【特集】関東大震災100年 - 証言が伝える 72時間をどう生きたか:朝日新聞デジタル

関東大震災100年 - 証言が伝える 72時間をどう生きたか

100年前の関東大震災を克明に書き残していた人たちがいる。文豪・経営者・当時小学6年生の少女…。その時、どう行動し、何を見て、何を思ったのか。記述からたどる。

掲載写真や証言は、歴史的資料として加工せずそのまま掲載しています。撮影場所や状況説明は当時の紙面などを参考にしています。

DAY 1

地震発生

倒壊

火災

混乱

不安な夜

流言

一夜明けて

秩序

共助

交通

地震発生

それは昼食時のことだった。近代化を遂げていた東京や、外国人も多かった横浜を未曽有の大地震が襲う。人々の暮らしは一変した。

押樋光乃

にわかに家がぐらぐら揺れだしてきました。お父さんとヨネさんと私と三人一度に立ってしまいました。だんだんひどくなってきました。地震の時はタンスの前が良いとよく皆に聞いていましたから、すぐそこへ行って座ってしまいました。

物の落ちる音、倒れる音、泣き叫ぶ声。地獄へ行ったようです。お店では、お母さんとお姉さんと抱きついたまま、ひょろひょろしています。

押樋光乃おおとい・みつの

東京・越前堀にあった茶屋「錦昇亭」の一人娘。店は歌舞伎役者や芸者衆がひいきにし、繁盛していた。震災後は護国寺近くや新宿などに転居し、さらに横浜へ。母方の姓の遠藤光乃となり、結婚して4人の子どもに恵まれた。戦後は長く千葉で暮らし、1996年に83歳で亡くなった

芥川龍之介

午ごろ茶の間にパンと牛乳を喫し了り、将に茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来るあり。

家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。

大震漸く静まれば、風あり、面を吹いて過ぐ。

芥川龍之介あくたがわ・りゅうのすけ

東京都生まれの小説家。関東大震災当時、すでに「羅生門」「鼻」などを発表し、売れっ子作家となっていた。田端の自宅で被災

佐多稲子

突然震(ゆ)れ出した地震は、最初から激しかった。私は同僚のひとりと抱き合って店の中央に立ったまま、何か言いながらその大震れに身をまかせているしかなかった。

大変なことになった、と私は恐怖の中でおもう。

建物全体が、がしゃっ、がしゃっ、と一定の幅で音を立てて大きく震れつづける。

佐多稲子さた・いねこ

長崎市生まれの作家。貧困のため幼少から働く。昭和3年「キャラメル工場から」を発表し、プロレタリア文学運動を担う女性作家として活動した。店員として勤めていた日本橋の丸善書店で被災

八木彩霞

遠雷のような響きがしたと思うと、間なしに、激しく上下震動が起こった。棚の物がカラカラと落ち、電灯がパチンパチンと天井にぶち当たっていた。(中略)よしと立ち上がって、かもいと柱を手で支えていたが、なかなか振動がやまない。(中略)この手を離せば二階が落ちかかってせんべいになるのだというような気がして、ますます手を離す気にはなれなかったが、また、これを離すと同時に飛び出せばよかろうと思って、思いきって裏口めがけて飛び出した。それと同時、間髪を入れず、家は西北に向かって倒壊した。

八木彩霞やぎ・さいか

松山市生まれの洋画家。本名は熊次郎。横浜市の小学校で教壇に立ちながら洋画を学び、パリに留学して藤田嗣治らと交流を結んだ。森永ミルクキャラメルのパッケージをデザインしたことでも知られる。横浜市元町の理髪店で被災。八木は始業式を終え、自宅に帰る途中に立ち寄っていた

地震発生時の八木彩霞=八木彩霞画「関東地方大震災画録」(横浜開港資料館提供)

室生犀星

地震来る。同時に夢中にて駿臺なる妻子を思ふ

室生犀星むろう・さいせい

金沢市生まれの詩人、小説家。関東大震災5日前に長女が生まれたばかり。長女をモデルとした長編小説「杏っ子」は代表作の一つ。自宅のあった田端で被災。出産直後の妻はまだ駿河台の病院に入院していた

鹿島龍蔵

激烈なる純水動来り、館は烈風中の立木の如く盛んに東西に動く。此の時は最早逃る事は不可能と思った。油絵の額はバタンと落ちる。石膏の彫刻は台より落ちて微塵となる。立って居た人々はバタリバタリと石畳の上にすわり、大抵観念の眼を閉じて居る。

