東日本大震災から3月11日で10年となります。被災地の復興や支援、福島第1原発事故への対応など、様々な分野で思いを寄せる人たちにインタビューしました。震災の経験は私たちに何を残したのでしょうか。
阪神・淡路大震災を首相官邸で経験、東日本大震災には地方議員として支援に駆け付け、熊本地震のときは現地の首長でした。大西一史・熊本市長が語る四半世紀の進化と課題は。
宮城県南三陸町の女性たちにぬいぐるみ作りを指導し、作品を販売し続けているファッションデザイナーの芦田多恵さん。共にもの作りをする度に「復興は終わっていないと実感する」といいます。
民俗学者の赤坂憲雄さんは「東北学」を提唱してきました。赤坂さんにとって、東日本大震災から10年という歳月は、「もう10年」なのか、それとも「まだ10年」なのでしょうか。
原発事故により福島県では一時8万人が、国の避難指示なしで故郷から離れました。多くが我が子を放射能から守るためでした。離れられなかった人も大勢いました。母親たちは皆、苦しみました。
東日本大震災という未曽有の大災害は、日本の社会や経済、歴史に何をもたらしたのでしょうか。経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大学名誉教授に、文明史の視点から聞きました。
俳優の秋吉久美子さんは、小学生から高校生までを福島県いわき市で過ごし、東北を応援しています。震災から年、秋吉さんは言います。「この国に、絆はありますか?」
夢を持って原発を推進し、退職後に移住した福島県富岡町で東電福島第一原発事故に遭遇。それから避難生活を続ける北村俊郎さんは「悔しい」と言います。一時帰宅に同行しました。
東日本大震災があった年の夏、サッカーの日本女子代表は史上初の世界一に輝きました。主将だった澤穂希さんは「目に見えない力が背中を押してくれた」と振り返ります。
震災時の官房長官、枝野幸男氏は「災害への準備をしていなかったことが最大の反省」と言います。その教訓から「恒常的に大きなチームを」と政府の体制の見直しを訴えています。
暗闇が映す真実が好き。イランで4歳で孤児になり故郷と家族を失った女優サヘル・ローズさんはそう話します。心の闇を抱えながら、被災地での出会いを重ねて、見えてきたものとは。
映画「君の名は。」の主題歌などで知られるRADWIMPSの野田洋次郎さんは、ほぼ毎年3月11日に震災の曲を発表してきました。被災地への「思い」が抑えられないと言います。
東日本大震災を機に、東北に魅せられた作家がいます。神奈川出身の角田光代さん。「数え切れないほど訪れている」という宮城県石巻市で話を聞きました。
あの日、地元テレビ局の番組ロケで宮城県気仙沼市にいたサンドウィッチマン。逃げた山から街が津波にのみ込まれる瞬間を目の当たりにしました。2人はいまも被災地に通い続けています。
フィギュアスケーターで2006年トリノ五輪金メダリストの荒川静香さんは仙台育ち。故郷も被災した東日本大震災から10年になりますが、「風化させてはいけない」と語ります。
「スポーツの力」が叫ばれ、東京五輪は復興を旗印に招致されました。選手の中にも、被災地と向き合い続ける人がいます。サッカーの長谷部誠が宮城県南三陸町に足を運び続ける理由とは。
原発は過酷事故には至らない――。そういう「安全神話」にすべての関係者がとらわれていました。当時、危機管理審議官として官邸で対応にあたった高橋清孝さんはそう省みます。
三陸鉄道の復興支援列車は、津波で絶望が襲った5日後には走り始めました。「あまちゃん」で知られた三鉄がこの10年、運んだものとは。当時社長だった望月正彦さんが語ります。
被災者目線の対策は実現可能か――。30年前に長崎県雲仙・普賢岳で起きた噴火災害には東日本大震災やコロナ禍へと続く課題がありました。大矢根淳・専修大教授が目撃した「解」とは。
岩手県陸前高田市出身の写真家・畠山直哉さんは東日本大震災で実家を失い、母親を亡くしました。現地に通い、撮影する中、「記憶と忘却」「提案の言葉」「コロナ」を考え続けています。
岩手県陸前高田市の中学校に通い、被災後の日常と復興を調査した研究者グループの1人が日本女子大の清水睦美教授です。そこから見えたのは従来とは別の学校像だったといいます。
東京電力福島第一原発事故の「国会事故調査委員会」委員長を務めた黒川清さん。国会事故調の実績を、いまの「コロナ禍」でも生かすべきだと言います。どういうことでしょうか。
東日本大震災の前から「原発震災」を警告した地震学者、石橋克彦さん(76)。南海トラフ巨大地震をはじめとする複合災害に向け、社会の姿を変えていく必要性を訴えます。
東日本大震災では、造成地の大規模な地滑りも発生した。大地震のたびに各地で「宅地崩壊」が繰り返されるのはなぜか。京都大防災研究所教授の釜井俊孝さん(63)に聞きました。
