1991年、油冷GSX-R750最後の鈴鹿8耐。気温が高いとエンジンも熱くなるため、熱ダレが激しくなる。第2ライダーの走行に#12トム・キップJr.と#45マット・ブレアーが出て行く。ただ、決勝は雨、気温25.4℃と低かった。2台とも転倒したが、#12青木/T・キップJr.が9位、#45S・マーチン/M・ブレアーが28位で完走した。
Osamu KIDACHI
1991年、油冷GSX-R750最後の鈴鹿8耐。気温が高いとエンジンも熱くなるため、熱ダレが激しくなる。第2ライダーの走行に#12トム・キップJr.と#45マット・ブレアーが出て行く。ただ、決勝は雨、気温25.4℃と低かった。2台とも転倒したが、#12青木/T・キップJr.が9位、#45S・マーチン/M・ブレアーが28位で完走した。
Osamu KIDACHI
1989年は、ヨシムラにとって最高のシーズンだった。全日本ではダグ・ポーレンがTT-F1&TT-F3で、AMAではジェイミー・ジェイムズがスーパーバイク&750スーパースポーツで、ともに“ダブルタイトル”を獲得したのだ。一方でライバルの水冷エンジン勢がパフォーマンスを発揮し始め、1990年でデビュー6年目を迎えた油冷GSX-R750は、明らかに設計が古くなり、パワーバランスは劣勢と言わざるを得なくなっていた。
しかも、AMAスーパーバイクでは1990年から大量生産車だけでなく、いわゆる限定車もホモロゲートされることになった。このおかげでホンダRC30(VFR750R)、ヤマハOW01(FZR750R)など強力なマシンが走れるようになった(スズキもGSX-R750R=通称“ダブルアール”が許可されることになる)。エンジンだけ市販ベースとするTT-F1と違って、フレームもシルエット(カウルはスタイルなど)もSTDベースとなるAMAスーパーバイクでは、TT-F1レプリカで、完全なレーサースタイルとなる限定車は最高のベース車両となる。
そんなヨシムラに、突然不運が降りかかった。1990年2月15日、ヨシムラR&Dの地元カリフォルニアのウィロースプリングス(クルマでロサンジェルスからだと約1時間半、ヨシムラR&Dのあるチノからだと約2時間)で、デイトナ200マイルに向けてのスーパーバイクのテスト中に、事故は起こってしまった。
このトラックで一番標高が高いターン4(外側にバドワイザーバルコニーがある右コーナー)からターン5(左90度コーナー)に向かう下りの短いストーレトで、何とキャブレーターがスロットルスティックしたのだ。何度もスロットルグリップを開閉するダグ。だが、エンジンは全開でフケッぱなし。D・ポーレンは仕方なくマシンを捨て、飛び降りる……が、左足のつま先がドライブチェーンとスプロケットの間に入り、レーシングブーツごと、スパッと切れた。親指、人差し指、中指、薬指を失った。終わった、と思った。
約1ヵ月半後、ダグはデイトナに現れた。入院(約半月)→自宅療養・リハビリを経て、初めての外出だった。左足は包帯に、先端をカットしサンダル風にしたスニーカーだった。
「エア“ポーレン”だよ、(ナイキの)ニューモデルの。3週間か、4週間で復帰するよ」。
D・ポーレンは英語と日本語でジャーナリストたちに答えた。
レースの仲間と会い、レーシングマシンとエンジンオイルと燃料の匂いが、心地好く入り混じったレーシングトラック独特の空気を、胸いっぱい吸ったD・ポーレンは、復帰への意欲を益々強くした。
その言葉通りに全日本第3戦鈴鹿(TT-F1全8戦中の2戦目・4月22日決勝)で復帰。今度左足に履いていたのは、特製スニーカーではなく、普通のレーシングブーツで、中に失った指の分の詰め物をしただけだった。そして、何とポールポジションを獲得。決勝は4位だった。
「あの事故はメカニカルトラブルで、自分のせいじゃない。機械は直せばイイだけだから、恐怖はないよ。ライディングでは、少し体重を左足に乗せて、ステップをやや踵寄りで踏むようにする。アジャストはこれだけ。むしろ以前よりライディングが良くなっているよ」(D・ポーレン)
さらにAMAスーパーバイク第2戦ロードアトランタ(5月6日・全8戦)にスポット参戦したダグは、優勝してしまう。事故から3ヵ月も経っていなかった。
この後ダグは日本に戻ると、TT-F1 FIMカップシリーズ第1戦菅生に参戦し、オールタイムラップレコードでポールポジションを獲得。高吉克朗も参戦したが、練習中に転倒し不参加となった。決勝は50ラップの長丁場。途中1回にピットインが必要だ。そのピットインで珍しくヨシムラは手間取り、ダグは手術跡の皮が剥けたこともあって7位でレースを終えた。
その後も全日本に参戦を続け、第7戦鈴鹿200km(6月10日)で4位、第8戦筑波(6月24日)で2位、第9戦菅生(7月8日)でリタイア(イグナイタートラブル)と、そこそこリザルトは残すが、ライバルの水冷V4のホンダRVF750勢(岩橋健一郎、宮崎祥司)は強敵で、常にヨシムラより上位にいた。
全日本はサマーブレイクに入り、いよいよ鈴鹿8耐だ(7月29日決勝。第13回大会)。1989、1990年の耐久シリーズは世界選手権ではなくFIMカップで開催される。ヨシムラは#12D・ポーレン/M・デュハメル(AMAスーパーバイク契約)と#45高吉/リック・カークの2台体制で臨んだ。そして決勝、最終スティントの午後7時15分、5位を走る#12D・ポーレンのマシンから白煙が上がった。エンジントラブルか? ラップタイムは10秒も下がる。エンジン音も変だ。ピットサインは
