2018年4月号 [Vol.29 No.1] 通巻第328号 201804_328004
世界の大気中メタンの同位体比データは統合できるのか?
メタンは重要な温室効果ガスであり、地球上でどの程度の量のメタンがどこから出てどこへ消えるのか、というメタン循環の研究が精力的に行われてきた。そのなかでも、重要な観測的証拠を提示してきたのが、メタンの同位体を利用した研究である。メタンは、排出源によって特有の同位体比を示し、また消滅過程によっても特有の同位体分別[1]が起こるため、排出源や消滅過程を特定するための情報が得られるからである。実際、筆者は東北大学での博士論文の研究として、大気中メタンの同位体比を測定し、メタンの全球収支の研究に取り組んだ[2]。メタンの排出源は地球上に広く不均一に分布するため、全世界の研究機関が取得するデータを組み合わせて観測データのカバー領域を広げ、全球の情報を最大限引き出す統合的解析が望まれる。このため、大気中メタン濃度の観測データを利用した大気化学輸送モデルによる解析には、各国の観測を統合したデータベースが用いられている[3]。この時に肝心なのは、各研究機関の測定が参照する標準スケールの透明性(トレーサビリティ)、そして、異なる標準スケールが流通していても両者の関係性(補正係数)が相互比較を通して確立されていることである。これによって、別の研究機関の測定データであっても、統合データセットの一部として扱うための実用性が保証される。これを本稿ではデータの「統合性[4]」と呼ぶこととする。さて、メタンの同位体比測定は、各国の研究グループが独自の技術開発のもとで取り組んできた。この結果、どの研究グループについても測定データの統合性の評価は不十分であり、現在、実用的に利用可能なメタン同位体比の統合データは存在しない。特に筆者にとっては、自身の取得した測定データをより広く活用し、また世界の他の研究者に活用されるためにも、海外の研究グループとの相互比較を通した統合性の評価は、博士論文研究以来の悲願であった。
そもそも、メタンの同位体比の測定は非常に厄介かつ複雑な分析手法に頼っている。すなわち、大気中のメタンを濃縮・分離し、CO2へと酸化した後、同位体比質量分析計で炭素同位体比を測定する[5]。このような測定技術は、各国の研究グループが既製品に改良を加えながら独自に発展させてきたため、標準化された分析手法が確立されているわけではない。さらに、国際標準スケールに対してトレーサビリティを確保する手法が研究グループによって異なることが問題となった。メタンはCO2に変換して同位体比質量分析計に導入するのが標準的だが、この測定にあたっては、国際標準スケール(VPDB(Vienna Peedee belemnite)スケールが統一的に利用されている)に準拠する必要がある。VPDBスケールの国際標準試料は、炭酸塩などの固体であり、これを原料にして生成させたCO2を上述のメタン由来のCO2と比較することで、各研究グループはVPDBスケールへのトレーサビリティを確保する。つまり、メタンの炭素同位体比の決定には幾段もの化学的調製が必要だが、そのほぼ全てのステップで確立された手法が存在せず、かつこれらの化学過程においては同位体分別が起こる可能性がある。したがって、異なる研究グループの測定データを組み合わせてどの程度の統合性が確保できるのかは全くの未知数であった。ただし、これは限られた研究資源を駆使して各研究グループが技術的挑戦を続けてきた結果であり、何ら責めるべきことではないことは強調しておきたい。このような複数データ間の統合性が大きな課題となったのはごく最近のことである。
さて、筆者はドイツの研究所在籍時に、縁のある研究グループを繋いで、メタン同位体比測定の相互比較に着手した。この相互比較データによって、複数の研究グループ間で測定データの統合性が見えてきたが、さらに文献調査を進めると、相互比較結果をより総合的に取りまとめることができれば、全世界で大気中メタンの同位体比測定を実施している全ての研究グループについて、測定データの統合性を評価できるのではないか、との展望が見えてきた。そこで、共著者と議論の末、「複数の研究グループによる相互比較の研究報告」というスタイルを大きく脱し、「世界中全ての関連研究グループを巻き込んだ研究コミュニティ総出の成果」として論文をまとめる方向へと踏み出した。