鹿島龍蔵かじま・たつぞう

東京・深川生まれの実業家。鹿島組(現・鹿島建設)の創業者の孫で、自らは取締役などを務めた。招待された院展が開催中だった竹之台陳列館で被災

犬丸徹三

異様な鈍い地鳴りの如き物音を耳にしたと思った途端、足もとから突き上げてくる激動を全身に感じた。

(料理場に駆けつけると)床上には油滴が点々とこぼれて、火焰を上げているではないか。危ない。

犬丸徹三いぬまる・てつぞう

石川県生まれの実業家。関東大震災当時は帝国ホテル支配人(その後、社長に)。日本のホテル業界を世界レベルに引き上げた立役者。内幸町の帝国ホテル新館の披露宴に向けて羽織袴で待機していた支配人室で被災

倒壊

埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県では、当時の震度階級で震度6を観測。一部の地域では、現在の震度7相当の揺れと推定されている。東京や横浜の市街地では多くの建物が倒壊し、「浅草十二階」と呼ばれた凌雲閣も8階部分から上が折れる形で倒壊した。

鹿島龍蔵

西郷の銅像の前へ出て東京市中を見渡す。(浅草凌雲閣の)十二階は其の八階辺より上を失いしも依然として立って居る。広小路より其の先を一望したが平時と何の変ったこともなく、美しき東京の市街は其の儘立って居た。

被災の様子を見ようと向かった上野の西郷隆盛銅像前で

佐多稲子

さっき私の目前で崩れ落ちた建物の煉瓦が、往来に積もっている。その上に立て札がしてあって、この煉瓦の下にバスの車体が埋まっている、と書いてある。その煉瓦の上で、巡査がひとり手を振っている。埋まったバスの中に乗客がいるのかもしれない。

日本橋から、寺島(現墨田区)の自宅に帰る途中で見た光景

押樋光乃

塀が、あっと思う間にドドドドドドと倒れてきました。庭の石どうろうも倒れ、千社札もバラバラ落ちてきます。お母さんが危ないので、私は声を限りに呼びました。やっとやんだので、お母さんが座敷へ下駄のまま上がっていらっしゃいました。お父さんが「揺り返しが危ないから、早く外へ出ろ」と言いましたが、お母さんは腰が抜けて歩けませんので、お父さんに縁側まで引きずられて行きました。私もすぐ後からついて行きました。

茶屋は木造2階建てで、1階には石どうろうのある中庭があった

八木彩霞

土地はなおぐらぐら振動している。(中略)地面がボンボンと音を立てて電光状に裂ける。山手の一角に建っていた桜山ホテルがすごい音を立てて山麓(さんろく)へ真っ逆さまに落ち込んだ。(中略)ことに気の毒であったのは近所の湯屋である。そこに入っていた男も女もみな頭部、手足に傷を受け、裸体のままはい出てくる。生死の境に立てば、恥も外聞もなくなるものと見える。

八木のいた横浜の市街地でも、建物が大きな被害を受けていた。山の手では崖崩れも発生した

火災

地震発生時は昼食の準備中だった家庭も多く、火災が同時多発した。台風の影響で強風も吹いており、東京や横浜の市街地では大火災になった。1日午後から夕方にかけて、東京市本所区(今の東京都墨田区)の旧陸軍被服廠跡では大規模な火災旋風が発生し、避難者ら約38,000人の命がごく短時間に失われた。火災による旋風は、東京だけでも110件。横浜や小田原などでも発生したという。

押樋光乃

電車道を歩いて宮城(皇居)へ行きました。(中略)芝生の上へ三人座ってほっとしていました。その時はちょうど警視庁が焼けている最中でした。

見ているうちにだんだん燃えていって、隣の帝劇に移りました。

親子3人で皇居周辺まで逃げたが、火災が広がり、越前堀の自宅へ戻ることに

佐多稲子

日本橋の三越の前を通るとき、横町のビルの高い窓からさかんな火が吹き出していた。しかしそれに対する人の注意は何もない。

薄陽の射している正午すぎ、高い窓からさかんな火の吹き出るままだ、というのが、いかにも異常時のおもいであった。

日本橋から、寺島の自宅に帰る途中。三越前で見た光景

八木彩霞

ようやく一人を引き出し、相次いで他の二人を出した。残っているのは、他の棟木に挟まれている一人だけだ。(中略)振り向いて見ると、火花が煙とともに飛び込んでくる。「これは大変だ」と思ったから、その男に向かって、「気の毒であるが、これまでだ。君を助けたいのはやまやまだが、いかんともすることができぬ」と涙ながらに言い聞かせて、破風のところへ出ると、火は隣家まで迫って、頭髪がぢりぢりいうくらいになっていた。圧せられている男が悲壮な声で「八木先生、八木先生」と言う声が聞こえた。

