム、相棒映画と呼ばれるジャンルの映画である。
当然のように映画は混乱する。それはまるで2リットルのペットボトルにメントスを放り込んだような沸騰である。主人公の少女、成田初はある時は従順に橘亮輝に従い、ある時は原作にはない激しさで反論する(非常階段で清水尋也に食ってかかる堀未央奈の演技はなかなかのものだと思う)。原作の時代になかった自撮りの性被害と、少年への消えない恋心が並列で語られる。観客や批評家にわかりやすく整理することもできたはずだが、映画は青春の混乱をそのまま撮影するように未整理に、未完成に、まるで未編集であるかのように流れる。このフェミニズムと非フェミニズムのカオスを撮影した映像を未編集で流す感覚は、大きな話題を呼び今もロングランしている『愛がなんだ』にも通じていると思う。
主演の堀未央奈が所属するアイドルグループ、乃木坂46は不思議なグループである。それは当初、秋元康のプロデュースによって明らかに「男の子向け」に特化して企画された、等身大のAKBら「48系」に対し、清楚系美少女だけを選抜して作られたアイドルになるはずのグループだった。それは今も残る『お見立て会』という、アグネス・チャンが聞いたらデルタフォースを投入しそうなネーミングのイベントにもその名残がある。(お見立てとは吉原遊郭で使われた言葉である)しかしある時から、このグループのコンセプトは奇妙に揺らぎ始める。2作目のシングル『おいでシャンプー』の中でメンバーが曲の間奏でスカートをめくりあげて踊る振付に対して、当時まったくフェミニズムに親和的でなかった匿名ネット掲示板を中心に、乃木坂のファンからは激しい反発と運営に対する批判が巻き起こった。それは日本のアイドル史の中でも特筆に値するような奇妙な現象だったと思う。ポリティカルコレクトやフェミニズムという言葉がほとんど使われないまま(当時知らないファンがほとんどだったと思う)、抗議は大きく膨らみ、ついには秋元康がソニーの担当者を叱責し振付が取り消される(むろんその責任回避は大いに失笑を買った)という顛末で幕を閉じる結果になった。
今、各地のドームを埋め尽くす乃木坂ファンの女子率はすさまじく高い。ツイッターでは秋元康以下運営を心底憎みながら、それでも生田絵梨花や齋藤飛鳥がまるで自分の中の何かを象徴する大切なイコンであるかのように彼女たちの行く末を見守る、きわめてフェミニズムに親和性の高い女性ファンのツイートがいくつも流れてくる。乃木坂46は本当にいつの間にか、そういうグループになってしまったのだ。まるで温泉宿で男性客のための余興として始まった宝塚の客席を長い歴史の中で少しずつ女子が占拠していき、やがて男性の宝塚ファンが遠慮がちに観劇するようなるプロセスの途中のように。あるいはそれは程度の差であって、平手友梨奈を要する欅坂46はもちろん、48系やほかのアイドルグループにもいつの時代も静かに起きていることなのかもしれない。
『ハルジオンが咲く頃』で乃木坂46のMVを監督した山戸結希は、サブカルチャーの中に隠されたそうしたパラドックス、フェミニズムと非フェミニズムが二重螺旋構造のようにからみあう文化の神秘におそらくは気が付いているのだと思う。少女漫画のジェンダーバイアスを規制するガイドラインを作ろうという先日話題になったコンセプトとは真逆のアプローチで、山戸結希監督は堀未央奈と、そしてもう20年近くも前に描かれ今も生き続ける原作と対話する。フェミニスト監督とアイドル女優は、フェミニズムとジェンダーロールの二つのパワーの間で背中を合わせながら、その包囲網の切れ目を探しているかのように見える。それは『ボニーとクライド』というとても古いアメリカンニューシネマを思い出させるし、その映画で描かれる二人についてマーシーが歌ったある歌を思い出させる。
その歌は『RAW LIFE』というアルバムの中で『こんなもんじゃない』というタイトルの楽曲として収録されているのだけど、この映画を見ながら僕が思い出していたのは、おそらくはその前身となった『ボニーとクライドのうた』というネットでしか聞くことのできない未発表テイクである。なぜそんなものがネットに流れているのかはわからない。でもそのブートレグ、海賊版の未完成な歌詞は、未完成なこの映画にとてもあっている気がする。
「ボニーとクライドの歌」
今夜ボニーとクライドが この部屋にやってくる
すかした帽子をかぶって 娼婦のほほ笑みを浮かべ
冷蔵庫にはビールもあるし 安いチーズも少しはある
今夜ボニーとクライドが この部屋にやってくる
いいかい坊主教えてやろう 豚の自由に慣れちゃいけねえ
あんたが思うよりずっとずっと 人は自由でいるべきだ
水の上を跳ねていく 小石みたいな生き方
びくびくしているよりはずっと ましだとクライドが言う
人は嘘をつくときには 必ず真面目な顔をするの
そんな太宰治のようなことを ボニーは真面目な顔で言う
確かに本当に見えたものが 一般論にすりかえられる
確かに輝いて見えたものが ただのきれいごとに変わる
ドアの外では悪意が吠える 窓の外では敵意が笑う
優しさの時代だってさ いったい誰がやさしいんだ?
優しさと言うよりも 違うな それは違うだろう
嫌な奴だと言われたくないから 仕方なくそうしてるんだ
今夜ボニーとクライドが この部屋にやってくる
今夜ボニーとクライドが この部屋にやってくる
『ホットギミック ガールミーツボーイ』はたぶんあともう少し、ほんの何週間だけ映画館で上映される。その期間はたぶん長くない。ロングランする商業映画としてパッケージされていないこの映画はマーシーが歌う通り、水の上をはねる小石のように不安定だ。でもびくびくしてりいるよりはましだと山戸結希監督も、たぶん堀未央奈も言うだろう。人が思うよりずっとずっと、映画は自由でいるべきなのだ。