- 会社の出来事
- 製品に関する出来事
創業期
1946(昭和21)年4月
1946(昭和21)年4月
1954(昭和29)年12月
1957(昭和32)年6月
1957(昭和32)年6月
1957(昭和32)年12月
「14-A」を総代理店の(株)内田洋行に納入
1959(昭和34)年5月
技術用リレー計算機「14-B」発売
1960(昭和35)年4月
1960(昭和35)年5月
樫尾忠雄、社長に就任
1961(昭和36)年2月
世界初の事務作表計算機「TUC」発表
1962(昭和37)年1月
1962(昭和37)年2月
営業部門を新設し、代販と直販の2販売体制に移行
1962(昭和37)年8月
さん孔タイプライターと連動したIDPシステムマシンシリーズ「キャビコンO-1」を開発
1965(昭和40)年6月
(株)内田洋行との総代理店契約を解消し、同時に代理店50余社を引き継ぐ
1965(昭和40)年9月
1966(昭和41)年6月
本社を東京都北多摩郡大和町(現 東大和市)に移転
1966(昭和41)年9月
1967(昭和42)年3月
スイス・チューリヒにヨーロッパ事務所を開設
1967(昭和42)年9月
アメリカ・カナダ市場に進出(コモドア社へのOEM)
1967(昭和42)年10月
1968(昭和43)年5月
カシオ初のIC電卓「152」を発売
1969(昭和44)年6月
独・ハンブルグに「ヨーロッパ事務所」を開設
1969(昭和44)年10月
1946(昭和21)年 4月
東京都三鷹市に樫尾製作所を創業
カシオ計算機の創立メンバーである樫尾忠雄は1917年、高知県久礼田村(現 南国市)に生まれました。1923年の関東大震災の後、東京で働いていたおじに誘われ樫尾一家は上京。忠雄は高校卒業後、見習いの旋盤工として働き始めました。腕の良さを見込んだ工場主に勧められ、働きながら早稲田工手学校(現在の早稲田大学)に通って技術を習得。いくつかの職場を経験し、鍋や釜、自転車の発電ランプなどを作っていましたが、評判が伝わって部品加工の下請けを頼まれるようになり、1946年、東京都三鷹市に「樫尾製作所」を設立して独立を果たします。
1946(昭和21)年4月
タバコを根元まで吸える「指輪パイプ」を発明。ヒット商品となる
樫尾製作所は、顕微鏡の部品や歯車などを作る小さな下請け工場でした。忠雄の下には俊雄、和雄、幸雄の三人の弟がおり、中でも技術者として働いていた俊雄は「自分が何か発明して、兄を助けることはできないか」と考え、樫尾製作所に加わります。
俊雄は、持ち前の発想力を生かし、数々の発明を試みます。そのひとつが「指輪パイプ」でした。戦後間もない当時は物資が不足しており、誰もがたばこを根元ぎりぎりまで吸っていました。そこで俊雄は仕事をしながらでも吸えるように、たばこを差せる指輪型のパイプを考案しました。忠雄が旋盤を駆使して作り、父親の茂が売りに出かけ、やがて徐々に引き合いが増えて「指輪パイプ」は作るそばから売れるヒット商品になりました。これで得た利益が、後に計算機開発の資金として役立つことになります。
1954(昭和29)年 12月
小型電気式計算機(ソレノイド式)試作機を開発
樫尾兄弟は1949年、東京・銀座で開かれた第一回ビジネスショウで外国製の電動計算機を目にしました。この電動計算機はモーターで内部の歯車を回す仕組みで、日本で主に使われていた手回し式計算機よりは速かったものの、現在の計算機と比べて非常に遅く、けたたましい騒音を出していました。次男の俊雄は「すべて電気回路で処理すれば、この問題を解決できる」と考え、ソレノイドという一種の電磁石を使って、歯車のない電気式計算機の開発にとりかかります。俊雄は試行錯誤を繰り返し、1954年、ついに日本で初めての電気式計算機を完成させます。しかし、計算機を扱う商社の担当者に見せたところ、「時代遅れ」だと告げられてしまうのです。かけ算の答にまた別の数をかけ合わせる連乗機能がなかったことが原因でした。