理髪店の倒壊から逃れ、周りで倒壊家屋の下敷きになった人たちの救出に当たった

室生犀星

使帰りて妻子の避難先き不明なりと告ぐ。(入院する)病院は午後三時ごろに焼失せるがごとし。産後5日目にては足腰立つまじと思ふ。空しく上野の火をながめるのみ。

夕方、同じ田端に住んでいた芥川龍之介らの見舞いを受け、仲間らと避難して野宿をした

犬丸徹三

励声一番、従業員を叱咤した。「水がなければ、身体で火の粉を防げ。どんなことがあっても、この建物を燃やしてはいけない。命がけで守るんだ」

近隣ビルで火災が発生、帝国ホテルにも火の粉や黒煙が流れ込んできた。

芥川龍之介

遥かに東京の天を望めば、天、泥土の色を帯び、焰煙の四方に飛騰するを見る。

近所の知人を見舞って歩いた途中、月見橋から空を見上げて

鹿島龍蔵

夜が刻々迫るにつれ南方の空は刻々に下方より紅色を呈す。雪白の雲の峰は、全部紅蓮の雲の峰と化す。幾回となく屋根に登りて観察す。一面の火色、天をこがす焰と云うのは此の事だと思う。

田端の自宅に戻ると、火の勢いが強まっていた

混乱

東京の火災は9月3日午前10時まで丸2日近く続いた。旧東京市の被害は市街地面積の約4割。

折からの台風の風向きが変化したことで延焼地域も変わり、避難行動を混乱させ、犠牲が増える要因になったとされる。

犬丸徹三

日比谷公園は大八車を曳き、ふろしき包みを背負って続々避難する群衆で溢れんばかりの状態であった。付近の建物から焼け出された人々には炊き出しをおこなって、握り飯を提供し、非常な感謝を受けた。

火災の危機を免れ、帝国ホテル表玄関から外へ出ると、避難民が押し寄せていた

八木彩霞

「日本ノ旦那様、ワタシ、子ドモ、八ツ、六ツ、四ツガ、アノ家ニ。死ニマス。助ケテクダサイ」と髪振り乱して泣き叫んでいるので、「よし助けてやる。待っておれ」と言うと、手を合わせて地面へ顔をすりつけて拝んだ。「よし」と引き受けたものの、(中略)とうとう駄目であった。(中略)泣き叫ぶ子供の声はいつしか消えて、今まで子供のいた窓から火を噴き始めた。婦人はあまり狂気して、火の中へ飛び込んで死なんとしかけた(後略)。

勤務先の元街小学校へ向かう途中、外国人女性に逃げ遅れた子どもの救出を頼まれた

押樋光乃

舟へ乗りました。これでまず一安心だと思うと、恐ろしい中でもうれしゅうございました。

(中略)ところが、あまりに火がひどいので、その舟の船頭が逃げてしまいました。こぐ人がないので、舟に乗っている人はみな心配し始めました。

(中略)夜でも昼のように明るく、ほうぼうで舟火事が始まります。その舟が風のままに、あちらへ行ったり、こちらへ来たりするので、もう生きた気はいたしません。逃げ遅れて岸で助けを呼ぶ声、舟が焼けて川の中へ飛び込んだ人がどんどん流れて来る。もう。その恐ろしさといったらありません。

夕刻、隅田川を舟で避難しようとしたが、対岸の貯木場はいかだまで延焼

八木彩霞

帰宅した。まさに六時過ぎであった。家族の者は(中略)、皆が手を取り合って無事であったことを喜び合った。その喜ぶ声が高まれば高まるほど近所隣では、「隣の旦那さんは帰られたのに、宅のはまだ帰らない。ワアー、ワアー」と、老人やら女やらが泣く声が激しくなってくる。可哀想でならなかった。

