「地球は青かった」
ユーリ・ガガーリン
1961年4月12日。旧ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、人類で初めて宇宙を飛んだ。ボストーク宇宙船の小さな窓から、高度300kmの世界が見えた。
「上空はとても暗く、地球は青みがかっている。すべては非常にはっきりと見えた」
打ち上げから1時間48分後、再びソ連の大地に帰還した。ソ連は初の有人宇宙飛行で、いきなり地球を周回する飛行を成功させた。
ボストーク宇宙船
運用期間:1961~63年
搭乗人数:1人
全長:約5m
世界初の有人宇宙船。一昼夜を超える飛行や、2機によるランデブーにつながる技術を確認した。
空軍のパイロット出身のガガーリンは当時27歳。初飛行者の白羽の矢が立ったのは、身長が160cm弱で狭い宇宙船に乗りやすかったこと、両親がコルホーズ(集団農場)の労働者で名前もユーリと「ソ連ならでは」の人物だったからとされる。なにより社交的で、印象的な笑顔が周りの人々を引きつけた。
米国が初めて飛行士を宇宙に送り出したのは3週間後の5月5日。打ち上げの勢いで宇宙に飛び出し、すぐ落ちてくるわずか15分の弾道飛行だった。ソ連は8月にはゲルマン・チトフに地球を17周させる。米国のジョン・グレンが初めて地球を周回するのは翌年になってからだった。
初飛行の後、ガガーリンは「スターマン」と呼ばれ、伝説になった。彼自身は再び宇宙に行くことを望んだが、国際的な英雄を失うことを恐れたソ連首脳部はついにそれを許さなかった。7年後、ジェット戦闘機の訓練飛行中に墜落事故が起き、34歳で死亡した。墜落原因は謎が多く、いまだにはっきりとはわかっていない。
「私はカモメ」
ワレンチナ・テレシコワ
女性初の宇宙飛行士となったワレンチナ・テレシコワは、スカイダイビングが趣味の織物工場の従業員だった。ガガーリンが宇宙に行った翌年、女性飛行士の募集があり、条件に「パラシュートの経験」とあるのを見つけると、すぐに応募した。
ボストーク宇宙船
運用期間:1961~63年
搭乗人数:1人
全長:約5m
世界初の有人宇宙船。一昼夜を超える飛行や、2機によるランデブーにつながる技術を確認した。
当時のソ連の宇宙船は着陸装置がなく、飛行士は上空で外に飛び出してパラシュートで着地する必要があった。一方、宇宙船はほぼ自動操縦だったため、飛行士は必ずしもパイロットでなくてよかった。ソ連は、米国が女性を飛行させようとしていると考え、急いでいた。
打ち上げ後、「こちらカモメ」とコールサインを名乗った通信が、「私はカモメ」のせりふで広まった。地球を48周し、ほぼ3日間宇宙に滞在。帰還後、国会議員になった。女性の参画を促し、「鳥が羽だけで飛べないように、有人宇宙飛行もまた、女性の積極的な参加なしに発展しえないでしょう」と語った。
「偉大な飛躍だ」
ニール・アームストロング
月への第1歩は、左足だった。
月面にある平原「静かの海」にアポロ11号の着陸船が降り立ったのは1969年7月20日。船長のニール・アームストロングはハッチから出ると、はしごを1段ずつ慎重に降り、まず右足を着陸船の脚の上に乗せた。月の表面が、パウダーのような砂に覆われているのがはっきり見えた。そして、右手ではしごを持ったまま、ゆっくりと左足を月面に踏み下ろした。一呼吸置き、伝説となった言葉を続けた。
「これは小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」
月面につけられたバズ・オルドリンの足跡
白黒のライブ中継は世界に配信され、5億人以上が見た。