“12 GO +42 L4”
チームはピットインさせない方針だ。エンジンを止めたら、再始動は不可能という判断だった。その思いは、乗っているD・ポーレンも同じだった。オフィシャルからブラックフラッグ(ピットイン命令)を出されそうになるが、メカニックが必死で説得する。
そしてチェッカードフラッグ。6位だった。
白煙の原因は、#3シリンダーのバルブが落ちたことだった(吸排気4本が跡形もなくなっていた)。ピストンヘッドには孔が開き、ピストンもシリンダーヘッドもぐちゃぐちゃだったが、ピストンリング3本が無事で、コンロッド小端も大端もスムーズに稼働する。要するに#3シリンダーは死んで3気筒になってはいたが、ちゃんとストロークしていたのだ。一方#45高吉/R・カークは12位だった。
鈴鹿8耐以降、D・ポーレンは、まずスーパーバイク世界選手権菅生(8月26日・第8戦)に参戦。しかし、ヒート1で自らまいたオイルに乗って大転倒。レッドフラッグとなり、ヒート1は1ラップ前の順位が採用され8位となったが、ヒート2は左足を痛めたため欠場した。
再開した全日本TT-F1で、D・ポーレンは第13戦鈴鹿(9月9日)2位、第15戦菅生(10月7日)4位、最終戦筑波(10月28日・第16戦)6位と、全日本未勝利に終わったが、それでもランキングは3位だった。
一方全日本TT-F3には、青木正直が参戦し、ランキング4位を得た。
AMAスーパーバイクは、M・デュハメルが第7戦トペカで優勝したものの、ランキング10位に終わった(全8戦)。750スーパースポーツでもM・デュハメルが1勝して、ランキング7位。また、ダートトラックの帝王J・スプリングスティーン(1976~1978年グランドナショナルチャンピオン)がヨシムラマシンに乗り、開幕戦デイトナ200マイルで、スズキ勢最上位の8位に入った。
1991年シーズンは、絶対的エースだったD・ポーレンがドゥカティに移籍した。全日本TT-F1には青木をエースに、スティーブ・マーチンを起用。スポットでマイク・スミス、ドミニク・サロン、M・ブレアーを参戦させ、TT-F1マシンとの相性などを模索していた。
青木は全日本TT-F1(全17戦・TT-F1全9戦)で第1戦鈴鹿2&4(3月3日)16位、鈴鹿(4月21日・TT-F1の2戦目)12位、第5戦菅生(5月12日)5位、第7戦鈴鹿200km(6月9日)リタイア、第8戦筑波(6月23日)5位、第9戦菅生(7月7日)21位……鈴鹿8耐を挟んで第14戦鈴鹿(9月8日)4位、第16戦TBCビッグロード(10月6日・菅生)31位、最終戦MFJ GP(10月27日・筑波)3位でランキング7位となった。また、S・マーチンはランキング17位だった。
第14回鈴鹿8耐(世界耐久選手権第3戦)には、#12青木/T・キップJr.と#45S・マーチン/M・ブレアーで参戦。#45はS・マーチンが転倒・出火するが、ピットで大修復後に復帰。#12も最終スティントでT・キップJr.が転倒・出火したが、再スタート。#12が9位、#45が28位と見事完走を果たした。
AMAスーパーバイクは、M・スミスとトミー・リンチと若手コンビで挑んだ。ともに未勝利で、ランキングはT・リンチが11位、M・スミスが13位だった。
TT-F1は、1991年からボアアップによる排気量リミット1%オーバーが廃止され、“空油冷”GSX-R750はTT-F1仕様でφ70.3mm(×48.7mm=755.57cc)から、STDのφ70mm(×48.7cc=749.30cc )に戻された(AMAスーパーバイクは+1mmOKだった)。その影響もあってか、油冷機はライバルの水冷勢にパワーで劣勢なのは明らかだった。
熱ダレは油冷GSX-750デビュー以来の課題で、TT-F1ではオイルクーラーをダブル(大型湾曲がシリンダーヘッド冷却用、中型は潤滑用)で使い、その配置も前後に2枚重ね(1990年型)や、上下配置(1991年型)など工夫に工夫を重ねた。AMAスーパーバイクは、1990年型ではシリンダーヘッド冷却用オイルクーラーをフレーム右サイドにマウント。これはオイルクーラーが大型化・複数化することで空気抵抗が増大することを嫌っての対策で、デイトナなど高速トラックでの効果を期待してのことだった。
全日本やFIMでは1992年から新型水冷GSX-R750Wが投入されたが、AMAではホモロゲーションが1年遅れとなって(油冷GSX-R750のときも同じ)、1992年シーズンも油冷機で戦わなければならなかった。そこでヨシムラR&D(USヨシムラ)が取った奇策は、シリンダーに空冷のような冷却フィンを追加することだった。その効果があったのか、超高速トラックをAMAスーパーバイクで最長距離を走るデイトナ200マイルで、デビッド・サドウスキーが4位に入った。パワーで不利な“空油冷”GSX-R750で、D・サドウスキーがランキング12位を得た。
こうして傑作油冷GSX-R750は、全日本やFIMで1985~1991年、AMAでは1986~1992年の長きに渡って活躍し、その名を4ストロークレーシングの世界に刻んだのだった。
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