大気中のメタンあるいは氷床コアから抽出した過去大気中のメタンの炭素および水素の安定同位体比を公表した世界中の研究グループにコンタクトを取り、研究チームへの参加と未公表の相互比較データの提供を呼びかけ、各グループの測定データのトレーサビリティの情報、ならびに多数の公表済み・未公表の相互比較を整理した(図1、8カ国の16研究機関が参加)。いずれの研究グループからも驚くほど好意的な協力が得られ、筆者の悲願として始まった本研究の狙いは、世界の多くの研究グループにとっても待望のものであったことが明らかとなった。何より評価すべきことは、各研究グループ「秘伝」の高度な測定技術や課題の情報が、今回の研究を通して広く研究コミュニティに公開・共有されたことである。これを機に、より組織的なメタン同位体の相互比較の計画も大きな進展を見せつつある。
本研究の成果を、炭素同位体比について図2にまとめた。この図は、これまでに様々な研究グループ間で個別に行われてきた相互比較と本研究で実施した相互比較を総合的に評価した結果であり、各研究グループの測定データに与えるべき補正値(系統差)を示している。すなわち、この補正値を用いることで複数の研究グループの測定データを組み合わせた統合解析が実用上可能となる。この成果は、今後メタン同位体の統合データセットを作成し、大気化学輸送モデルなどに積極的に利用してゆくための足がかりといえる。ただし、今回明らかになった研究グループ間の系統差の技術的原因については不明な点が多く、その追究は今後の課題として持ち越された。時機を同じく、国立環境研究所でもメタンの炭素同位体比の測定に着手した[6]。今後、各国の研究グループと共同しながら統合性を確保した測定データの取得を進めることで、世界のメタン研究に価値ある貢献ができるようになるだろう。
脚注
- 異なる同位体を含む分子種(たとえば12CH4と13CH4)の間で物理化学過程の進行速度が異なるために、その過程の前後で同位体比が変化すること。
- 地球環境研究センターのシベリア航空機モニタリングやCONTRAILを含む日本国内のプロジェクトと共同で観測研究を実施した。
- たとえば、「大気化学輸送モデルを用いた新たな手法により地域別のメタン放出量を推定〜熱帯域、東アジアの放出量に従来推定と異なる結果〜」(http://www.nies.go.jp/whatsnew/2016/20160201/20160201.html)
- 「統合性」に関連して、世界の大気観測の研究コミュニティで近年頻繁に使われる単語としてcompatibilityが挙げられる(和訳は定まっていない)。複数のデータセットの系統差がある不確かさの範囲内にある場合、これらのデータはcompatibleと考えられ、該当するデータは同一の測定量を表していると見なすことができる。ただし、系統差が明らかであれば、compatibleでないデータであっても、一定の不確かさのもとで統合データセットの一部として実用的に扱うことができると考えられる。このため、本稿での「統合性」はcompatibilityよりもやや広い意味をもっている。本稿では、各データセットのトレーサビリティを明らかにした上で、研究グループ間の相互比較を通して系統差を明らかにすることを統合性の評価と呼んでいる。
- ここでは炭素同位体比について記述するが、本文の記述はメタンの水素同位体比についても同様に当てはまる。水素同位体比の測定では、メタンを濃縮・分離した後、最終的にH2へと変換して同位体質量分析計に導入する。
- 伊藤昭彦「東アジア地域はどのくらいメタンを放出しているか? 環境研究総合推進費2-1710『メタンの合理的排出削減に資する東アジアの起源別収支監視と評価システムの構築』」地球環境研究センターニュース2017年3月号
本研究の結果は、2018年3月2日にAtmospheric Measurement Techniquesに掲載されました。
- 発表論文
- Umezawa T., et al. (2018) Interlaboratory comparison of δ13C and δD measurements of atmospheric CH4 for combined use of data sets from different laboratories. Atmos. Meas. Tech., 11, 1207–1231, doi.org/10.5194/amt-11-1207-2018.