
酢でしめた米に新鮮な魚。日本人なら誰もが愛する国民食の「寿司」に、危機が迫っている。
「今、サーモンが『品薄』なんです。イクラは本当に危ない」
そう話すのは、日本最大の卸売市場である東京都・豊洲市場で水産物の仲卸業を営む「吉善」の吉橋善伸さんだ。
サーモンは、回転寿司チェーンなどで子どもや女性に特に人気のある、安くて美味しい寿司の定番メニュー。イクラも寿司の代表格だ。
ロシアによるウクライナ侵攻の影響や原油高などの影響から、日本国内ではあらゆる食品の価格が高騰している。寿司もその影響下にあることは言うまでもない。
しかし、取材を進めていくと、必ずしも現代の地政学上の問題だけではない、深刻な背景が見えてきた。
「上がるコスト、下がる鮮度」

日本の「寿司」に使われる生食用のサーモンは、基本的に養殖サーモンだ。
回転寿司チェーンでは、世界最大のアトランティックサーモンの生産国であるノルウェー産のサーモンが使われることが多い。
ノルウェーからサーモンを輸入する場合、これまではロシア上空を通過する直行便で輸送されてきていた。これが時間・コストを最も削減できるルートだった。しかし、2月末以降、ロシアはウクライナ侵攻に対する欧米からの制裁への対抗措置として、航空各社に対してロシアでの離発着や領空の飛行に制限を課している。
吉橋さんによると、ノルウェーからサーモンを空輸する際には、UAE・ドバイを経由して、日本に輸送している状況だという。燃料コストが上がっている中で、さらに調達に手間が加わった。輸送時間も長くなり鮮度も落ちる。航空機の減便などもあり、量も不足気味だという。
農林水産物輸出入情報(令和4年5月分)を見ると、日本に輸入されているサケ・マス類は、チリ産が約8割(ただし多くが冷凍)を占める。残り1割強がノルウェー産で、あとの1割弱がロシア産だ。
2022年1〜5月のサケ・マスの輸入量は前年比で約10%減。一方で、金額ベースでは約15%上昇している(寿司用の生食サーモン以外も含む)。
じりじりと、確実に価格は上がっているように見える。
東京都・中央卸売市場の市場統計でも、2017年〜2021年の6月の輸入サケ・マス類1キログラムあたりの平均価格が1595円であるのに対して、2022年6月の平均価格は2040円と3割ほど高い水準となっている。
ロシアによるウクライナ侵攻に端を発した価格上昇の影響は、サーモンだけにとどまらない。コロナ禍からやっと回復し始めた飲食業界にとって、価格高騰の影響は「追い打ち」にほかならない。
「コロナ禍で飲食店の営業が強制的に止められていた時期と比較すると、いまは飲食店などが大分動くようになってきました。ただ、遅くまでお酒を飲むことがなくなり、単価が高いものが売れにくくなっています。
そこにロシアの問題が発生して、さらに利益が出にくくなっています。調達コストが上がったからといって、すぐに価格に反映させることは僕ら(仲卸業者)はなかなかできません」(吉橋さん)
イクラが寿司屋から消える?

サーモン以上に危機的な状況になりつつあると吉橋さんが指摘するのが、冒頭の寿司ネタの代表格の1つとも言える「イクラ」だ。
イクラもサーモンと並ぶ寿司の定番メニューの一つ。ただ、吉橋さんは「(年末には)イクラは倍では済まないのでは?」と、吉橋さんは今後の価格高騰に対する危機感を語る。
イクラは、サケの卵を使った加工食品。養殖がメインのサーモンとは異なり、原材料は自然界で漁獲されるサケから採られる卵だ。
「(ウクライナ侵攻以前から)ロシアではサケ・マスの漁ができません。そして、輸出入もやりにくくなった。加えて、ここ2年は『不漁』が重なっている状況です」(吉橋さん)

イクラの「原材料」となるサケの卵を確保することが難しくなっているという。
サケの漁獲量が減れば、その分加工できるイクラの量も減る。市場原理に従えば、価格が上昇するのは当然だ。
豊洲市場の市場統計では、2021年の段階で、イクラ1キログラムあたりの平均価格は7333円を記録している。2016〜2020年まで平均価格が約5500円であったことを考えると、ウクライナ危機以前からすでに価格が上がり始めていることが分かる。
日本では、イクラは外食産業や家庭の食卓で食される機会が増える12月に向けて、市場価格が高騰していく商品だ。しかし、2022年は需要が落ち着いているはずの1月の段階でも、1キログラムあたりの平均価格がすでに7000円を超えた高い水準となっていた。
イクラには、「醤油イクラ」と「塩イクラ」という2パターンの味付けがある。吉橋さんは、中でも高級品とされている「塩イクラ」については、今後、一部の高級店以外では見ることができなくなる可能性があるのではないかとBusiness Insider Japanの取材に対して語った。
回復しない水産資源

サケの水産資源自体が減少している問題は、かなり深刻だ。
国立研究開発法人水産研究・教育機構の佐藤俊平氏は、サケの資源量についてこう語る。
「もともと、ロシアやアラスカではサケの資源量が豊富で、分布の南限にあたる日本やカナダでは減っている状況でした。ただ、ここ2〜3年では、まだ高い水準ではあるものの、ロシアやアラスカでもジリジリと資源量が減少しているようにも見えているんです」(佐藤氏)
日本では、1980年代からサケの資源量を回復させることを目的に、稚魚の放流事業を進めてきた。その甲斐もあって、1970年代には約5万トン(2000万尾弱)程度だった漁獲量が、1990年代前半までに急激に回復。最盛期には全国の漁獲量は約8000万尾規模になった。
しかしその後、2000年代に入ると、資源量は再び減少していった。
「特にここ数年、2010年代後半に急激に資源量が落ちました。2020年のデータだと漁獲量は約5万トンになりました。つまり、1970年代に放流事業を始める前の水準にまで下がってしまったんです。その原因について、いま色々と調査している状況です」(佐藤氏)
放流事業では、サケの稚魚を毎年16億〜18億尾ほど川に放っている。川に放たれたサケは、数日から1カ月程度かけて川を下り、その後、海を回遊しながら成長し、数年後に生まれ育った川へと帰ってくる。無事に帰ってこれるのは、多くても数%だ。
佐藤氏は、サケの資源量が減少している原因は複合的な要因によるものだとしながらも、
「サケがもとの川に帰ってくるまでの目安は大体4年です。つまり、概ね4年間は海の中で過ごしているんです。ですので、やはり気候変動に付随する海洋環境の変化になんらかの影響を受けているということは、一つ考えておくべきことだと思っています」(佐藤氏)
と昨今の気候変動による影響の大きさに懸念を抱く。
佐藤氏らは、放流の手法を改善するなど、資源量の回復に向けた取り組みを続けているが、新しい手法を試しても答え合わせができるのは数年後だ。
資源量の回復が見込めなければ、仮にウクライナ危機が落ち着いたとしても、イクラの価格が元に戻ることは期待できない。
世界中のあらゆる食品の価格が上がる背景に、ウクライナ危機による燃料の高騰などが少なからず影響していることは確実だろう。しかし、すべての原因をそこに求めてはいけない。
私たちが解決すべき問題は、まだ他にもある。
(文・三ツ村崇志)