再び試行錯誤の日々が始まります。弟の和雄、幸雄も樫尾製作所に加わり、俊雄がアイデアを考え、大学で機械科にいた幸雄が図面を引き、忠雄と和雄が作るという分業体制で開発を進めました。そして1956年、連乗機能もついて計算機は完成間近となり、量産まであと一歩のところまで到達します。そんな中、俊雄は突然「もう一度最初からやり直したい」と言い出したのです。複雑な機械的機構を持つソレノイド式は量産に困難が伴う可能性がありました。俊雄の提案は、ソレノイド式をやめて、当時の電話交換機などに使われていたリレー(継電器)を使って純電気式の計算機を作ることでした。
1957(昭和32)年 6月
“計算”という事務作業の効率化・省力化に貢献
世界初の小型純電気式計算機「14-A」
「14-A」はリレーと呼ばれる継電器を使用した世界初の小型純電気式計算機です。従来の事務用計算機には歯車が使われており、1回の乗除算にかかる時間は平均して10秒程度。さらに歯車を電動で高速回転させるため、騒音が発生してしまうという問題も抱えていました。これらとは異なり、全く新しい発想の計算機を開発するために目を付けたのが、当時の電話交換機に使用されていたリレー素子です。すでに大型コンピューターには、1万3000個のリレーが使われていた時代でした。しかし、「14-A」はわずか341個で14桁の四則演算を実現。本体の大きさもオフィスに設置できる机サイズとすることに成功しました。歯車式と比べると、10秒程度かかっていた乗除算も5〜6秒程度と早く、音も静かでした。また、当時の計算機では桁ごとに0から9までの数字キーが並ぶ“フルキー方式”が常識だった中で、現代の電卓と同様の“テンキー”を採用。ユーザビリティを考慮しながら、計算の効率化と省力化を果たしました。
1957(昭和32)年 6月
カシオ計算機(株)を設立。樫尾茂、社長に就任
ついに「14-A」を完成させると株式会社内田洋行を総代理店とする販売契約が交わされ、リレー式計算機の開発・製造会社として、1957年6月、カシオ計算機株式会社が設立されました。社長には兄弟の頼みで、父親の茂が就任することとなりました。当時は、商号を樫尾計算機株式会社としていましたが、“カシオ”というブランドの浸透に合わせて、1960年10月にカシオ計算機株式会社に改めました。
1960(昭和35)年 4月
東京都北多摩郡大和町(現 東大和市)に東京工場完成
リレー式計算機は大手企業や研究機関を中心に順調に販売実績を重ね、会社は成長を続けました。増え続ける需要に応えるため、1960(昭和35)年には東京都北多摩郡大和町(現 東大和市)に新工場を建設し、フル稼働で生産を開始。新製品の開発にも力を注ぎ、電動タイプライターと連動した帳票自動作成機「タックコンピュライタ(TUC)」、科学技術用計算機「AL-1」など、新しいタイプの計算機を次々に発売し、市場をリードし続けました。
1962(昭和37)年 1月
研究者の技術計算をより手軽なものに
プログラム機能がついた科学技術用計算機「AL-1」
リレー式計算機「AL-1」は、プログラム機能がついた科学技術用計算機です。60の歯を持つ歯車6枚を用いてユーザー自身がプログラムをセットしておけば、その計算手順で自動的に計算を行うことができます。また、6枚の歯車のユニットは取り外しが可能なため、複数の計算手順を入れ替えることもでき、その使い勝手の良さから官庁や大学の研究者を中心に多くの支持を集めました。カシオがこのような機能を開発できた理由の一つは、平方根の計算機能を備えた技術用リレー式計算機「14-B」(1959年発売)の開発をきっかけに、カシオが研究者の方々と緻密な対話を重ねていたからです。当時、高度な技術計算のプログラム機能を備えた計算機はなく、研究者は本務でない計算に多くの時間を費やしていたのです。2014年、「AL-1」は日本の科学技術史上重要な成果を示したことが認められ、国立科学博物館が選定する2014年度重要科学技術史資料(未来技術遺産)に登録されました。
1965(昭和40)年 9月
電卓初のメモリー機能であらゆる計算の効率化を