アームストロングは、ボーイスカウトと飛行機に熱心な高校生だった。ノーベル化学賞を受けた根岸英一氏が特別教授を務める名門パデュー大で航空工学を学び、海軍に入って朝鮮戦争に参加した。帰国後、テストパイロットとなり、ロケットエンジンを積んだ実験機X-15を試験。NASAに移り、宇宙船ジェミニ8号の船長として世界で初めて宇宙船同士をドッキングさせた。
アポロ宇宙船
運用期間:1968~75年
搭乗人数:3人
全長:約18m
11~17号のうち6機が月着陸に成功。380kg以上の岩石を持ち帰った。13号はタンクの爆発事故で着陸を断念
ただ、これらの任務はいずれも深刻な事故に見舞われた。朝鮮戦争では自機が対空砲を受けて墜落。X-15は高度63kmから帰還できなくなりそうになり、ジェミニ8号は姿勢制御できなくなった。だが、アームストロングは常に冷静に対処し、必ず生還を果たした。「真面目過ぎて面白みがまるでない」性格なのは周知の事実だったが、NASAはアポロ11号の船長に選ぶことをためらわなかった。
左から、ニール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ司令船パイロット、バズ・オルドリン月着陸船パイロット
月では、着陸船のもう一人の乗組員であるバズ・オルドリンと約2時間半にわたって月面を探査した。カメラによる記録撮影はアームストロングの役目だったため、米グラフ誌「LIFE」の表紙を飾った有名な月面に立つ宇宙飛行士の姿や、月面に刻まれた足跡の写真は、いずれもオルドリンのものだ。
帰還後、ほとんど公の場に出なかったアームストロングと違い、陽気な性格のオルドリンが主に対外活動を務めた。宇宙飛行士「バズ」の名前は、今ではアニメ映画「トイ・ストーリー」の登場キャラクターとしての方が有名かもしれない。
「これ、本番ですか?」
秋山豊寛
国家の資金でなく、世界で初めて民間資金で宇宙に行ったのは、TBS記者(当時)の秋山豊寛だった。当時、日本はバブル経済の最盛期。TBSは創立40周年事業として約20億円をソ連に支払い、記者を宇宙に出張させた。
ソユーズ宇宙船
運用期間:1967年~
搭乗人数:3人
全長:約7m
改良されながら半世紀以上にわたって運用され続けている宇宙船の座標軸。もともとは月着陸を目的に開発された
秋山は1990年12月2日、ソユーズ宇宙船で打ち上げられた。軌道上で生中継に挑み、回線がつながってすぐに発した「これ、本番ですか?」が第一声としてお茶の間に流れた。宇宙ステーション「ミール」にも滞在し、長期滞在の様子を伝えた。
TBSのジャーナリスト宇宙飛行士発表の記者会見。TBS報道局外信部副部長の秋山豊寛(右)と、ニュースカメラマンの菊地涼子=1989年
2001年には米国の実業家デニス・チトーが自己資金でソユーズに乗り、世界初の宇宙旅行者となった。宇宙旅行を計画する企業も現れ、ZOZO社長の前沢友作は、23年ごろに月周回旅行をする契約を結んだ。秋山によって、それまで国家に支配されていた宇宙空間が、民間にも開かれた。
「宇宙から国境線は見えなかった」
毛利衛
スペースシャトルの事故がなければ、日本人で初めて宇宙を飛んだのは旧宇宙開発事業団(NASDA)の毛利衛だったはずだ。向井千秋、土井隆雄とともに飛行士候補に選ばれたのは1985年。だが、翌年にチャレンジャーが打ち上げ直後に空中分解すると、シャトルの打ち上げは3年近く止まった。
スペースシャトル
運用期間:1981~2011年
搭乗人数:7人
全長:約37m
外部燃料タンクを含めると50mを超える巨大な世界初の再利用宇宙船。5機が建造されたが、2度の事故で14人が犠牲になった
報告書によると、乗っていた飛行士7人は分解時ではなく、分解から約2分45秒後にコックピットごと大西洋に激突した衝撃で死亡したとみられる。
爆発事故を起こしたスペースシャトル・チャレンジャー