震災とコロナ。ふたつの緊急事態を結んで見えるのは民主主義の代表制の欠陥だ、と若手憲法学者のエース、江藤祥平さんは言います。解決のキーワードは「くじ」だという真意を聞きました。
岩手県宮古市の櫛桁一則さん(48)はあれからずっと被災者に映画を届けています。避難所で、仮設で、災害公営住宅で。この10年で900回を超えました。その活動から見えたことは。
国内外の被災地や貧困地域で子どもの支援を続けるNPO法人「国境なき子どもたち」(KnK)。創設者のドミニク・レギュイエさんが3・11を通じて、感じ、考えたこととは。
東日本大震災では、原発事故で農産物の出荷が規制されました。食の安全を求める心理は被災地産の買い控えを引き起こします。厚生労働省の責任者だった加地祥文さんに振り返ってもらいました。
東日本大震災で米軍は「トモダチ作戦」と呼ばれた支援を繰り広げました。心に残ったものは。放射能汚染にどう対処したのか。作戦を指揮した当時の米海軍空母打撃群司令官に聞きました。
映画監督の中村真夕さんが福島の取材を始めたきっかけは、全町避難の町に残る男性の存在でした。「震災10年が終わったらオラたちは忘れられるべ」。レンズを通して見たものとは。
宮城県石巻市の石巻赤十字病院の医師だった石井正さん(57)は10年前、地域住民22万人の救護活動を統括しました。教訓は後の災害に生かされ、人材育成にもつながっています。
「余生は、福島と切り離せない」。日本文学研究者でシカゴ大名誉教授のノーマ・フィールドさんは3・11直後、そう直感しました。日米双方を知る人ならではの思いを、聞きました。
東日本大震災で、自衛隊は最大10万人体制をとり、被災者の救援や放射線下での原発対処にあたりました。「史上最大の作戦」を指揮した折木良一・元統幕長に当時の思いや教訓を聞きました。
東日本大震災発生後間もなく、上皇ご夫妻は被災した7都県を連続して訪れました。被災地訪問にはどんな思いが込められていたのか。当時、宮内庁長官だった羽毛田信吾さんに聞ききました。
共同通信記者だった青木理さんは、フリーに転じて5年後に東日本大震災に遭遇します。震災という「悲劇の土台」を生かせなかった政治に異議を申し立て続けています。
多くの遺体と向き合うこともある災害派遣。自衛隊員のメンタルヘルス対策は、いまや不可欠になっています。その原点は東日本大震災にありました。深く関わった元陸将が語ります。
東日本大震災で被災した福島県南相馬市の地域スポーツクラブ「はらまちクラブ」の江本節子理事長(74)が、人々に元気を届け続けたこの10年と「復興五輪」の空虚さを語ります。
韓国の知日派といわれる識者は、復興への道のりに関心を持ち続けてきました。その代表格である朴喆熙さんは、震災がアジアの地政学的変動と重なったことの影響を指摘します。
小説『永遠の仔』『悼む人』で知られる作家・天童荒太さんは、震災後を生きる人々を扱った小説や対話集を著してきました。震災から10年という歳月と現状をどう捉えているか聞きました。
未曽有の災害となった東日本大震災からの復旧復興で被災自治体を支える役割を担ったのが、民間から総務相に起用された片山善博氏でした。当時の菅直人内閣で感じた壁とは。コロナ禍のいまに続く課題とは。片山氏に聞きました。
東日本大震災後に東北に移住し、被災者の声や風景を記録し続ける映像作家の小森はるかさん(31)と、画家で作家の瀬尾夏美さん(32)に、記憶の継承などについて聞きました。
震災直後から宮城県女川町の保育所で、絵本の読み聞かせを続けてきた内田恭子さん。当初はもどかしさや迷いもありましたが、継続することで信頼が生まれていったと話します。
東日本大震災直後から政府の被災者支援策をとりまとめ、復興庁で事務次官を務めた岡本全勝さん。この10年近くずっと被災地にかかわってきた霞が関の「ミスター復興」に話を聞きました。
原発事故の前から脱原発の活動を続けてきた世界的なミュージシャンの坂本龍一さんは、アーティストは「炭鉱のカナリア」のような存在だといいます。その意味するところは。
日本社会は10年前の原発事故直後になった「急性ストレス障害」から、ある種の「慢性トラウマ」に――精神科医、香山リカさんはこう分析します。克服には何が必要なのでしょうか。
東日本大震災で九死に一生を得た菊池由貴子さんは、「大槌新聞」を創刊、復興とその課題を書き続けています。「忘れてほしくないのは『悲しみ』ではない」と菊池さんは言います。
会いたい、会わせたい
生きる、未来へ
海からみた被災地
あのときの、ラジオ
特集:3.11東日本大震災
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