小学校で応急対応を終え帰宅後

佐多稲子

通りはあわただしい人の往来なのだが、ほとんど人声はなかった。

大きな恐怖にあって目を見張ったまま歩いているというふうであった。

日本橋から、寺島(現墨田区)の自宅に帰る途中で見た光景

不安な夜

確実な情報はどこにもなく、現実のものとは思われない目の前の惨劇に、人々は恐れおののいた。やって来た夜が、恐怖をさらに膨らませた。

八木彩霞

この山上には、無数の避難者が集っている。中には、我が家の焼けるの見し老人や、子供が生きながら火葬にされていることを思い浮かべて失神せる者、我が子の安否を気遣い半狂乱になっている者、手や足や顔にやけどをしたり、血にまみれて倒れているのを戸板に乗せて運んで来て家族を介抱している者、本覚寺裏の墓場より卒塔婆(そとば)を持ち来たり、火をたき、ナス、ウリ、トウモロコシなどを焼いて飢えをしのぐ者など、戦場のような騒ぎであった。自分は、この光景を眺めた時に全地球が全滅するのだなと思った。

八木の一家は自宅裏の野原へ避難し、一夜を明かした。横浜では二つの石油会社のタンクが炎上し、周囲にも延焼して大火災となった

高島山から見た横浜の大火災=八木彩霞画「関東地方大震災画録」(横浜開港資料館提供)

押樋光乃

まだ両岸はどんどん燃えていますが、岸とはだいぶ離れています。

だんだんそれも見えなくなり、広い広い海へ出ました。東京のほうの空は真っ赤に染まっています。あたりが明るくなり、東のほうからしずしず、日が何も知らないように昇りだしました。

みな無事な顔を見て、泣く人、笑う人、さまざまです。そこへ、おむすびを船の人が持って来てくださいました。そのおいしいといったら、ありません。

2日早朝、一家を乗せた船は隅田川河口の東京・芝浦に

流言

朝鮮人による犯罪やテロが起きるという根拠のないうわさが広がった。警察資料によると、横浜では9月1日夕方にすでに確認されたという。警察や軍隊もデマの拡散に加担し、またたく間に各地に伝わった。広がったデマにより、各地で武器を手にした自警団が結成され、さらなる惨劇を呼んだ。

佐多稲子

暮れかけてきて、どこからともなしに伝わってきたのは、朝鮮人が井戸に毒を投げた、という噂であった。

弟はどこから持ってきたのか、私に、消防の持つとび口を一本握らせた。弟はこれを私の護身用に、それも朝鮮人に対する護身用に握らせたのであった。(※内容に流言を含みます)

寺島の自宅長屋に戻り、家族とともに近所の空き地に避難した

八木彩霞

この日午後、我々が陣取っている草原へ巡査が駆けて来て、「皆さん、ちょっとご注意を申します。今夜、この方面へ、不逞(ふてい)鮮人が三百名襲来することになっているそうである。(中略)十六歳以上、六十歳以下の男子は武装して警戒をしてください」。(中略)午後四時過ぎ、向こうの山上で喚声が起こった。一同が振り向いてみると、白服を着た者が幾十人か抜剣して、たくさんな人を追いかけている。それを見た者は異口同音に「不逞鮮人襲来だ。白服のは、日本の青年団だ」と騒ぐ。(※内容に流言を含みます)

横浜市内各地で、銃や刃物を携えた自警団が組織された

押樋光乃

「朝鮮人が隊をして押し寄せてきた」「いま、この庭の山へ何人来た」とか、とてもとても怖くてなりません。遠くのほうでは、ワーワーというときの声が聞こえます。(※内容に流言を含みます)

一家は2日、歩いて東京・芝(今の港区)の知人宅に

DAY 2

地震発生

倒壊

火災

混乱

不安な夜

流言

一夜明けて

秩序

共助

交通

一夜明けて

恐怖の夜が終わった。しかし、人々の目に映ったのは、変わり果てた街の姿だった。

室生犀星

満山の避難民煮え返るごとし。正午近く、避難中の妻と子と合ふ。妻は予が迎へ遅き為め死にしにあらざりしかと云ふ。

早朝から、妻子を捜しに田端から上野へ向かった

八木彩霞

鮮人来襲の報、一層かまびすしく、放火、強奪、強姦、井水に投毒、鮮人と格闘せること等の報、しきりに伝えられた。この日、海軍陸戦隊が(巡洋艦)「五十鈴」「春日」等にて到着し、探照灯の光が暗澹たる空を照らした。避難地の混雑は昨日に同じく、重傷者の死亡、妊婦の出産等、目も当てられぬみじめさであった。(※内容に流言を含みます)

2日深夜から4日にかけて、海軍は横浜市内の警備のため陸戦隊を相次いで上陸させた

鹿島龍蔵

何処迄行っても同じ様なやけ跡に殆んど愛想をつかす。一望限りなき武蔵野が原の昔にかえり、煙雲低くたれて天日暗く、こげ臭き風は地をなでて来り、人々は発するなく、黙々頭をたれて音もなく歩いて居る。此の光景只「死の如く静かなり」。