電子式卓上計算機「001」
「001」は、カシオが初めて開発に挑んだ電子式卓上計算機です。「001」という名前には、加減算の速度が0.01秒であったことに加え、「電子時代のゼロ地点から再スタートする」という反省と決意が込められています。というのは、カシオは1957年にリレー式計算機「14-A」を開発後、業界をリードする存在でしたが、1962年に英国のメーカーが世界初の電子式卓上計算機(=電卓)を発表。1964年には日本メーカーも電卓開発に乗り出し、電子式が注目されるようになっていったからです。当時のカシオはまだリレー式計算機の改善を開発の中心に据えており、新たなリレー式計算機を発表するものの、技術の中心はすでにリレーから電子式のトランジスタに移っていました。卓上で使えて演算速度も速く、音も静かな電子式。ユーザーが求める最先端の製品開発に遅れたら計算機専業メーカーはなくなる──こうした思いからカシオは電子式計算機の開発に本格的に舵を切ったのです。こうして発売した「001」には、四則演算の高速化だけでなく、あらゆる計算業務の能率向上を目指し、電卓として初めて7桁の定数記憶ダイヤルやメモリー機能を搭載しました。ユーザーにとって便利な機能の開発はその後も続け、2年後の1967年には、計算手順をキーボードの操作で簡単に記憶できるようにした世界初のソフトウエア型電卓「AL-1000」を発売します。こうしてカシオは、電卓市場においてもその存在感を発揮していきます。
1966(昭和41)年 9月
電子式卓上計算機を海外市場(オーストラリア)に初輸出
電子式卓上計算機「001」は順調に売れ、海外からの商談も持ち込まれ始めます。世界へ進出する好機を得たカシオは、海外向け製品の開発に乗り出します。その製品が「101」。電子回路を改良して電子部品を大幅に削減したほか、温度特性に優れたトランジスタを選別使用し、品質向上を図りました。また、ケースをプラスチック製にすることで、長距離、悪条件の輸送への耐久性も向上。重量・価格の削減も実現しました。1966年、オーストラリアに第1号機を輸出すると、翌年にはスイスにヨーロッパ事務所を設立。1970年には米国に現地販売会社「カシオインク」(現 カシオアメリカ)、1972年にはドイツに同じく「カシオコンピュータ」(現 カシオヨーロッパ)を開設し、世界へ拠点を広げていくこととなりました。
1967(昭和42)年 10月
世界初のプログラムつきの電子式卓上計算機「AL-1000」発売
販路を広げる一方で、新機種の開発が進められました。1967年に誕⽣した「AL-1000」は、電卓として初めてプログラムをソフトウエア化したエポックメイキングな製品です。初期のコンピューターや⾼機能電卓などでは、ハードウエア上の脱着可能な部品を組み替えてプログラムを作成していましたが、「AL-1000」はキーボード操作で簡単に計算⼿順をソフトウエアとして登録できるので、⾯倒な部品の組み換え作業を不要にしました。記憶させておいた計算⼿順を呼び出せば、科学技術計算などの複雑な計算も簡単に実⾏できます。また、14桁の演算レジスターと記憶レジスター、プログラム記憶装置などに磁気コアというコンパクトな記憶⽤部品を採⽤することで、プログラム機能付きでありながら、当時の一般的な電卓と変わらない⼩型サイズを実現しています。32万8000円という価格も普通の電卓より3割増し程度だったので、欧⽶でもベストセラーとなりました。
1969(昭和44)年 10月
山梨県中巨摩郡玉穂村(現 中央市)に甲府工場完成
既に電卓メーカーとしてトップグループを走っていたカシオの生産能力を、これまでの3倍以上にあたる月産1万台規模に引き上げるべく、甲府工場は建設されました。それまでの主力生産拠点であった東京工場をゆうに上回る3,600平方メートルの1号棟がまず完成。さらに2年後には2号棟、4年後には3号棟が完成。後の大ヒット商品であるパーソナル電卓「カシオミニ」の生産を担当し、カシオグループの主力生産工場として発展していきます。