結局、毛利が乗るシャトル・エンデバーが飛んだのは1992年9月12日になってからだった。ペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として科学実験をこなし、「宇宙から国境線は見えなかった」と語った。ただ、この頃の日本人飛行士はNASAからも「お客さん扱い」で、重要な情報を扱う会議からは退出させられ、飛行中も実験装置の世話しか許されなかった。
「草の香りで地球に迎え入れられた気がした」
若田光一
日本が国際宇宙開発の重要なパートナーであるとNASAに認められるようになったのは、若田光一の登場が大きかった。
シャトルの単なる搭乗員ではなく、運用も担うミッションスペシャリストの候補としてJAXAが選んだのが、大学で航空工学を学び、航空会社で技術者として働いていた若田だった。
スペースシャトル
運用期間:1981~2011年
搭乗人数:7人
全長:約37m
外部燃料タンクを含めると50mを超える巨大な世界初の再利用宇宙船。5機が建造されたが、2度の事故で14人が犠牲になった
NASAでは国際宇宙ステーション(ISS)の建設に不可欠なロボットアームのスペシャリストとして指導教官にもなり、開発にも参加した。2009年3月から7月には日本人として初めてISSに長期滞在するなど、計4回の飛行でISSを完成に貢献した。初の長期滞在から137日ぶりに帰還すると「ハッチが開いて草の香りがシャトルに入ってきたとき、地球に迎え入れられた気がした」と語った。
日本実験棟「きぼう」のロボットアームを操作する若田光一
13~14年の長期滞在では日本人初となるISS船長を務め、帰還後には日本人として初めてNASAの要職に就いた。18年4月からはJAXAの理事に就いている。
「日本は中核的な役割を果たす時期」
星出彰彦
JAXAは2018年3月、星出彰彦が20年5月ごろに3度目の宇宙飛行に臨み、ISSに半年間滞在すると発表した。あわせて、滞在の後半に日本人として2人目となるISS船長に就くことも明らかにした。
星出は慶応大4年の時にあった飛行士の募集で、実務経験がなく応募資格を満たさないにもかかわらず、書類を受け付けてくれるよう窓口で直談判した根性の持ち主。この時の願いはかなわなかったが、旧宇宙開発事業団(NASDA)に入り、1999年の選抜で飛行士候補に選ばれた。学生時代から留学経験が豊富で、英語力には定評がある。
国際宇宙ステーション(ISS)でソチ・オリンピックの「聖火リレー」のトーチを持つ宇宙飛行士
20年の滞在時期には東京五輪が開催されており、東京と宇宙とを結んだイベントが企画されるとみられる。ロシアのソチで14年に開かれた冬季五輪では、聖火のトーチが事前にISSに運ばれ、宇宙を旅している。
日本人飛行士は、宇宙船に同乗する科学者から運用メンバー、そしてISS船長とステップアップしており、09年にはパイロット出身の油井亀美也と大西卓哉が選ばれている。星出は20年代にも運用が終了するISSのさらに先を踏まえ、「持続可能な宇宙探査を国際的に進めるにあたり、日本はさらに中核的な役割を果たす時期に来ている」とした。
2018年12月5日時点。高度100kmを超えたことを意味し、弾道飛行を含む。また、宇宙旅行者を含む。同一の人物が2回以上飛行した場合は重複して数えていない。 JAXAによる
かつて米ソが国の威信をかけて争った宇宙開発。冷戦の終わりとともに、ISSという国際協調の象徴が完成して一つの到達点に達した。そして21世紀。宇宙は国家でなく、民間が主導する空間に変わりつつある。これから先、人類は再び月を訪れ、さらに火星まで進出するのか。宇宙の深淵(しんえん)は、いまだ見通せない。(敬称略。日付は現地時間)
企画:東山正宜、入尾野篤彦
デザイン・制作:小倉誼之、宇根真(朝日新聞メディアプロダクション)
写真:朝日新聞、NASA、ROSCOSMOS、JAXA、タス通信