京橋の会社に向かう道すがら、湯島天神→萬世橋→銀座・日本橋を観察して

犬丸徹三

付近の火勢は少しも衰えず、建物がつぎつぎ焼け落ちていった。日比谷一帯は焼け野原となり、着の身着のまま避難民の群れがさまよっているありさまは、筆舌に尽くしがたい惨状であった。

深夜から一睡もせずに明けた2日、帝国ホテルから見た光景

秩序

地震発生から1日が過ぎても混乱はやまない。しかし、秩序を保とうと動く人々もいた。

鹿島龍蔵

物情騒然。今にも戦争が始まりそうなり。一度屋根に上り、火事の観察をなし、下りて衆に半ば演説的に話をした。不逞鮮人の暴挙等は歯牙にかくるに足らざる事。

200人の避難者が身を寄せる東京・田端の自宅にて

犬丸徹三

帝都の市民にとってまず何よりも必要なのは、ニュースである。社屋が焼失し、取材活動も思うようにできない朝日、電通などの新聞、通信社にロビーや空室を提供した。英、米、仏、伊などの大使館にも部屋を提供した。

火災も倒壊も免れた帝国ホテル。最も有意義に使える方法は、と考えた

DAY 3

地震発生

倒壊

火災

混乱

不安な夜

流言

一夜明けて

秩序

共助

交通

共助

被災者は、知人を頼ったり、グループで助け合ったりして急場をしのいだ。

華族の屋敷や寺院などにも被災者が収容された。日本赤十字社の各地の支部から救護班が派遣され、赤十字加盟の30カ国以上からも支援が寄せられた。

犬丸徹三

食糧入手に奔走した三日目には、会計が八百円しかないと報告してきた。私は明日のことは心配するな、あるだけの金で食糧を買えと命じた。

そうこうしているとき(駐日米国大使が)「君を少し手伝いたい。アメリカから食糧を積んだ軍艦が到着するから、君の欲する分を進呈したい」と申し出てくれた。

現金が足りず、借金に走り回っている中で、駐日米国大使が帝国ホテルを訪問してきた

交通

関東大震災での旧東京市の罹災者は、人口の6割、約150万人にのぼるといわれる。被災者の多くは皇居前広場や日比谷公園、上野公園などで急場をしのぎ、東京を離れて郷里や親類宅に身を寄せる人も多かった。

室生犀星

産婦と子どもだけを国へかへさんと思ひ、赤羽指して行く。二三萬の避難人河口に蝟集す。今日汽車に乗らんこと思ひもよらず。雨ふり日暮れる。

混乱の東京から妻子だけでも脱出させようと、田端に近い赤羽駅に向かった

佐多稲子

ようやく乗り込んだ列車は、屋根の上まで人がいっぱいだったが、駅の陸橋に頭を打って落ちる人も一人ならず出た。目前でそういう人の死があっても誰もぼんやり見ているだけであった。

東京を脱出しようと、赤羽駅から関西に向けて汽車に乗った

室生犀星

一同途方に暮れていしに、十六七の少女のありて、我が家の座敷空いて居れば来りて憩みたまへと言ふ。白飯のお握り出でしとき皆この家の主人の好意に泪ぐむ。

夕方、東京脱出に失敗した赤羽で。一家はその後、室生の故郷の石川県に移住した

死者・行方不明
全壊・全焼
経済被害(GDP比)

関東大震災の被害(内閣府 令和5年版 防災白書)

膨張つづく首都が被災したら

首都圏を関東大震災が襲ったのは1923年9月1日のこと。当時の記録からもわかるように、人びとや街は大混乱に陥った。火災のみならず、揺れによる建物倒壊や津波、土砂災害などで10万人が亡くなる未曽有の「複合災害」だった。

このときの反省から、災害に強い都市をめざした街づくりが進められた。建物の耐震化とともに、延焼を防ぎ、避難しやすい道路や公園が整備された。

一方、戦後の高度経済成長、二度にわたる東京五輪、都心の再開発ラッシュなどで、首都圏の光景は大きく変わった。林立する高層ビル、帰宅困難者、といった新たな防災上の課題が生まれている。人口の膨張が続く首都が被災した際の被害と影響は、当時とは比べものにならない。

時代は移っても、突然人々を襲う災害に変わりはない。関東大震災から100年を迎えるいま、現代との違いや共通点を見いだし、改めて備えについて考えたい。

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